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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

注連縄(しめなわ)作り

2012年09月22日 | インポート
愛野町に八幡(はちまん)神社というのがある。

八幡神社という名称の神社は、全国にたくさん存在している 。

以下は、ウィキペディアによる「八幡神社」の解説。


八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

 概要
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。また応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。

八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。

比売神はアマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。

比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)等とする説もある。近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。

応神天皇は、母の神功皇后の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、神功皇后は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。

八幡神社の祭神は応神天皇だが、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇と、母である神功皇后をともに祀っている神社も多い。


歴史
「八幡」の文字が初めて出てくる『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。託宣をよくする神としても知られる。

石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。


朝廷との関係
北九州の豪族国造宇佐氏の氏神だったが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。


隼人出兵
養老4年(720年)、隼人の乱が勃発し、朝廷はこれを鎮圧しようとして宇佐八幡に神託を仰いだ。すると八幡神は、「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と自ら征討に赴いたという。


東大寺大仏建立
天平勝宝元年(749年)聖武天皇が国家のシンボルとして奈良の大仏を建設するとき、宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、これを助けた。


宇佐八幡宮神託事件
神護景雲3年(769年)、天皇の位を狙っていた道鏡は、称徳天皇によって道鏡を次の皇位継承者に指名させようとして、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。しかし、朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除(そうじょ)すべし」との託宣が下り、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けて道鏡の目的は達成されなかった。(宇佐八幡宮神託事件)


承平天慶の乱
天慶2年(939年)の藤原純友・平将門の乱(承平天慶の乱)では調伏が石清水八幡宮で祈願され、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まった。そのため、石清水八幡宮への天皇・上皇の行幸・御幸は、円融天皇以来240回にも及んだ。

なお、『将門記』によれば、平将門は八幡大菩薩の神託を受けて「新皇」を称したという。


皇祖神として
八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。

誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した。


武家との関係
清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壷井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。

治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。

平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。


神仏習合(八幡大菩薩の号)
僧形八幡神東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。

平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。

明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会は、それぞれ仲秋祭、石清水祭へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。

しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。


全国の八幡宮・八幡神社
八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。


総本社
宇佐神宮八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。

宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

また今の福岡県の飯塚市大分(だいぶ、嘉穂郡旧筑穂町)にある大分宮(大分八幡宮)は宇佐神宮の本宮であり筥崎宮の元宮であると宇佐八幡宮の由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」に書かれてもいる。


以上は、ウィキペディアによる「八幡神社」の解説。



いろいろな歴史やいわれがある神社であることが分かる。

皇祖神であるということは、明治天皇以降の天皇家一族の顔写真が祀ってあることから納得できる。

上記の解説から、日本における宗教体系の変遷が見えるし、大方の家に神棚と仏壇が並存していることにも納得がいく。


本日は、その八幡(はちまん)神社の「おくだり」前の注連縄(しめなわ)作りに出掛けた。

お寺さんでは、そのお寺に繋がっている人達を門徒や檀家と呼び、神社ではその神社に繋がっている人たちを氏子と呼ぶ。

私の家は、真宗大谷派の光西寺の門徒であり、八幡神社の氏子でもある。



檀家と門徒と氏子に関して、橋本正信さんという人は、以下のような解説をしておられる。

 門徒とは「一門の徒輩」ということで、仏教各宗派でも使われておりましたが、現在は浄土真宗の信者を指す言葉となっております。
 檀家とは、梵(ボン)語のダーナパティという言葉から生まれたもので、元の意味は布施をする人のことです。

 日本では鎌倉時代以後に使われだした言葉で、信者の所属する寺院を檀那寺と呼び、寺に所属する者を檀家と呼んで世襲的に寺院を維持する体制を作りました。

 檀家という言葉が広く使われだしたのは江戸時代からで、宗旨人別帳、あるいは宗門改人別帳と呼ばれるものを寺院が作成し、管理する制度(いわゆる檀家制度)が徹底されたためです。

 江戸幕府は1660年以後、寺院に対して、檀家の各人がキリシタンでないことを証明し、檀家の武士や庶民の家の戸主・家族・奉公人・出入りの行商人などについてもその名前、年齢、所属の寺などを記した戸籍台帳のようなものを備え付けるよう命を下しました。

 寺院はこの台帳を元として、個人が自分の寺の檀家でありキリシタンでないこと、また、檀家の者の住居移転や奉公・結婚・旅行などの際には、寺請証文と呼ばれる証明書を発行しました。つまり寺院は、幕府の庶民支配機構の末端の役割を果たしたのでした。

 またこの台帳は、庶民から職業の選択や、転居・結婚などの自由を奪いました。
 そして、権力者にとって権力を維持するための身分制度の徹底といった政策を実施するには有効な手段でした。

 つまり、江戸時代の寺院は権力者の側に立ち、権力を維持する道具として利用され、差別を温存する役割を担ってきたのでした。それが檀家制度なのです。

 この制度は明治の廃藩置県と共に廃止されましたが、寺と檀家の寺檀関係は残り、宗教が「家の宗教」という認識で現在も続いております。

 余談ですが、明治政府は檀家制度を廃止した代わりに、氏子制度という神社との関係を強制しました。また、それまで決して家の中にはなかった神棚を祀ることも強制し、国家神道・戦争の道を突き進んで行ったのです。

 浄土真宗は「家の宗教」から出発する教えでなく、個の救いが家の宗教となり社会一般に広まることを願っておりますので、檀家という家を単位とする言葉を極力用いませんでした。

 そして、浄土真宗の教えを信仰する者すべてが、寺でなく宗門の大事な個であるという意味で「門徒」と呼んできたのです。門徒の門は宗門・一門の門という意味です。

 どの言葉もそうですが、特に檀家という言葉の裏には重く悲しい歴史があります
 私は江戸幕府の封建制と、差別である身分制度を象徴する言葉が「檀家」であると考えております。

 何も知らずに檀家という言葉を使っておられたなら、これからは使わないようにしましょう。特に浄土真宗の方でしたら、「門徒」という立派な言葉があるのですからなおさらです。


ということだそうだ。


また、以下は注連縄(しめなわ)についての解説。

 神祇辞典(大正13年東方出版)

 シメナハ(注連縄・標縄・七五三縄)

社殿の四周、又は、民家の門戸等に懸けわたして、内外を區劃する標(しるし)の縄。
もと尻久米縄(端出之縄)といひて、
藁の尻を断ち切らずして、そのまま込め置きたる縄の義なりと云ひ、
又、占有の義にして、縄を延べてある地域を我が領となすによる名なりとも云ふ。
略して「シメナワ」とも「シメ」とも云ひ一に日御綱とも云ふ。
之を飾るを注連飾と云ふ。手力男ノ神、天照大御神を天ノ石窟より引き出し奉りし時、布刀玉ノ命、尻久米縄を以て、これより内に還り入り給ふなかれと云いし故事に基づき、後世、神事には凡てこの注連を引渡す習ひとなれり。
注連縄には、その形によりて、
前垂れ注連・鼓の胴・大根注連・牛蒡注連・輪飾り豊年等の種類あり。
何れも新しき稲藁を左綯いに縒りて作り、これに紙垂(シデ)を挿みて垂る。
「しめの子」の数、紙垂の向方等、種々の方法を唱ふるものあれど、必しも拘泥すべきにあらず。
又、各社古来の慣行によるものもあり七五三のしめの子を
七は天神七代の形、五は地神五代 三は三貴子に象ると云ひ、七五三は併せて十五也、天道は十五にして成る也、など言へるもあれど、神道名目類聚抄に、或説曰縄は正直の儀、端を出すは質素の體なり、、、
七五三等の数の事は、後人の附會なりと云へるを信ずべしとなす。
その懸方は、綯い始めたる方を本とし、上位(神前に向かいて右)になして懸くるを本義とす。
注連縄は神事の神聖を保つ表徴として、最、人目を引く物なるにより
神社等にありては、平素、常に新しきを懸くる注意、肝要なりとす。


以上は、注連縄に関する解説。


八幡神社の氏子の中から、15名ほどで、「おくだり」の前準備として、3つある鳥居や、本殿前の注連縄(しめなわ)などを、新しいものに架け替えるための作業を行なった。

稲藁を「わらじごろ」という木製の道具でたたいて柔らかくし、縄にする時によりやすくする作業をする者、高い木の枝にロープをかけて、そのロープの先端にしめなわを結び付けてよっていく作業をする者、よりあがったしめなわの飛び出している藁をカットする者などに手分けして作業を進めた。

朝の8時から始めて、午後3時前には飾り付けまで完了した。

昼前ぐらいから雨が降り出したが、作業が出来ないほどの雨でもなかった。

昼食はカツ丼の出前を皆でいただいた。

日当として6千円ももらった。

「おくだり」の寄付金として、氏子一戸当たり5千円の徴収があっていた。

9月30日に、「おくだり」と「おのぼり」を一日で済ませるということに今回は決まっている。

以前は、農業を主とする就労形態だったが、現在は勤めに出る就労形態に状況が変わって来ており、神社のお祭りに二日間を費やすことに無理が生じるようになったことから、一日で済ませてしまうという事に今回は決まったという。

また、そのための準備作業や、おくだり当日の神輿(みこし)担ぎや道具持ちなどをする人には、日当を出さなければ人が集まらないような状況になっているという。

本来の趣旨から外れてきているように思うが、これも時代の流れか。

「わらじごろ」という道具を使っての「藁打ち」という貴重な体験が出来た。


豊田一喜