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聖書はどう読めばよいのか (和田 幹男 神父)

2022-09-05 14:21:05 | 日記
『声』誌1997年10月号から


和田 幹男 神父 紹介

和田 幹男(わだ みきお、1938年4月26日 - )は、日本のカトリック教会の司祭。英知大学大学院人文科学研究科教授を務めた。現在、大阪大司教区カトリック関目教会主任司祭。

*生い立ち
宣教師に仕える伝道士の子として、神戸市に生まれる。4月29日幼児洗礼。霊名はパウロ三木である。

*学生時代
1961年上智大学文学部哲学科卒業。1963年上智大学大学院哲学研究科卒業。教皇庁立プロパガンダ・フィデ神学校、教皇庁立ウルバノ大学神学部入学。教皇パウロ6世により司祭に叙階された。1971年教皇庁立聖書研究所聖書学部卒業。

*司牧
1972年4月英知大学文学部神学科講師となる。同年から1987年まで新共同訳聖書旧約聖書の翻訳作業。1974年英知大学文学部神学科助教授となる。1975年尼崎教会助任司祭。1980年東京カトリック神学院モデラトール。1982年英知大学教授。1995年岡山ノートルダム清心女子大学大学院嘱託講師。2005年カトリック箕面教会主任司祭。2013年カトリック関目教会主任司祭(大阪梅田ブロック共同宣教チーム担当司祭)

『私たちにとって聖書とは何なのか』は、カトリック新聞に連載されたもので、カトリックの聖書霊感論の歴史を辿っている。



*著書
聖書学論集(日本聖書学研究所 山本書店 1981年)
聖書Q&A 旧約編(女子パウロ会 1988年)
聖書Q&A(女子パウロ会 1990年)
聖書年表・聖書地図(女子パウロ会 1989年)
聖パウロ(女子パウロ会 1996年)
宣言主イエス(教皇庁教理省 カトリック中央協議会 2006年)
創世記を読む(筑摩書房(こころの本) 1990年)
私たちにとって聖書とは何なのか―現代カトリック聖書霊感論序説(女子パウロ会 1986年)


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1.はじめに

聖書はどう読めばよいのか。 それぞれ好きなように読めばよいのではないか。 たしかに聖書は好きなように読んでよいし、そのようにでも読むほうが、読まないよりましでしょう。 しかし、それでよいのでしょうか。 わたしは小さい頃あるお兄さんに連れられて恋愛映画を見に行ったことがあります。 これは恋愛映画として傑作だったのですが、そこに出てくる馬に興味をもって見ていました。 この映画を作った監督さんがこれを知ったら、苦笑いするでしょう。聖書についても、同じことが言えましょう。

聖書をどう読むかということは、聖書解釈を専門とするわたしにとっても、重大な課題です。 聖書解釈は、あくまで聖書を正しく、深く読むための手段だからです。 聖書とはいかなる書物か、その聖書を読むのは何のためか、そのために聖書をどう読めばよいのかということは、 具体的な聖書解釈を行いながら常に意識しなければならないことです。 そうでないと、現に行っている聖書解釈そのものが、最終目的であると、勘違いしかねないからです。 聖書解釈は人間の学として様々な方法論を用いて行われるのですが、 そのそれぞれの方法論が有効かどうか、限界があるのかどうかの判断は、聖書解釈そのものからはなされません。 聖書解釈の専門家も、いっそう大きい視点からの聖書観、それに応じた読み方に耳を傾ける必要があると思います。

聖書とは何なのかという根本問題は、第2ヴァティカン公会議において総合的に検討され、その実りが『啓示憲章』に公表されています。 この憲章は、あらためて熟読したいものです。 その聖書論は、拙著『私たちにとって聖書とは何なのか』(女子パウロ会、1986年)の中で解説されています。

