ほんとうの氣持ちって 自分では氣づきにくいんだなぁ、とつくづく思ったのは、ピアノ教師をしていたとき。
ピアノが弾けるようになりたいって 習いにきてくれたはずなのに、どうしてこうも受身で ヤル氣のない子が多いんだろうって、新米教師は不思議でした。
今ならわかるんだけれど、本人はもちろん 「自分はピアノ弾けるようになりたいんだ」 って思い込んでいるんです。
でも よくよく見ていると、ほんとうは 「華麗に演奏している かっこいい自分を賞賛されたい」 だったり、「○○という曲は弾けるようになりたいけれど、それだけで十分」 だったり、と 言っていることと実際の望みが いささかズレている。
中でも厄介だったのが、「実は 本人が弾きたいんじゃなくて、親が弾かせたい」 ケース。
子どもは 親の意を汲んで 率先して 「やりたい」 と口にするし、実際自分がやりたいんだと思い込んでいるんだけれど、ほんとうの動機は 親の望みを叶えることで 親を喜ばせ 愛されたい、というところにある。
親のほうは、わが子がやりたいというから習わせるんだと思い込んでいて、その奥にある自分のほんとうの氣持ちと その影響には氣づいていない・・・・というか、無意識のうちに 氣づくのを避けている。
ちなみにこれ、以前に書いた アニメ 「モノノ怪 ~ のっぺらぼう」 の お蝶さん母娘のパターンなんですね。
子どもは 自分の中にモチベーションがないから やる氣が出ないのに、やめたくないとがんばるし、そのくせ いくらこちらがあれこれくふうしても ちっとも楽しそうじゃなく、当然練習もほとんどしてこない (T_T)
一方 親は、毎週課題がどれだけ進んだか、よその子と比べてどれぐらい上達しているか、露骨に表には出さないけれど ひそかにチェックしており、折に触れて その氣配がなんとな~く伝わってきて ( ̄∇ ̄;)
この組み合わせがけっこう多くて、発表会前なんて 胃がキリキリ痛くなるようだったなぁ
こういう経験を通して、言っていることと 実際やっていることのズレから、ほんとうの思いが他にあると氣づくことを学んだのです (*^-^*)ゞ
人のことはともかく、努力しているのに 思いどおりの結果が出ないとか、望みは叶っているはずなのに どうも満ち足りないとか、自身の中に違和感を感じて どうにかしたいなら、思い切って 自分の心の内を おおもとまでたどって見るのが 最善だと思います。
このズレも、まず間違いなく 幼いころの否定的体験に行き着くはず。
記憶も及ばないほど昔 意図せず残してしまった痛みが、家庭内のいざこざから 社会問題、果ては国家間の争いにまでも 及んでいたりするのです。
ほんとうの思い。。。。これが 世のすべての問題のおおもとであり、解決のカギである、といっても 言い過ぎではない氣がします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます