ただいま、国立劇場開設50周年記念ということで、仮名手本忠臣蔵を通しで上演している。といっても、さすがにすべてを一日でというのは現実的ではないので、大序~四段目を第一部として10月に、五段目~七段目を第二部として11月に、そして残りを第三部として12月にというスケジュールだ。
先日、落語会で七段目をやらせていただいた小生、本物を見ようということで、先日第二部を見に行ってきた。構成は五段目の前の浄瑠璃「道行旅路の花聟」で開演。
休憩をはさみ、五段目から六段目を通しでやり、休憩。最後は七段目ということで、11時から16:15までの公演である。軽く5時間・・・
会場は、国立劇場の大劇場。落語会をよくやる演芸場とは比較にならない大きさ。とはいえ、席はさすがに設計が古くて狭い。
165cmにも満たない小生でも足がつかえるくらいで、長時間の公演は辛いぞ。さて、開演・・・で、ビックリしたことがある。
いわゆる掛け声を掛ける人がすぐ近くに二人いたのだが、小生のいた二階席からは見えない時点で、花道を歩く役者に掛け声がかかったこと・・・
えっ・・・これは・・・と思ったが、公演中ずっとナイスなタイミングで「音羽屋」「萬屋」「播磨屋」等々と・・・
うーむ、こりゃあプロの掛け声師なのか・・・と思ったが、調べたところ「大向こうの会」というのがあって、ほとんどがそういう方々という。
さて、五段目といえば落語「中村仲蔵」の題材になった段だし、六段目は落語「七段目」の中でもセリフの一部が取りあげられている。
さらにいえば、四段目も落語「淀五郎」や「四段目」でとりあげられているわけで、いかに落語の題材になっているかがわかる。
で・・・どうしてと言われれば、この公演時間を見ればわかる。歌舞伎は朝から夜までかかるし、高いのだ。庶民にとって、こんな時間も金もない・・・
そこで、仕事が終わった夕方から見に行ける寄席にいけば、歌舞伎の美味しいところをダイジェストで見せてくれるというわけ。
今ではすたれてしまったが、本物の芝居噺の存在意義もそこにあったわけだ。今回改めて、歌舞伎の公演が長いことに疲労感を禁じ得なかった。
決め事や様式美は否定しないが、このテンポというのは・・・なあと。まあ、座席が良ければ、そんなことは思わなかったのかも知れないが・・・
先日、落語会で七段目をやらせていただいた小生、本物を見ようということで、先日第二部を見に行ってきた。構成は五段目の前の浄瑠璃「道行旅路の花聟」で開演。
休憩をはさみ、五段目から六段目を通しでやり、休憩。最後は七段目ということで、11時から16:15までの公演である。軽く5時間・・・
会場は、国立劇場の大劇場。落語会をよくやる演芸場とは比較にならない大きさ。とはいえ、席はさすがに設計が古くて狭い。
165cmにも満たない小生でも足がつかえるくらいで、長時間の公演は辛いぞ。さて、開演・・・で、ビックリしたことがある。
いわゆる掛け声を掛ける人がすぐ近くに二人いたのだが、小生のいた二階席からは見えない時点で、花道を歩く役者に掛け声がかかったこと・・・
えっ・・・これは・・・と思ったが、公演中ずっとナイスなタイミングで「音羽屋」「萬屋」「播磨屋」等々と・・・
うーむ、こりゃあプロの掛け声師なのか・・・と思ったが、調べたところ「大向こうの会」というのがあって、ほとんどがそういう方々という。
さて、五段目といえば落語「中村仲蔵」の題材になった段だし、六段目は落語「七段目」の中でもセリフの一部が取りあげられている。
さらにいえば、四段目も落語「淀五郎」や「四段目」でとりあげられているわけで、いかに落語の題材になっているかがわかる。
で・・・どうしてと言われれば、この公演時間を見ればわかる。歌舞伎は朝から夜までかかるし、高いのだ。庶民にとって、こんな時間も金もない・・・
そこで、仕事が終わった夕方から見に行ける寄席にいけば、歌舞伎の美味しいところをダイジェストで見せてくれるというわけ。
今ではすたれてしまったが、本物の芝居噺の存在意義もそこにあったわけだ。今回改めて、歌舞伎の公演が長いことに疲労感を禁じ得なかった。
決め事や様式美は否定しないが、このテンポというのは・・・なあと。まあ、座席が良ければ、そんなことは思わなかったのかも知れないが・・・
私も歌舞伎にはまっていた頃、お正月は国立、歌舞伎座昼夜、新橋演舞場、浅草公会堂と、連日数時間の鑑賞をしたものでした。
花道の奥の鳥屋(トヤ)から出てくる揚幕を開けた時に、幕をぶら下げているのが金属の輪なので、「チャリン!」と勢いのいい音がします。
大向こうさんたちは、その音を聞いて「○○屋」と叫んでくれるので、とても気持ちがいいものでした。
なるほど・・・幕を下げている金属の輪の音に反応ですか。納得です。
今回普段あまりやらない部分までやってくれたので、いい経験になりました。