聖書をどう読むかを反省しようとすれば、現在参考にすべき文書があります。 それは1993年4月23日に教皇庁聖書委員会によって発表された『教会の中での聖書の解釈』です。 教皇ヨハネ・パウロ二世も、その発表当日の公式謁見においその作成にかかわった委員たちに感謝し、奨励されたのでした。 これは聖書の問題を扱ったレオ十三世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』発表(1893年11月18日)の百周年、 ピオ十二世の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』発表(1943年9月30日)の五十周年を記念しての式典でした。 聖書をどう読めばよいかについて、カトリック教会はこの百年そのときどきの疑問に答えてきたのです。 その流れをふりかえると、聖書を正しく深く読むために不可欠な示唆が与えられます。


2.問題の起源

聖書はどう読めばよいのかは、カトリック教会において19世紀の中頃から大きな問題となってきました。 それは主として聖書学者の問題でしたが、聖職者にとっては勿論のこと、信徒にとっても無縁ではありません。 どうして問題となったかと言いますと、当時現代的な意味での聖書学が起こったからです。 つまり、聖書をほかの古典書と同じようにその成立の歴史的背景を考慮し、 古代人の世界像を前提し、その固有の表現法を重視しながら批判的に解釈する方法が採用されはじめたからです。 現在では当然の方法ですが、これがはじめられた当時は聖書を批判的に解釈するとは何ごとかとされました。 聖書は啓示の書として、神がそのお考えを聖書記者に直接注ぎ込み、書くように意欲を起こさせ、 言葉も一つ一つ選んで間違いなく書かせたと信じられていましたので、 それを批判的に読むとは信仰そのものを否定することではないかと思われたのです。 聖書がほかの古典書と同じくその作成当時の歴史や地理、言語、表現法などの諸条件のもとで書かれたものであるとは、 あまり自覚されていませんでした。

他方、聖書学のほうも当初は未熟であったうえに、 聖書の成立とその内容をただ歴史的、社会的要因のみで説明し、超自然的な要因を度外視するかのようなこともあったのです。 この聖書学は特にプロテスタント学者や伝統的な信仰に批判的な学者の中で発達しましたので、 それだけでもカトリック教会はこれを危険視したのでした。 学問には批判はつきものですが、聖書を批判的に研究することにより、 キリスト教徒の中に信仰を疑い、棄てる者も出るのではないか怖れられたのです。 このような時代になって、聖書をいかなる書として受けとめ、どのようにそれを読むべきか、 教会として公式見解を示し、指針を与えようとしたわけです。 その最初の教皇文書がレオ十三世の回勅でありました。 また同教皇は、1902年には教皇庁聖書委員会を創設し、健全な聖書学の育成を計ろうとしました。

実際にはキリスト教信仰をこの世界内の因果関係で説明し、 超自然的啓示を疑問視するモデルニスムスに対する自己防衛のキャンペーンに終始しました。 問題視されるようになったモーセによるモーセ五書の著作性や 預言者イザヤによるイザヤ40-55章の著作性を伝統的な立場にたって擁護したのでした。 このような状況のもとで、信仰心の熱いカトリック聖書学者も異端とされるのではないかと怯え、自由に研究できませんでした。 他方、このような圧力のないプロテスタントの学者の中で、聖書学はますます促進されたのでした。 ドミニコ会士M・J・ラグランジュはプロテスタント聖書学に正しく有効な限り目を開き、 エルサレムにエコール・ビブリックを興し、 今日のカトリック聖書学の基礎を築いたのですが、苦しい思いをさせられたのでした。 ただし、教皇庁聖書委員会は当時の聖書学ではまだ証拠不十分だということで新説を認めないが、 聖書学者を励まし、研究に扉を閉じたわけではありません。


3.第2ヴァティカン公会議以前

時代が進み、古代オリエント各地の発掘調査も盛んに行われ、 聖書もその歴史的背景のもとで解釈しなければならないことが明らかになってきました。 ピオ十二世は、1943年に発表した回勅ではじめて公式に様式史的方法を聖書に用いることを認めました。 つまり、聖書は現代とは異なる古代の様式で書かれているので、それを考慮しないと元来の意味は読み取れないということです。 ただし、様式史的方法を福音書に用いることには、当時この方法論の立役者R・ブルトマンの聖書解釈には、 ほかの問題があったためか、保留されました。

