人がよりよくなろうと努めるとき 一番苦しいのは、かくあれかしという理想はわかっているのに、なぜかそれに従う氣が起きないときではないでしょうか。
自分の意志の弱さを呪い、理想とかけ離れたそのありさまを責め、どうせ私はだめなのよと 投げやりな氣持ちになる、私自身そんな思いをどれだけしたことか。
でも今は、自信を持って こう言えます。
無理やり駆り立てるようなことは、いっさいする必要なし! (^0^)/
当ブログではすっかりおなじみ、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に、「十戒などというものはない」 というくだりがあります。
十戒は ほんとうは戒律ではなく 言質なのだと。
“これらのしるしが生じたとき、あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。
まじめに一生懸命に神を求める者なら、ここで否定されていることをしないと、わたしが約束するからだ。
そうしたふるまいを続けることは不可能になるはずである”
本来の十戒とは、「殺すなかれ ・ 盗むなかれ」 ということではなく、そういう行為をしようと思わなくなったら それが神への道を見出した証拠だよ、という 神からの保証なのだ ということですね。
いつからそんなふうに考えるようになったのか もう覚えていませんが、何かを変えようと思ったら 一番のおおもとから手をつけること、枝葉ばかりいくらいじっても 変化は望めない、という思いがあります。
で、幸せにつながらない考えや行動を変えようという氣になったとき、おおもとはどこかとたどっていったら、「言葉の及ばない思い込み」 に行き着いたんですね。
「言葉の及ばない」 というところがポイントだとわかっていなかったときは、明らかにそうするほうがいいとわかっていることに どうして反発するのかが 我が事ながら理解できず 悩みましたが、感覚フォーカスという手立てを得て さんざん試したところ、あの 「戒律ではなく言質」 という意味が 身をもってわかりました。
言葉では納得できないほど深いところに、進みたい道を曲げてしまうような思い込みが宿っていたのです。
それが 観察によって ただの思い込み (誤情報) に過ぎないと腑に落ちると、反抗して止まなかったものが 憑き物が落ちるように消え失せ、思考や言動が おのずとまっすぐに戻るのです。
ただ 意のままにならない力が生じる仕組みに氣づいて見つめるだけでよかった。。。。シンプルだけど 楽とはいえないし、それなりに時間や忍耐は必要ですが、どんなやっかいな嗜癖であれ、外から強引に抑え込んだり 戦って克服したりする必要はなかったのです。
そうわかると、今のように 「~してはいけません」 「~しましょう」 と言葉で外側から戒めるのは、マイナス面のほうがはるかに大きいのではないかという氣がしてきます。
内側からああそうかと得心すれば なんの抵抗もなく受け入れられることも、外から強制されれば 抗いたくなるもの。
納得できないのに 罰を避けるために 表向きだけ従う姿勢は、自由を奪うものへの反発を生みます。
大好きな遊びを止められれば 隠れてでもやりたくなるし、氣のすすまない仕事を言いつけられれば ますますその仕事がいやになる。
そして 意に染まないことに抗う姿勢を見せなくなったら、それこそ 「地獄の一丁目」 。
自分のほんとうの氣持ちを見失ったということだから。
一時は幅を利かせていた根性論も 今はだいぶ下火になったようにも見えますが、ならばなおのこと、相手のために ぜひとも聞き入れてほしい、実行してほしいと願うことを、わざわざ反発を招くようなやりかたで突きつけるのは もういいかげんやめにして、もっとすんなり受け入れられるアプローチに替えていければと思います。
日本人は 本音と建前を使い分けるのが得手だそうですが、統合へと向かう道のりに そんな二重構造はそぐわない。
ほんとうの氣持ちと行動が すっきりひとつになったとき、世の中から ギスギストゲトゲしたものが いつのまにか きれいになくなっていることに氣づくのではないかしら (*^^*)
一日も早く そんな日を迎えたいものです。
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