クリオネな記憶

   :徒然なるままに:

ある日の、吉野家牛丼物語 ♪

2008-02-23 23:50:50 | 事物の記憶

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 深夜は今冬最後の纏まった雪になるかも知れません。明日の朝はきっと金華山も真っ白な雪景色。


 さて先日、何時も来るお値打ちな給食弁当が仕事出先に配達されない事を知った。つまり其の日、予約の失敗を確認した訳だ(苦笑)。そこで久し振りに、近くの"吉野家"へ牛丼を目指した。狂牛病を一時忘れる健忘症は承知で

偶然座ったのがU字の底辺、そこを独り占め。意外に見晴らしが良いものだ。向こうには忙しく働く調理場が見える。眼を移すと、左右のカウンターに、10人程が鳥の如く居並ぶ。そして、注文の"並盛"が来るのを暫く待つ間、頗る気になる2組が左と右、向かい合わせの鏡のように座って居られた。。。


 左カウンターの真ん中に、父と15歳ほどの息子。育ち盛りの子は黒ぶちの眼鏡をぼんやり掛けて、如何にも全身が空腹を顕して居る。すると、「お待ちどうさまw」、っと優しい吉野家コンシェルジュのお出ましになる。その時、私に驚愕が走った。なんと、並盛り2つドンブリとお味噌汁が一つ、まとめて御膳に乗せられ、息子に差し出されたのだ。実に初めて私は、並盛りを2つ、美味しそうに胃袋に収める男子を見た ! (色んな意味で凄いぞ。。。)
父は、並盛に赤生姜をてんこ盛りにする、所謂、吉野家の"通"であった。


 片や向かい合わせの、右カウンター真ん中には、年頃のカップル。
ほぼ二十歳前後かと想われる。美形な容姿に人生の陰りは見られない。並盛を一椀づつ、互いに淡々と口に運ぶ姿が微笑ましい。その間、主だった会話を聞くことはなかった。何時かは、何らかの言葉が有って然る冪と聞き耳を立てていたが、結局終始淡々と牛丼並盛が消費されて逝った。若しかして、此のカプゥは、焼肉屋でも淡々と箸を動かすのかも、と余計な想像力が働いて仕舞った今日この頃である。(笑)

(取り敢えず、おしまい)


検索用単語: ある日の吉野家牛丼物語

Yo Yo Ma

2008-02-14 23:46:53 | 事物の記憶

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O o 。 Yo Yo Ma の音曲で、気持ちの高揚を図ってます 。o O
O o 。 ( 動画のおじさん、切れ味の良いタンゴ、宜しく しますねっw ) 。o O

検索用単語: Yo Yo Ma

政治的翻弄 (3)

2008-02-11 10:25:29 | 政治の記憶

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中日新聞/WEB

佐藤ゆかり議員の2年半<下> 自民に「難題」、残された不信感
2008年2月11日


( 佐藤ゆかり氏が東京5区への転出を表明した会見の様子を見守る後援会役員の堀敏夫さん=岐阜市内で )


 「相手の方は“離婚”して帰っていただける」。一月二十七日に開かれた自民党、野田聖子元郵政相(岐阜1区)の後援会の新年会。村瀬恒治会長は勝ち誇った表情であいさつし、二年半前に「嫁ぐ思いで」と岐阜入りしながら、東京5区転出が濃厚になっていた佐藤ゆかり氏(比例東海)を皮肉った。

 同じころ、佐藤氏の支援者は「岐阜に残ってほしい」との思いから署名活動を行っていた。主導した岐阜市の堀敏夫さん(72)はこの発言に「自民の票をなくすだけ」と不快感を示した。

 署名は高校生や市外在住者も含めて一週間で二万千七百四人分が集まり、三十日に党本部に届けた。しかし今月八日、佐藤氏は野田氏と並んで党本部で会見、東京5区転出を公表して笑顔を見せた。

 会見の中継をテレビで見ていた堀さんは「本人もすっきりしたのではないか。岐阜の後援会は残す。野田さんは岐阜1区以外に行き場所がないから」とあきらめ顔。夜中には佐藤氏と電話で一時間以上も話し込み、佐藤氏の判断を受け入れることにした。

 会見では野田氏も「ここ数年、世界平和などについて誰よりも話をしたいと願ってきたのが佐藤さん」と強調。野田氏は後援会の新年会でも「(佐藤さんが岐阜に来て)私が頑張ってこなかった部分が分かった」と謙虚な姿勢を貫いている。

 しかし党本部や一部の後援会役員の主導で、歩み寄りが“つくり出されていく”流れに、地元では拒否感が根強い。二〇〇五年の郵政選挙で佐藤氏が獲得した八万千百八十九票がどう動くかが注目されるが、佐藤氏派の地方議員からは「二人にまんまといっぱい食わされた。支持者に説明できない」「(野田氏陣営から)自分の選挙で受けた仕打ちは忘れない」との不満が漏れる。