福音書の解釈についてきわめて重要なのは、 1964年に教皇庁聖書委員会によって公表された文書『福音書の歴史的真実性に関する指針』です。 これは、手に入れがたいかもしれませんが、翻訳されています (上智大学神学会編集『カトリック神学』第6号、1964年12月、146~163頁)。 その内容は、福音書が伝えることを正しく判断するために、 歴史的人物としてのイエスが活動された段階、 使徒たちがそのイエスについてその死と復活の後に告げ知らせた段階、 その伝承を福音書の著者が書きとめた段階と、 この三つの段階を十分自覚するように呼びかけたのでした。

それはどういう意味かと言いますと、福音書を読めば、まずその著者の観点からのイエスが示されている、 換言すれば福音書に書かれていることは、そのままイエスが語り、行われたことを記録したものではないということです。 福音書は、まずその著者の著作意図に注目して読むべきだということなのです。 それはその著者の信仰の証しなのです。 これを明らかにしようとするのが、 1950年代にブルトマンの問題を乗り越えたプロテスタントとカトリックの聖書学者が用いはじめた編集史的方法の目指すところなのです。 福音書の著者は受け取った伝承を明確な意図をもって書き換えたり、書き足したり、解釈を加えたりして、 つまり編集作業をして福音書を書き著しているからです。 またその著者が伝承からイエスについて多くのことを受け取っていることも事実です。 ですから、その伝承の段階でイエスがどのように見られて伝えられたのかが研究の対象になります。

この段階のイエスも、その死と復活に基づいてメシア、つまりキリストとして信仰の目で見られていることは、言うまでもありません。 ここで、かつてブルトマンは、 福音書にはこの信仰されたキリストが読み取れるが、 歴史的人物としてのイエスについては何も読みとれないし、またそれを問うてもならないと主張しました。 が、この指針は福音伝承の起源に歴史的人物としてのイエスがおり、 このイエスが実際に行われたことや言われたこともかなり伝わっているとしています。 このことは、『啓示憲章』第19項に取り入れられました。


4.第2ヴァティカン公会議

第2ヴァティカン公会議(1962~1965年)も短くではありますが、『啓示憲章』第12項で聖書解釈について書いております。 これは疎かにできないものです。 その中で、特に聖書記者が「何を意味しようとしたか」、 つまり何を言っているかではなくて、何を言おうとしているか、その意図を読みとる必要があると強調しています。 わたしなりに聖書の文章を読むのではなく、その著者が何を言おうとしているのかを汲み取ることが重要だというのです。

このようにわたしたちは自分の殻を破って成長できるからです。 またかつてのようにカトリックはカトリックなりに、プロテスタントはプロテスタントなりに聖書を解釈するのではなく、 カトリックもプロテスタントもそのように聖書を読めば、一致への道が開けるのです。 聖書記者と言われていますが、それは聖書中の各書、各文の著者である人間のことです。 その人間の言葉をとおして神の言葉が与えられたということは、聖書と聖書を受け継いできた教会の信仰です。 わたしたちもこの信仰を受け取り、人間の言葉として十分評価しなければ、神の言葉としても十分評価できないと考えます。

ですから、古代のユダヤ教を背景に生活し、それぞれ個性をもった聖書記者の文章として注意深く読まなければならないというわけです。 聖書各書の著者は、具体的にどのような人物であったか、わからない場合が多いでしょう。 パウロの手紙の場合は別ですが、各福音書の著者になると、その著者がどのような人物であったか、詳しくはわかっていません。 しかし、「文は人なり」と言われるように、文を見ればその人についてかなり読み取れます。 その文章からその著者が言おうとすることを読みとろうと努めるなければなりません。

