「猫の妙術」は江戸時代(享保十二年)に書かれたお話です。
猫のネズミ退治を題材とした短編小説ですが「剣の極意」のみならず「合気道の極意」にも通じる、実に奥深い話です。
要点を、私なりの解釈も取り入れてご紹介します。
「猫の妙術
勝軒という剣術家の家に、部屋を荒らしまわる大きなネズミが現れた。
近所からネズミ捕りに優れた猫達を集めてみたが、大ネズミを獲る事ができないどころか、ことごとく、逆に噛み付かれてやられてしまった。
勝軒も木刀で立ち向かうが、手におえない。
そこで彼は、少し遠いがネズミ捕りが抜群な猫がいると聞き連れてきた。
見た所その猫は、ちっとも強そうではなく、頼りなさそうな、年老いた古猫だった。
ところが、部屋へ追い入れてみると、大ネズミはすくんで動かず、簡単に捕えてしまった。
その夜、猫達は、古猫を上座に招き、心境を語り、古猫から教えを受ける事になった。
(鋭い黒猫)
私はネズミ捕りの家に生まれ、幼少より修練し早業軽業で獲り損じた事はなかったが・・・。
(古猫)
あなたのは、所作、つまり小手先の技だ。
そのために、いまだに、”狙う心”が抜けていない。
形や動作の稽古は、それを通して正しい理合を学ぶためであって、表面的な速さや華麗さが問題ではない。
表面だけを追っていては、かえって弊害となる。
(虎毛の大猫)
私は氣を練る事に心がけてきた。
まず気迫で相手を圧倒し、自由に応戦し、相手を取り押さえる。
何も考えなくとも、技が自然に出てきてしまうほどになったが・・・。
(古猫)
気迫の勢いに乗っての働きで、自分に頼む所がある。
相手の気迫の勢いが、こちらより上回っていたらどうする?
相手は必死になって、勝ってやろうとも思わず、ただ死にもの狂いでかかってくる。
捨て身になったものには、歯がたたないのは当然だ。
(灰毛の猫)
私は心を練ってきた。
気迫をださず、争わず、相手が強く出てくる時は、相手の勢いに逆らわないように対応してきた。
常に相手との調和を保ってきたが、今日の大ネズミには通じなかった・・・。
(古猫)
あなたは、自分の”思い”で調和しようと努めているのであって、自然な調和ではない。
わずかでも自分の”思い”があれば、相手は敏感に察する。
作為した人工的な調和は、真の調和ではない。
(古猫)
それらが作為から出るか、無心から自然に出るかで、天と地ほどの差がある。
ただ、思うことなく、自然に従って動く時は、”自分”という形もない。
”自分”という形がなければ、”敵と自分”といった相対関係も生まれないから、自分に敵対するものは何もないのだ。
しかし、これが最高の境地ではない。
昔、隣国に古猫がいた。
一日中眠ってばかりで全然活気がない、木で作ったような猫であった。
その猫がネズミを捕っているのを誰も見たことがない。
ところが、その猫の周りにはネズミが全くいないのである。
そもそも、その猫の周辺にはネズミが全く出没しなかった。
この猫は自分も敵も意識することがない、心に何の囚われもない、本物の”無心の境地”にあったのだ。
自分もいなければ、敵対するネズミもいない。
”敵なく我なし”
こうなると、何もネズミを退治する必要もなく、自然にネズミもいなくなる。
彼こそ、己を忘れ、物を忘れ、物なきに帰した境涯でとても及ぶ処ではない。
勝負を超えた、最高の境地だ。
(勝軒)
”敵なく我なし”とはどういうことか?
(古猫)
相対的なもので、我があるから敵ができる。
我なければ敵もない。
自分の心に象(かたち)がなければ、対するものもなくなる。
対するものがなければ、争うものなどない。
それを”敵もなく我もなし”という。」
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