 佐藤氏が支部長の岐阜1区支部役員は「(JR岐阜駅前の)岐阜シティ・タワー43や幹線道路の事業を進めてくれた」と佐藤氏の実績を評価。「本音では東京に戻りたかったんだろう」として党本部の裁定に表立って反対はしないが、「次は野田さんに投票するか? そう簡単じゃない」とほのめかす。

 前回の郵政選挙で、岐阜1区の投票率は小選挙区制になって最高の70・45%を記録し、佐藤、野田両氏で投票者の八割近くとなる約十八万票を獲得。本社の出口調査によると、無党派層は42%が野田氏、27%が佐藤氏に投票した。次回はこれが計算できない上、党本部の事情による公認候補の差し替えでしこりや不信が残っており、対処を誤ると自民には深手になりかねない。党県連の猫田孝会長代理は「佐藤氏派の議員や後援会幹部らをいろんな角度から説得してまとめていかないと。県連として誤りのないようにきちんと対応する」と手綱を締める。

 佐藤氏は十一日午後一時から岐阜市文化センターで新年会を開き、地元支持者らに東京5区への転出を説明する予定。

 佐藤氏にほれ込んで街頭演説に通い、五十人以上の知人を陣営に紹介してきた岐阜市の主婦(70)は、こんな気持ちで出席するという。「今はもう自民党には一切かかわりたくない。まず佐藤さんの岐阜への正直な思いを聞きたい」



検索用単語: 野田聖子/佐藤ゆかり


政治的翻弄 (2)

2008-02-11 00:01:02 | 政治の記憶

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中日新聞/WEB

佐藤ゆかり議員の2年半<中> 自民の亀裂、野党の躍進招く
2008年2月10日


( 野田聖子氏(右)が自民に復党後、野田氏支持の地方議員が多い党岐阜市支部の会合で同席した佐藤ゆかり氏=2007年2月、岐阜市内で )


 「恩返ししたい。ガス欠でも走り続ける」。2007年4月の岐阜県議選。当時、自民党副幹事長だった佐藤ゆかり氏(比例東海)は、盟友の笠原多見子県議の決起集会で声を張り上げた。選挙中は付きっきりで街宣に回り、「天下分け目の選挙。精いっぱい応援します」と支援を呼び掛けた。

 佐藤氏はその直前の告示日に、予定していた笠原県議の出陣式を欠席、物議を醸していた。実は佐藤氏はその日、今回転出が決まった東京5区と選挙区が一部重なる都議補選などの応援に向かっていた。佐藤氏派の陣営からは「東京の選挙区に移る気ではないか」と不満が漏れた。

 報道陣に囲まれ、佐藤氏は「(党から)応援の割り振りを受けた。前日まで戻るつもりだったが、ご迷惑をかけた」と説明した。しかし、佐藤氏の関係者は「党本部からは『地元優先で』を条件にしての応援要請だった」といぶかる。

 05年の総選挙により、岐阜市の地方議員は野田氏派と佐藤氏派に割れた。この県議選では5人の自民候補が出馬し、両氏にとって自分に近い候補を当選させるのは重要な課題だった。告示日に各陣営を回っていた野田氏は、親しい市議から佐藤氏が岐阜にいないと知らされ、驚いた表情を見せた。その後、こんな会話を交わした。

 市議「佐藤さんも党でいろいろとあるんだな」

 野田氏「でも地元候補の応援も党務です」

 市議「これからしっかり応援するんだろ」

 野田氏「今日は大事だよ」

 当時、野田氏は「副幹事長の党務って? みんな地元に帰る。私は大臣の時だって戻ってきたんじゃないかな」と佐藤氏の行動に首をかしげた。佐藤氏が「私が(岐阜1区)支部長」と自分に従うよう主張していたことから、「肝心な初日にいない。そんな支部長いるのかな」とまで語った。

 この県議選では5人の自民候補のうち、野田氏が後援会を挙げて支援した現職が落選した。内部の亀裂が深まる自民をよそに、共産新人は1万6400票を集めて2位、民主新人は1万5900票で3位で当選した。佐藤氏は「自民があぐらをかいていてはいけない。無党派層の対策が必要」と問題を提起した。

 3カ月後の参院選岐阜選挙区では、藤井孝男元運輸相が自公推薦で当選したが、岐阜市内の得票数は6万9934票。民主公認で当選した平田健二氏の8万3259票を下回った。自公が3分の2以上の議席を獲得し、岐阜1区で実質的に2人の自民候補を当選させた郵政選挙から2年弱。1区の公認争いを早急に決着させ、挙党態勢を整えなければ、とても次の選挙を戦えないことは、もはや誰の目にも明らかだった。

 今年1月3日、野田氏は岐阜市の伊奈波神社前での演説で「自民の批判票が多すぎる」と危機感を訴えた。翌日の本紙取材には「(公認問題の解決は)早い方が修復しやすい。切り捨てではなく、それぞれが活動できる場はあると信じている。佐藤議員を失ってはならない」と主張した。

