歴史マニアにして、落語マニアの小生としては、江戸時代というのはなかなか興味のあるところ。ちょっと前の記事でも日本はそもそも「鎖国」していないということを書いた。
今日は京都の寺社とか治水を通して、江戸時代と明治を比べてみたい。現在、我々が京都の寺院を見て、立派だなあと思うことが多いが、その多くは江戸時代に作られたものだ。
例外的に、醍醐寺のように豊臣時代に保護されたところもあるが・・・トップ写真の知恩院の巨大な三門(山門ではない、念のため)を見て、鎌倉時代の法然に思いをはせても、それは実は大きな勘違いなのだ。
そこには、江戸幕府の京都に対する思いも現れているし、政治的な思惑もあったようだ。たとえば知恩院は家康が信仰していた浄土宗であり支援したが、逆に苦しめられた浄土真宗については、東西の本願寺という形で宗派を分けて分断するとともに、巨大な寺院を作り、支援している形を作るといった・・・
一方で、その巨大な施設を維持するには相応のコストがかかるが、江戸時代の治世は巧みだった。京都の各本山に全国のお寺からの上納金の収納を認めさせ、さらに広大な寺域を認めることで、林業収入も認めたのだ。
これにより、幕府の公共事業で作られた寺院建築を寺院が自ら維持することが可能になったというのだ。
それが、明治になるとこれらの権益がなくなった上に、寺域がざっくり9割没収されたという。このことで、天竜寺が保有していた嵐山も荒れ果てるなど、変化は著しかった由。逆にいうと当時の寺域がどれだけ広かったかと・・・
この事態に怒ったのが勝海舟という。また、その勝海舟が晩年、明治政府と江戸幕府の治世の違いについて語ったことがあった。
治水の考え方について、江戸時代は、川の近くは堤防をそれほど高くせず、あふれた場合に居住区やより広い田畑に影響が出ないように広い川幅で受け止める設計にした。
そして、あふれることを前提にした田畑は非課税にした。そのため、そこで生産した作物の収入は農民にとっては純益になるので、彼らは洪水のときに被害が起こらないように努力したという。
それが明治になってからは、すべての土地に課税する代わりに、堤防を高くすることにした。ところがそれではなかなか洪水は防げないという・・・
防災と減災の違いというか治世の本質の違いを感じるところ。ちなみに江戸の治水で有名なのが、吉原から浅草にかけての日本堤。
ポイントはこの堤を作った後のメンテで、河原に桜並木を作り、たくさんの人が出て、踏み固めるようにした。さらに吉原を移設したことで、自然と毎日踏み固められるようにしたわけで、公共事業のあり方の象徴的な事例だろう。
我々は歴史を学ぶときに現在につながる明治は、すべてにわたって江戸時代より進化したものと刷り込まれてきた。
だが、それは本当なのだろうか・・・と。もちろん、すべてが江戸時代の方がいいはずもないのだが・・・あえて一石を投じておきたい。
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