風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

哀切と痛切

2016-11-19 19:03:38 | 文藝
永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」という歌がヒットした。歌詞も良い、メロディ-も良い。題名も良い。旅へ又は夢への誘い。

多くの人に歌われた。多くの歌手に歌われた。その中で記憶に残っているのは、ジェリ-藤尾。

歌自体は上手いと言う訳でないかも知れないが、情感があった。耳に残った。静かな曲で一人で、ソロで、静かな楽器を傍らに、人の声だけが響く。

誰だったかな、様々な楽器があるが、人の声ほど魅力的なものはないと

微妙な切なさが残った。丁度、西に沈む真っ赤な残照のような。


東京に径書房という小さな出版社がある。山代巴文庫を刊行している出版社である。声を出して読むと、こみち しょぼうである。そこから「哀切と痛切」と言う題名の書籍を刊行している。作者は小栗康平。ホ-ムペイジで検索すると、筑摩書房にいた原田奈翁雄が創業したと。

筑摩書房の創始者は安曇野出身の古田晃。筑摩とは故郷の地名から命名した。当時は臼井吉見、唐木順三も創設に加わった。松本市にはいわゆる芸術家が集まった。今は深志高校となって、質は落ちたが、深志中学時代には芸術家の卵をふ化させたようである。

因みに信州には、信濃の枕言葉のみすずかるから命名したみすず書房もある。昔の出版社は、いわゆる良い本を出していた。知識人を編み出していたな。


「哀切と痛切」は随筆。色々な様々な思いを語っているが、題名の哀切と痛切は師匠であった浦山桐郎の話から拝借している。

浦山桐郎は兵庫県相生市の出身。キュ-ポラのある街、青春の門を撮っている映画監督。私が棄てた女では、ミツは許す女だからぶざまに死ななければならないと言っていたという。

相生湾は母親の子宮のように見えるとも言っていたという。

その浦山桐郎の弟子が小栗康平であった。小栗康平が泥の河を撮るにあたって、浦山桐郎から「哀切なら誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだと」言われたと言う。

人とは色々な面をもっている。感性や思考、すべてを同意できることはないだろう。この考えは支持できるが、あれは支持できないとか。この見方は同意できるが、かの見方は分からないとか、得てしてすべてと言う訳にはいかない。

しかし、言葉は人を表すとも言える。文は人を表すとも言う。言葉ひとつ、思いひとつで、その人の全体を表すこともあり得る。
哀切なら誰でも撮れる、それを痛切まで昇華する、客観性を持たせるとは、浦山桐郎や小栗康平の人を表している。

泥の河は宮本輝の作品。宮本輝は面白いと言うより、巧い書き手。経済的には幼児の絶頂から、底辺まで彷徨ったことにより、最上の生活と、最低の生活を味わったと。従って、教育受験も一流校を落ちたら三流校に行けと。

得てして、人は一流が駄目なら、せめて二流を目指す。しかし、二流では一生二流で終わろうな。二流が駄目なら三流に行けと。真理だな。

小栗康平は幸いにも出資者にも恵まれた。作品は泥の河。水上生活者とはいたのだが、郭舟とは架空であるようだ。郭と言う言葉は廃れつつある。誰れだったかな、郭で生まれ、育った役者は、白粉の匂いが嫌とか言っていた。まあ、百貨店の一階での生活であったろうな。

郭の女は、水仕事は無用である。大島渚は妻の小山明子には水仕事をさせなかったとか。水仕事をすると、生活の匂いが指に付くからとか。

哀切と痛切には、映画つくりの事も書かれている。映画も所詮、興行である。地方では映画館など多くはなく、興行には営業が憑き物である。文字でなく、映像とは嘘っぽい事もついて回る。

面白いなと思ったのは、泥の河の制作中では、小栗康平は子役と一緒に寝起きを共にした。いわゆる同じ釜の飯を食うのである。監督の言う事は絶対である。外との接触は厳禁、電話も駄目であったと。

そして、打ち上げの日には子役から思いきっり足蹴りを受けたと。背中が痛かったと。まあ仕方がないな

そう言えば、浦山桐郎も「私が棄てた女」のミツも自分が探してきて、寝食を共にしていた。そしてブスな女に育てあげた。まさに棄てられた女であった。許す女はぶざまに死んで浮かばれる。

役に成り切る事は、人の常識を取り去る事かも知れない。

加藤唐九郎が芸術の上では何をやっても良いと言ったが、芸術とはある意味で狂気がなければ、優れたものを生み出せないことは在り得る。

泥の河の子役も、小栗康平が見つけて、育てた。ある意味ではタコ部屋であろうな。それほど徹底しなければ、作品は生まれない。沢村貞子が分からなければ、首根っこをつかんでも、分からせると言ったが、真理だな。

私が棄てた女は読んでない
ただ、許した女はぶざまに死ななくてはならない

浦山桐郎は女が好きだった。誰しもじゃなく、特定な女が好きだった。浮名も流した。

愛と憎は裏腹である。
田舎者でブスで
しかし、許す女は・・・・・は俺には同感できる

いつしか、職人と話していて
仕事だと人と考えが一緒でないとできない。遊びでは違う考えでもできる。誰とでも考えが違っても遊べると言っていた。

俺と正反対なんだな
俺は仕事だと考えなぞ、関係ない。遊びこそ考えが一致しないと面白くないと思っていたがな

その職人も、仕事は共同でやる

映画や芝居はまさに、共同作業だから、仕事上考えが一致しないとできないかな

ましては、虚構を本当らしく作り上げるから、考えが一致しないと継続できないかも知れないな
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