愉快なサイゴン生活

まもなく9年目を迎えますサイゴンライフ
まだまだ日々新たです。
感動を伝えます。

その2 我が健康観  定命

2016-06-08 20:25:09 | 日記
その2 我が健康観  定命

定命(じょうみょう)とは人の命、寿命は一定していて
前世からの因縁によって定められた寿命があるってこと。

生まれたときにはいつ死ぬか決められていること!!
だから明日死のうが
3年後か
10年後か
悩む必要なし

生きたくても死にたくても死の日は決まっています。 仏教って凄いです。
最高は8万4千歳

改めて我が健康観死生観を書きたくなる。

昨夜は午後9時半まで雨が
最終的には午後10時過ぎまで降り
風は強く肌寒いくらいでドアを閉める。

ベランダの温度は24度
気分がよくて昨夜も99年の愛最終夜を鑑賞

そして日系アメリカン人422部隊のことなど関連の情報を調べていて
パソコンを使ったテレビドラマや映画の見すぎでした!!

今朝も坂の上の雲の第2部9話広瀬の死までも鑑賞

まあ涼しくて健康で楽しめば嬉しいですね!!
ホントここまで気温が下がったのは久しぶりです。

ところが健康でなくなりました。

突然の睡魔
目が覚めません!!
さめてもぼうっとしています。
なんだかいつもの自分でない!!

原因不明の大病が出現かって
気が小さいです。

明日お迎えが来てもいいと
のたまいながらの
この小さい人間
に腹立ちです。

でもレジェンドホテルの吉野をやめて
GoVap区のTano-Qさんに到着したときには
完全に覚醒し元気かもってなもの!!!!

そして凄いボリュームの食欲
食べながらオーナーさんや近くで会社を設立した社長さんらの話を聴く!!












なんだか結構元気回復でした。

学生のお土産はいつもの2区のファミマ


本日はチュンくん先生のクラスが担当
8年もサイゴンにいて新しいマンゴスチンの皮の剥ぎかたを学ぶ!!
美味しかったです。そして本日はオフィスも教室もフルーツが一杯!!みなさんありがとう!!





夕食は1区のサイゴン博多区しょうきでした。






さて
本日はさような健康状態で時間さへあれば
身体動かし心を落ち着け心身の健康回復に努めました。

そして只今午後7時前に帰宅
午後7時前の帰宅は嬉しいです。
チャミーにプレゼントを!!!!!!

こちらは結構雨降ったみたいで家の近くは大冠水でした。

ってなことで本日は我が健康観の考察したくなる。

昔の我が夢は大学は67歳定年まで勤め
先ずは鍛えた身体でボルネオのキナバル山
ついでタンザニアのキリマンジャロ山をこなし
そして最後がスイスのマッターホルン山に登頂すること!!

そしてそこで元気な老人として75歳くらいで
下山中に滑落死を偽った自死で人生の幕を閉じることが憧れだった。

ところがベトナムと縁あってデーブと旅した2007年ベトナム旅行で
とくにサイゴンに一日で惚れて
大学を辞めて2008年
来越

もうまもなく9年目を迎えます。

そして数年前に富士山すら登山できずにショックなことが!!

まさかサイゴンライフ、スクーターライフが
ここまで足腰を劣化さすとは思ってなかったが!!

我が健康観で顕著な貢献をしていただいたのは
80歳から100歳を超えて
ユニークな生き方を健康に
送っている人生の先輩たち。

我が恩師の先生たちは
残念ながら80歳の壁は高く
この坂を登りきらないで逝かれた!!

なかなか90代100代到達は至難の業

ホントに我輩は長生きしたいとは願ってはないが
一人でも我輩の存在をありがってくれるなら
ベトナムで貢献して死にたいが!!

人生の大先輩たくさん:我が健康道場に大いに貢献していただきました。
でもとくに下記の二人が大好き!!