他方、言っていることと言おうとしていることは、かなり違います。 桃太郎が犬、猿、雉を連れて鬼ヶ島に鬼退治に行ったという物語があります。 これはこの物語が言っていることです。 この物語が言おうとしているのは、 この世の悪を退治するためには一人のリーダーのもとで不仲の者も協力しなければならないということでしょうか。 同様に、神が六日で天地を創造し、7日目に安息なさったという創世記の冒頭は、 神が7日間で天地を創造されたということを言おうしているのでしょうか。 もしそうなら、ビッグバンで始まり、45億年をかけて成立した地球が常識となっている現代、 聖書は無意味なものになるのではないでしょうか。 イエスが一言で嵐を鎮めたという話(マルコ4・35~41)も、この奇跡を奇跡として言おうとするものなのでしょうか。 この話を書いた著者マルコの意図は何であったかと問わなければなりません。


5.第2ヴァティカン公会議以後

第2ヴァティカン公会議以後、教皇庁聖書委員会は1971年パウロ六世によって教理省に属するものとされ、 その長官(現在J・ラッツィンガー枢機卿)のもと20名の各国の聖書学者によって構成されるようになりました。 1984年には『聖書とキリスト論』という文書を公表し、多種多様なキリスト論が提唱され、 真正なイエスを求めようとすると戸惑いを覚える現状にあって進むべき道を示そうしました。 この文書はわたしにとってきわめて貴重な指標になっています。

さらに1993年には『教会の中での聖書の解釈』が公表されました(東門陽二郎神父さまの日本語への全訳があり、公刊を期待します)。 第2ヴァティカン公会議でカトリック教会においても歴史的批判的研究法が認められ、 その方法によって聖書学は盛んになったのですが、それにも限界があることが見えてきました。

この方法によって聖書本文の成立やその元来意味するところはかなり明らかにされたのですが、 多くの問題は確かな解答をえられないまま、ただ難解さだけが目につくようになりました。 聖書学の実りのなさ、不毛さが口にされるようになりました。 他方、聖書の本文が元来言おうとすることだけではなく、 その本文が現在生きている我々に何を訴えているのかを教えてくれなければ、聖書はもはや意味のある書ではないでしょう。

そういう観点から従来の聖書学に新しい方法論が適用されるようになりました。 聖書本文に修辞学から、あるいは語りの手法から、あるいは記号論から、またはユダヤ教、キリスト教の伝統からの種々の見直し、 さらには社会学、文化人類学、心理学など人文諸科学の援用による試み、さらに解放の神学やフェミニスト神学からの聖書への接近など、 色々な方法が試みられるようになりました。 この公文書について一言だけ言えば、現時点における聖書学の方法論をほとんど網羅し、そのそれぞれを紹介し、評価しています。

これは多くの専門家の共同作業でしかできないもので、 歴史的批判的研究法で聖書の解明に努めているわたしにとって、きわめて有益な文書です。 その色々な方法論は、それぞれそれだけで絶対視されてはならないが、有効なものであると評価されています。 ただし、一つだけファンダメンタリズムについては、明らかに不適切であり、危険であると判断されています。 これは、たとえば創世記第1章にある神による7日間の天地創造や嵐を鎮めるイエスの奇跡を聖書が書いているとおり、 そのまま受け取るべきだという主義主張を言います。 これは、カトリック教会の聖書解釈から外れているということです。


参考文献

1.
Enchiridion Biblicum,Documenta Ecclesiastica Sacram Scripturam Spectantia,1927,1961,Napoli,Roma
2.
Enchirion Biblicum,Documenti della Chiesa sulla Sacra Scrittura,Edizione blingue,1993,Bologna 1182-1361
3.
Commission Biblique Pontificale,L'interpetation de la Bible dans l'Eglise, Libreria Editrice Vaticana,Citta del Vaticano,1993
4.
L'interpretation de la Bible dans l'Eglise,Bibl.74(1993)451-528
5.
Fitzmyer,J.A.,The Biblical Commission's Document ″The Interpretation of the Bible in the Church″, Text and Commentary,Rome,1995(Eichi:191,09-F29)
6.
Bibel und Kirche, 49 Jahrgang 4.Quartal 4/1994,Zugange zur Bibel;Das neue Bibel-document aus Rom, (BuK誌の特集号)
7.
Die Interpretation der Bibel in der Kirche,Das Dokument der Papstlichen Bibelkommission vom 23.4. 1993 mit einer kommentierenden Einfuhrung von L.Ruppert und eineer Wurdigung durch H,-J.Klauck, SBS 161,Stuttgart,1995


