ハナっから忠告しておきます
今日も酔っ払いです。
ってことで
かなり
電波な文章になっているかもしれません
あしからず。
うちのユニットに定期的に訪問してくれる
看護士さんが異動となりました。
そのため
送別会に参加してきました。
うん、お世話になりました。
日中パンツ一丁で
ひたすらゲームをしていた
俺に、元彼女さんからメールがきたことと
今現在読んでいる小説に喚起されて思ったこと。
元彼女Aさんは
「牛は食べられるけど馬刺しとかは無理。だって可哀想じゃない」
といって
馬刺しやらジンギスカンにはあまり手を出したかがらない人でした。
人は地球上
食物連鎖の頂点に立っています
力関係的にみれば
ライオンやトラに立ち向かっても
食べられてしまいますが
檻の中で管理はできる立場にいたり・・・
俺なんてちょっと気合の入ったネコや犬に
やられる気満々ですけど。
小説で
「野菜なんかは食べれるけど肉はむり」
みたいな表記があって
思ったことと元彼女との関係を踏まえてね。
摂食障害、詳しくは各々調べて欲しいけど
過食や拒食が
人生でナンかしら障害になってしまっていることと
僕は解釈してます。
のことがあってね。
元彼女さんが
「コンビーフなんて競走馬で勝てなかった馬とか
怪我とかで薬殺されて馬が挽肉になってんだよ
可哀想で食べられない」とのたわってました。
競走馬がコンビーフになる事実云々は
僕自身が調べて真実か都市伝説かは
知りませんが
元彼女さんは牛肉と豚肉、鶏肉なんかは
モリモリ喰っているんですよ。
なんか矛盾してませんか?
という言葉を
飲み込む。
サラブレットなんかは
人間が金儲けをするために
品種改良をして
自ら出産すらできない品種です。(出産時子馬をなんかしらの力で引っ張らないと子馬は無事出産できないのです。)
人のために走ることを使命とされ
それにそぐわなければ死にいたるのです。
それを今更
競走馬となれなかったため
人の口に入ることを拒否する理由がさっぱりわかりません。
人間のエゴで生まれ
人間の都合上
人間の栄養となるため挽肉にされる・・・
(ちゃんと人の口に入ることを前提にされている馬とは別にして)
何がおかしい?
人は食物連鎖の頂点にいることを考えると
何が矛盾しているのだろうか?
走れない馬となり
土葬されれば
その栄養は植物の糧にもなる。
人が摂取するかどうかだけの違いだけかもね。
何かしらのカタチで循環しているだけってだけでね。
ベジタリアンなんて人がいるらしいが
どのような心意気でそれを
貫いているのか本意が俺にわからない
以上つっこまないけど。
その人達もイキモノである植物を摂取しているわけで。
僕は馬刺し大好きだし
牛肉も豚肉も鶏肉も好きだ。
ジンギスカンもうまけりゃ喰う。
生命に対する感謝は足りないかもしれんが
うまければ喰う。
ただ、馬だから可哀想ってはのは大きな間違いではないかと
思う。
元彼女が「可哀想だから食べない」ってのは自由かもしれんが
どっかの馬だとかが
人に食べられるために加工されている事実は
変わらないわけです。
さっきまで馬だったのが
人に食われるための肉になるという現実を
全く考えていない言動はいかかなものかと思う。(牛や豚は喰っていて
その発言は如何なものかなという意味で)
俺自身
鶏すら首を捻り、首を落とし血抜きをして
羽をむしり
我が血肉及び排泄物としたことはないから
あんまり強いことは言えない立場にあるのだけど。
でも
誰かが僕の代わりにその行為を行っている。
牛だってそうだ。
誰かが金のため
誰かが誰かの命を紡ぐため
牛のこめかみに一撃を喰らわしているのだ。
なんだかんだいって
何かを奪って
己の命を紡ぐしかないのです。
だから元彼女の発言になんかしらの
憤りを感じてしまうのです。
人が人を食べること。
カニバリズムと言うらしいです。
以前
このブログでカニバリズムは
カーニバルが語源にあったと記しましたが
どうやら違うらしい。
ここも詳しくは己で調べてください。
あんまアナタの人生を左右する情報ではないであろう事柄なので。
カニバリズムには大きくわけて
2種類あるらしいです。
一つは
宗教的なカニバリズム
一つは
犯罪的なカニバリズム
前者は死者やその人の力や霊的なもの
その人が持つ力を得たいがため
または
供養的な意味合いで行われていたらしい。
後者は
倒錯した感情で行われる。
ここも詳しく知りたいひとは
勝手に調べて。
貧困や飢餓のなかでも行われるらしいが
調べたりないので。映画「生きてこそ」とか
みてください。
俺も観てないけどね。
極限状態におかれた俺は
人を食べるだろうか?