二人の本を読み
あるいはTVや雑誌に頻繁に登場したお二人から
健康に生き活躍するための生き方について超刺激を受けました。

一人は104歳で亡くなられて加藤 シヅエさん

(旧姓:広田、本名:静枝、1897年(明治30年)3月2日 - 2001年(平成13年)12月22日)は、日本の優生学思想普及者・婦人解放運動家・政治家。父は工学者・廣田理太郎、夫は政治家の加藤勘十、娘はコーディネーターの加藤タキ。称号は東京都名誉都民。早くから産児制限に関わり、「不良な子孫の出生を防止する」と謳われた1948年の優生保護法成立に、同じ日本社会党所属の衆議院議員である福田昌子や太田典礼と、政治的には保守派であった参議院議員の谷口弥三郎と共に深く関わった。1951年、アメリカ・マキノ島での道徳再武装国際会議に参加。道徳再武装との関係は娘タキに受け継がれた。

一人は101歳で亡くなられた三浦敬三さん

三浦 敬三(1904年(明治37年)2月15日 - 2006年(平成18年)1月5日[1])は、日本のプロスキーヤー。
青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校(現 青森県立青森高等学校)、北海道帝国大学(北海道大学)農学部卒業。
北大在学中に八甲田山での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田のフィルム記録にスキー滑降で参加した。青森林友スキー部に所属し、選手、監督、部長を経験した。全日本スキー連盟の技術委員を務めたこともある。
1955年(昭和30年)、51歳で青森営林局を退職し、東京都練馬区に移住。この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行った。また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残し、イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞する。また、イタリアのソレントにある山岳博物館には、作品が展示されている。
還暦を過ぎてから海外での滑降を始め、70歳の時にヒマラヤ、77歳でキリマンジャロを滑降する。88歳の時には、アルプス・オートルートの完全縦走を果たす。2004年2月には99歳でモンブラン山系のヴァレブランシュ氷河からのスキー滑降を成し遂げ、同年9月にはスポーツ振興への貢献により内閣総理大臣表彰を受けた。100歳では、アメリカのスノーバードで、親子孫曾孫の4世代での滑降を行い、話題を呼ぶ。
その後半生は青森を離れ東京で生活したが、故郷の八甲田山をこよなく愛し、八甲田山の山スキーシーズンであるゴールデンウィーク期間には必ず酸ヶ湯温泉に訪れ、山スキーを楽しんでいた。また、酸ヶ湯における「混浴を守る会」の男性側代表を2005年から務めていた。
2006年1月5日、多臓器不全のため101歳で死去した[1]。
息子三浦雄一郎、孫三浦豪太(元オリンピックモーグル代表選手)もまたスキーヤー・登山家であり、エベレストの登頂に成功している。

そして今年84歳になるその息子の三浦 雄一郎(1932年10月12日 - )の生き方も参考になります。

日本のプロスキーヤー及び登山家である。クラーク記念国際高等学校校長、全国森林レクリエーション協会会長、札幌市手稲区親善大使[1]。青森市5代名誉市民。

先月我輩はとっても刺激的な素敵な夢を見て目覚め!! 70歳からの登山の夢をブログに書くつもりで下書き!!
その1 70歳から登山の夢

平成28年 西暦2016年5月16日 月曜日

5時前の夢がとっても刺激的で素敵な目覚め!!

夢の中で数十名と登山へ
3000m級らしい!!

現実と夢の中の出来事が自由に行き来できるのがいいです。夢って!!

サイゴンにやってきて10年近くもスクーター生活
世界一便利なバイク文化の国
買い物から食事にお遊びに仕事に
どこへもバイクでお出かけできる文化だ整っています。


ってことでコーヒーを飲むことにすらバイクで出かけます。
ってこことで筋力の低下は著しいです。

数年前富士山に久しぶりに登ろうって計画
一時帰国して1週間ほどは毎朝散策に出かけ、お昼は京都の東山で昼食、散策しながら市内に下山
そして喫茶店で過ごす至福のときを!!!  これなら富士山も楽々って自信満々に富士山登山旅行ツアーに参加

グループ参加の皆さんからお元気そうね!!
このグループで一番山なれしてそうって!!
それが皆さんの中で一番の
8合目でダウン!!!

