毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

分岐点

2016年10月02日 08時25分47秒 | ふと思うこと


おかしなものです。

これだけさんざん 「私たちは 自分の素晴らしさを体験したくてこの世にやってきた神のかけら」 などと書いておいて、そういう見方が いつ どこで 何から どのようにして入ってきたのかが まるで思い出せないのです。

あの 「勝手に師と祀り上げた人」 の勉強会で そういう類の話があったのはたしかだけれど、それが最初だったかというと。。。。。う~ん

少なくとも 成人するまでは 見聞きした覚えのない話ですが (23、4歳ぐらいまでは 貴秋も五感の世界オンリーだったのです) 、それ以降のその方面の記憶はぼやけたまま。

たぶん、あまり氣に留めぬまま あちこちで繰り返し見聞きして じわじわ浸透したものと想像されますが、もしかすると まったく初めての情報を知ったというより もとから記憶の底に沈んでいたものが呼び覚まされたという感じで、インパクトが薄かったのかもしれません。

あの 映画 「インセプション」 の 「始まりがはっきりわかっている夢を見たことがあるか? いつだって 氣がつけばすでにその中にいるのが 夢というものだ」 という話のようなものでしょうか。




五感を超えた世界は 五感の世界の法則や常識がまるで当てはまらず、言葉を介するか介さないかで 感覚 ・ 感触が まったく違ってきます。

言葉に支配される世界は平面的で、言葉の及ばない世界は立体的とでもいいましょうか、同じ絵だって 遠近法を使って描いたものと使わず描いたものでは 別物のように見えますよね、そんな感じ。。。。ってどんな感じだ




とりあえず ひとつ言えるのは、五感の世界の 「体験して初めて信じる」 という順序は、五感を超えた世界では通用しないということ。

先の 「インセプション」 の夢の話や、ミヒャエル ・ エンデの 「はてしない物語」 の 「あると決めれば ずっと昔から存在する」 という言葉のように、五感の世界とは異なる法則で成り立っているのが 五感を超えた世界のようです。

「それが確かかどうか 証明されて初めて信用する」 ことよりも、「なぜかわからないが とにかく信じよう ・ 受け止めようという氣持ちになった」 ことが 大きな意味を持つのですね。

「体験したから信じる」 のではなく 「信じるものを体験する」 のが 創造者の世界というものらしい。

五感を超えた世界では そんな 「ひたむきに信じる真摯な取り組み」 も、五感の世界にもってくれば 「妄想にとらわれた危なっかしいありさま」 となりかねません。

二つの意識を行き来する中で、形ある支えを持たないまま “自分をどこまで信じられるか” が 重要な分岐点になりそうです。























コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界は 自分は どう変わる? | トップ | いつのまにやら すっかり秋 »

コメントを投稿

ふと思うこと」カテゴリの最新記事