その状態におかれたことはないので
僕が僕であるために
人を食べるというタブーをするかもしれない。
僕が僕であるために
そこに喰える人肉があっても
己の死を覚悟して喰わないかもしれない。
なんかそんなことを考えました。
元彼女から
当たり障りのないメールがきたからね。
ただ
人がナニかの生命を奪って
人が生きながらえて
人の一生を紡ぐことに
無駄に意味を求めすぎているのでは
人の一生について
意味合いを求めすぎてやいないか
僕が僕であるための理由を求めすぎてやいないだろうか。
そんなことを
酔っ払った頭で考えがら
帰路につきました。
きっと僕が僕であることに意味はない
社会に依存し反発しながらも
惰性で生きているのが
きっと僕だ。
大きな力には抗えない。
たとえ変える力を持っていたとしても
それは
自己満足だ。
まずは己をカエル力が必要だ。
ここに僕がいることは
どうしようと変えられない。
それを自覚して生きる力が欲しい。
何が残せるかもわからないけど。
今日も酔っ払いです。
ってことで
かなり
電波な文章になっているかもしれません
あしからず。
うちのユニットに定期的に訪問してくれる
看護士さんが異動となりました。
そのため
送別会に参加してきました。
うん、お世話になりました。
日中パンツ一丁で
ひたすらゲームをしていた
俺に、元彼女さんからメールがきたことと
今現在読んでいる小説に喚起されて思ったこと。
元彼女Aさんは
「牛は食べられるけど馬刺しとかは無理。だって可哀想じゃない」
といって
馬刺しやらジンギスカンにはあまり手を出したかがらない人でした。
人は地球上
食物連鎖の頂点に立っています
力関係的にみれば
ライオンやトラに立ち向かっても
食べられてしまいますが
檻の中で管理はできる立場にいたり・・・
俺なんてちょっと気合の入ったネコや犬に
やられる気満々ですけど。
小説で
「野菜なんかは食べれるけど肉はむり」
みたいな表記があって
思ったことと元彼女との関係を踏まえてね。
摂食障害、詳しくは各々調べて欲しいけど
過食や拒食が
人生でナンかしら障害になってしまっていることと
僕は解釈してます。
のことがあってね。
元彼女さんが
「コンビーフなんて競走馬で勝てなかった馬とか
怪我とかで薬殺されて馬が挽肉になってんだよ
可哀想で食べられない」とのたわってました。
競走馬がコンビーフになる事実云々は
僕自身が調べて真実か都市伝説かは
知りませんが
元彼女さんは牛肉と豚肉、鶏肉なんかは
モリモリ喰っているんですよ。
なんか矛盾してませんか?
という言葉を
飲み込む。
サラブレットなんかは
人間が金儲けをするために
品種改良をして
自ら出産すらできない品種です。(出産時子馬をなんかしらの力で引っ張らないと子馬は無事出産できないのです。)
人のために走ることを使命とされ
それにそぐわなければ死にいたるのです。
それを今更
競走馬となれなかったため
人の口に入ることを拒否する理由がさっぱりわかりません。
人間のエゴで生まれ
人間の都合上
人間の栄養となるため挽肉にされる・・・
(ちゃんと人の口に入ることを前提にされている馬とは別にして)
何がおかしい?
人は食物連鎖の頂点にいることを考えると
何が矛盾しているのだろうか?