結構ショックでした。

ってことでサイゴン生活をするからには山は諦めってなっとく!!

でも今朝の夢は神のお告げ

グループで先ずは1泊目のキャンプ場
夢です。 結構宿泊できる小屋も建っています。

ここで下書きが終了していて
あの時何を思っていたか
思い出せません!!

やっぱ年取れば
思ったことは即実行しなくては忘れてしまいます。

そして何度もブログしたとは思うが三浦雄一郎の
65歳のときに札幌の藻岩山に登ったが
メタボで登れなかったって記事。
余命は3年って!!

それを克服して80歳でエベレスト登山を!!
これまた何度も記事やテレビで紹介されたが!!

いい記事を見つけたので紹介します。
コピペ


エベレスト登頂の三浦雄一郎氏が妙高市で「攻めの健康法」話す
2013年11月16日 (土) 21:15 –


 2013年5月に80歳の世界最高齢でエベレスト登頂に成功した登山家、三浦雄一郎氏が2013年11月16日、新潟県妙高市の妙高市文化ホールで開かれた「妙高市民の心 推進大会」の中で約750人を前に講演した。自分を追い込む攻めの健康法や、若いころに国体や日本選手権で赤倉や関温泉のスキー場に訪れた思い出などを話した。

妙高市で講演した三浦さん(11月16日・妙高市文化ホール)

 三浦さんは1932年10月12日、青森県生まれ。1966年に富士山直滑降、1985に世界七大陸最高峰のスキー滑降を達成、2003年には次男豪太さんとともにエベレストに登頂し、当時70歳7か月での世界最高年齢登頂記録を樹立した。2008年には75歳7か月で2度目のエベレスト登頂、そして2013年に80歳で3度目のエベレスト登頂に成功し、世界最高年齢登頂記録を更新した。

 講演で三浦さんは、76歳のとき3度目のエベレスト登頂を決意したときにさかのぼって話を始めた。以下、講演の骨子。

80歳に向けてトレーニングを開始したが、スキーのジャンプで失敗して左大腿骨と右骨盤4箇所を骨折し、救急車で運ばれた。北大の医師も手の施しようがなく、家族はエベレスト登頂をあきらめると思ったようだ。

 魚屋からもらってきた鮭の頭を1日1匹、主食にして2か月食べ続けた。10人のうち3人が寝たきりになると言われたが、2か月で骨が付き始めた。そして、半年足らずで歩けるようになった。私の父(敬三)は、90~97歳までスキーとトレーニングで3回骨折している。90歳を超えると骨がくっつかないと言われるが、父は3回ともくっついた。そして99歳でモンブランを滑った。

 現役を引退した60代になると、朝早く起きる必要はなく、運動は散歩程度。身長164cmなのに体重88kg、体脂肪率45%で、狭心症の発作が度々あった。検査したらカルテが赤字だらけ。血圧が190もあり、高脂血症、糖尿病も入っている。「余命が3年あるかどうか」と言われた。

 メタボを治すのにエベレストへ登るのが一番だと思った。そのためにトレーニングをしようと、65歳のときに札幌の藻岩山に登った。標高が531mなのに30分も登ると脂汗が出て、あと10分で山頂だったが、腰を下ろしたら立ち上がれなかった。それからトレーニングを始め、足におもりを付け、背中にザックを背負って散歩した。半年で5、6kg体重が減って、500mをゆっくり登ったら登れた。1年で富士山に登った。3年経ったら片足におもりを5kgずつ付け15kgを背負った。最後は片足10kg、背中に30kgを付けてトレーニングした。メタボは治って70歳でエベレストに登った。

 人間は希望、夢、目標をあきらめない気持ちが大事。できない理由よりも、できる理由を探す。どんなことも諦めない。病は気からで、治すのも気持ち。具体的に行動してみることが大事。

 新潟県はスキーのメッカ。スキーは最高のスポーツでアンチエイジングにも最高で、攻めの健康法につながる。いくつになっても元気なことが、家族の絆の原点だ。

2回目の休憩
午後8時41分