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聖母に捧げる祈り(朝)

2022-09-05 14:20:37 | 日記
Good morning, everyone.️
I dedicate myself to Virgin Mary whole day today.

I am weak but I hope I can be your hands and feet.
I hope I can be good Virgin Mary’s tools.
I wish as many people as possible to be saved and go to heaven.

Mother Mary, I give you everything.

              (This prayer is tweeted by Ai  2022/04/06)


【聖母に捧げる祈り(朝)訳】

おはようございます、みなさん。
今日の一日すべてを乙女マリアに捧げます。

私は弱いですが、私があなたの手足に
なれることを願っています。
私は乙女マリアの良い道具に
なれることを願っています。
できるだけ多くの人が救われて天国に
行くことを願っています。

聖母マリア 私はあなたにすべてを捧げます。
            
                  (チャロクロ訳)

ー以上―

キリスト教信仰に酷似している浄土真宗(神父の放言より抜粋)

2022-09-05 14:20:06 | 日記
(1)キリスト教信仰に酷似している浄土真宗

さて、仏教も大きく分けると小乗仏教と大乗仏教とあるが、大乗仏教に
なるとキリスト教との相似点が際立つ。そして法然の浄土宗になると、
その相似がいっそう強まり、親鸞の浄土真宗では相似は頂点に達する。
浄土宗は阿弥陀仏(あみだぶつ)信仰を中心とする絶対他力信仰で
あるが、その信仰のあり方はキリスト信仰と極めて似ているところ
がある。

ただし阿弥陀仏は歴史的に存在していたとは考えられていない。
少なくとも現代の科学的世界観から見ればそうなる。そのように
認める浄土宗神学者もいる。しかし歴史的実在ではなかったにしても、
霊界の実在というものがある。

さて、このようなわけもあってか、浄土真宗からキリスト教に
転向した人の中に「キリストこそまことの阿弥陀仏だ」という
人がおり、私も何人かから聞いた。確かにそのように言いうる。
キリスト教神学から見れば、阿弥陀仏はキリストの予表、予型、
かたどりであると言っていい。


(2)キリストの予表、予型、象り(かたどり)という考え方

 予表、予型と言う考え方はキリスト教神学の中で一般的だ。
旧約聖書の出エジプト記で見られるいけにえの子羊は、
イエス・キリストのいけにえの予表であるとか、出エジプトの
過ぎ越しの出来事は、キリストの死と復活でなされた救いの出来事
の予型であると考えられている。

また例えばキリストの言葉の中に、「モーセが砂漠で青銅の蛇を
挙げたように、人の子も挙げられなければならない」(ヨハネ3章)
というものがある。モーセの時代、人々が神に背いて砂漠で蛇に
かまれたとき、モーセの作った青銅の蛇の像を仰ぎ見ると救われた
という話しがある。それと同じように、キリストも十字架に上げられ、
人々はこのキリストを仰ぎ見、信じることで救われるとおっしゃり
たかった。人々が仰ぎ見た青銅の蛇は、キリストの予表である、と
キリスト自らおっしゃっている。

このように旧約聖書の中に、将来のキリストを指し示すさまざまな
予表が埋め込まれ、人々はそれに気付かなかったが、キリストが
到来してから改めて聖書を読むとそれに気付く、というものだった。
新約は旧約の中で準備され、旧約は新約によって照らされる、
という言葉があるが、こういったことを指している。キリストは
「(旧約)聖書は私について証しをする」(ヨハネ5章)と述べている。