 「勝てる候補」を公認候補の選定基準に党本部が野田氏を岐阜1区、佐藤氏を東京5区に振り分ける方針を決めたのはそのすぐ後だった。



検索用単語: 野田聖子/佐藤ゆかり


政治的翻弄 (1)

2008-02-10 23:56:21 | 政治の記憶

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中日新聞/WEB

佐藤ゆかり議員の2年半<上> 支持基盤広がらず
2008年2月9日


(小泉純一郎首相(当時)(左)の応援を受ける佐藤ゆかり氏。中央は松田岩夫氏=2005年9月、岐阜市内で)


 自民党の野田聖子元郵政相と佐藤ゆかり衆院議員(比例東海)が保守を二分して公認を争った“岐阜の乱”は、佐藤氏が東京5区に転出することで決着した。「岐阜県に嫁ぐような思いで」。2005年8月、佐藤氏は縁もゆかりもない岐阜の地で政治家人生を全うする決意をにじませた。それからわずか2年半。佐藤氏の足跡を追った。

 「党人として党の決めたことは筋をもって受け止めます」。自民党本部で8日、野田氏と並んで会見に臨んだ佐藤氏。党本部の裁定に不満はのぞかせず、調整に骨を折った関係者への感謝の言葉をしきりに口にした。

 党本部は野田氏を「勝てる候補」として岐阜1区の公認に選んだ。県議時代から約20年間、岐阜市で活動を続け、後援会員は1万人に達した。市内の49校区ごとに後援会支部を持ち、秘書がこまめに支持者を回って地盤を固めてきた。

 2005年の総選挙で佐藤氏は8万1189票を獲得。野田氏に1万5000票差まで迫った。本社の出口調査では自民支持者の6割近くが佐藤氏を支持。複数の自民関係者は、県議や市議の支援に加え「松田さん(松田岩夫参院議員)の力が大きかった」と口をそろえる。

 1996年の総選挙で当時新進党だった松田氏は野田氏に約4000票差で敗れた。松田氏の有力な支持者の男性は「佐藤さんが来て、松田対野田の戦いが再燃した」と当時の様子を振り返る。岐阜市のある議員は「松田さんから直接、佐藤さんを支持するよう頼まれた」と打ち明けた。

 佐藤氏は岐阜入りから1カ月足らずで野田氏の強固な地盤に風穴を開けたかに見えた。しかし、自前の組織づくりは進まなかった。松田氏のつてで佐藤氏の後援会長を引き受けた市内の経営者男性は選挙後しばらくして辞任。「(佐藤氏は比例区名簿1位で)当選が決まっていたし、頼まれてやっただけ。(東京5区転出について)コメントはない」と口を閉ざす。

 後任には市内の会社社長らの名前が挙がったが、いずれも固辞した。野田氏の後援会長は地元を代表するコンクリート会社社長。佐藤氏の関係者は「後援会長は議員の代わりに矢面に立つこともある。誰も火中のクリを拾おうとしなかった」とため息をついた。06年の佐藤ゆかり後援会の収支報告書では、代表者の欄に東京の秘書の名前が記されている。

 野田氏のように佐藤氏も市内の49校区ごとに後援会組織を立ち上げようとしたが、できたのは7校区ほど。10校区程度は準備中だ。後援会員は5000人を超えているが、野田氏の半分。最近まで、秘書もなかなか定着しなかった。

 小泉純一郎元首相が送り込み、“刺客”と呼ばれた佐藤氏は「私が支部長で、次期衆院選の公認予定者」と訴え、地元をまとめようとした。佐藤、野田の両氏を間近で見てきた党岐阜市支部幹部は「党本部の威光を振りかざしている印象を与え、反発を招いた」と指摘。「肝心の本人が何を考えているのか伝わらなかった。『私も仲間に入れてほしい』と言えればよかったのに。都会的な魅力はあるが、地方ではなじまない」と漏らした。

 06年12月に野田氏が復党してからは岐阜市議も距離を置き、今や佐藤氏だけを支持する自民市議は24人のうち3人になった。その1人は東京5区への国替えが決まり、失意を込めてつぶやいた。「党本部の応援がなければ、もうどうしようもない」

 (岐阜1区問題取材班)



検索用単語: 野田聖子/佐藤ゆかり


春間じか・・・

2008-02-09 01:15:07 | 事物の記憶

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O o 。 春間じか、皆様に感謝、再会そして再開の喜び 。o O


ご無沙汰致しました、皆様。

長い間留守にしてましたこと、深謝します。

皆様から温かいコメントを頂き。。。 誠心誠意、有り難う御座います!! 。。。 m(_ _)m

keichan は年齢の割に元気だと判りました。

これから暫くブログ時間を調整出来る体制に持って行けそうで、

"クリオネな記憶"に戻ります。\(^o^)/フォー

新しい"クリオネな記憶"を紡(つむ)ぐ為に、

政治向き、経済向き、社会向き、文化向き、科学向き、仕事向き、生活向き、

更に"前向き"に、邁進する所存です。

きょうは、私的ランドマーク・橋頭保の日と致しました。



検索用単語: 森田童子