走れない馬となり
土葬されれば
その栄養は植物の糧にもなる。
人が摂取するかどうかだけの違いだけかもね。
何かしらのカタチで循環しているだけってだけでね。
ベジタリアンなんて人がいるらしいが
どのような心意気でそれを
貫いているのか本意が俺にわからない
以上つっこまないけど。
その人達もイキモノである植物を摂取しているわけで。
僕は馬刺し大好きだし
牛肉も豚肉も鶏肉も好きだ。
ジンギスカンもうまけりゃ喰う。
生命に対する感謝は足りないかもしれんが
うまければ喰う。
ただ、馬だから可哀想ってはのは大きな間違いではないかと
思う。
元彼女が「可哀想だから食べない」ってのは自由かもしれんが
どっかの馬だとかが
人に食べられるために加工されている事実は
変わらないわけです。
さっきまで馬だったのが
人に食われるための肉になるという現実を
全く考えていない言動はいかかなものかと思う。(牛や豚は喰っていて
その発言は如何なものかなという意味で)
俺自身
鶏すら首を捻り、首を落とし血抜きをして
羽をむしり
我が血肉及び排泄物としたことはないから
あんまり強いことは言えない立場にあるのだけど。
でも
誰かが僕の代わりにその行為を行っている。
牛だってそうだ。
誰かが金のため
誰かが誰かの命を紡ぐため
牛のこめかみに一撃を喰らわしているのだ。
なんだかんだいって
何かを奪って
己の命を紡ぐしかないのです。
だから元彼女の発言になんかしらの
憤りを感じてしまうのです。
人が人を食べること。
カニバリズムと言うらしいです。
以前
このブログでカニバリズムは
カーニバルが語源にあったと記しましたが
どうやら違うらしい。
ここも詳しくは己で調べてください。
あんまアナタの人生を左右する情報ではないであろう事柄なので。
カニバリズムには大きくわけて
2種類あるらしいです。
一つは
宗教的なカニバリズム
一つは
犯罪的なカニバリズム
前者は死者やその人の力や霊的なもの
その人が持つ力を得たいがため
または
供養的な意味合いで行われていたらしい。
後者は
倒錯した感情で行われる。
ここも詳しく知りたいひとは
勝手に調べて。
貧困や飢餓のなかでも行われるらしいが
調べたりないので。映画「生きてこそ」とか
みてください。
俺も観てないけどね。
極限状態におかれた俺は
人を食べるだろうか?
その状態におかれたことはないので
僕が僕であるために
人を食べるというタブーをするかもしれない。
僕が僕であるために
そこに喰える人肉があっても
己の死を覚悟して喰わないかもしれない。
なんかそんなことを考えました。
元彼女から
当たり障りのないメールがきたからね。
ただ
人がナニかの生命を奪って
人が生きながらえて
人の一生を紡ぐことに
無駄に意味を求めすぎているのでは
人の一生について
意味合いを求めすぎてやいないか
僕が僕であるための理由を求めすぎてやいないだろうか。
そんなことを
酔っ払った頭で考えがら
帰路につきました。
きっと僕が僕であることに意味はない
社会に依存し反発しながらも
惰性で生きているのが
きっと僕だ。
大きな力には抗えない。
たとえ変える力を持っていたとしても
それは
自己満足だ。
まずは己をカエル力が必要だ。
ここに僕がいることは
どうしようと変えられない。
それを自覚して生きる力が欲しい。
何が残せるかもわからないけど。
いいことです。
それでなくても 慌しい現実。
ふと 考える=立ち止まる。
結論なんか 出ないことが多すぎる。
それでも人は
息して 食して 寝て。。。
楽しくて 悲しくて
嬉しくて 切なくて
いろいろなことを
感じることができる。
素晴らしきかな
kazutoさんの人生^^b
すごくポジティブな
考えかただなーと
コメントを見て思いました。
出ない答えに悶えるのも
人生ですよねー。
サクっと割り切れたら
楽なんでしょうけど
そーもいかない。
なんだか元気が出ましたよ。
でも
なんか雑誌の原稿締め切りが
今日までだったらしく
人生に悩んでいる場合ではなかったです。
休日返上で原稿書きしまーす!
夜勤明けで脳が停止しそうですけど。