(3)キリストを信じても真(まこと)の阿弥陀教信者でありうる

 さて、まことのキリスト教徒はまことのユダヤ教徒だと言いうる。
ユダヤ教からキリスト教に改宗しても、その人はユダヤ教を捨てた
のではなく、継承したのであり、ある意味でまことのユダヤ教徒となった、
と言える。旧約聖書(ユダヤ教)の信仰はキリストによって完成され、
キリスト教信仰をを豊かにする。

 同じように、キリストを信じた阿弥陀教信者は、阿弥陀教
(浄土宗・浄土真宗)を捨てたのではなく継承しているのであり、
まことの阿弥陀教信者である、とも言いうる。

そして阿弥陀教はキリスト教を豊かにする。阿弥陀は歴史的実在者
ではないだろうが、霊界における実在者であろう。それはまさに
キリストを指し示している。

キリストの象り(かたどり)、予型といってもよい。キリストは霊界
においても歴史的においても実在者となられた。多くの日本人が
信じている阿弥陀仏とは実はキリストのことを指しているのだ、
とキリスト教信仰からは言いうる。パウロが日本人として現代に
生きていれば、そのように言うだろう。阿弥陀教はイエス・キリストの
予表であり、イエスという存在によって歴史的実体が与えられ、
完成される、と言いうる。このように、イエス・キリストへの信仰が
仏教を完成する可能性がある。

そう考えると、浄土真宗の信者を数多く抱える日本には、
キリストへの信仰の種を持っている人々が多くいると考えてもよいし、
本人たちはそう言わないだろうが、来るべきメシア(キリスト)を
待ち望んでおり、阿弥陀仏の実体である方(キリスト)を
待ち望んでいると言いうる。

他の仏典においても、キリストを指し示すものが豊かに見られるに
違いないが、これらを見出し、著述するのはキリストを受け入れる
今後の仏教徒、仏教学者たちの仕事となるだろう。彼らは仏教を
捨てるのではなく、おそらく継承するのであり、キリストを信じる
仏教徒というのは相反しないと私は信じる。

もちろん、輪廻(りんね)のように、キリスト教と教義的に
ぶつかる概念もあるが。キリストが仏教教義におけるさまざまな
ものを完成する可能性がある。キリストによって仏教や儒教が
包括される、照らされる、完成される可能性がある。
多くの人々が潜在的に、深層心理的にキリストを待ち望んでいる。

このように見ると、神が旧約聖書の教えを通してユダヤ民族を
教え導き、来るべき者によって完成なさったように、神は
日本民族を仏教を初めさまざまな教えによって養い、
来るべき者(キリスト)へと導き、来るべき者によってそれらを
完成なさる、と見ることができる。


(4)啓示の頂点であるキリスト

 キリストとは歴史的存在者であるが、その本来のお姿は父と子と聖霊の
三位一体の神、その「子」にあたる。おん父と共にご一体の神であり、
天地創造の前から存在し、おん父と共にこの世をお作りになった。
宇宙と生命の根源であるお方だ。はじめであり終わりである方、
アルファでありオメガであられる。

 神はこの独り子を世にお遣わしになるご計画をお立てになった。
これが神から人類への啓示の頂点となる。そのために、ユダヤ民族を
お選びになり、準備をなさったが、他民族をもいろいろなしかたで
準備なさったことだろう。この方によって造られた人類は、この方を
認識するように方向付けられる。

ー以上ー

守護の天使に向かう祈り

2022-09-05 14:19:28 | 日記
【守護の天使に向かう祈り】

第一木曜日は、守護の天使にささげられています。それは、私たちが守護の天使を知り、霊的、物的危険に際して悪魔のわなから免れ、天の国に導こうとする天使のやさしい心遣いに従うためです。


1.天の父よ、限りないいつくしみに感謝します。
あなたはわたしを造られた時から、わたしを照らし、守り、支え、
導くよう守護の天使にゆだねてくださいました。
わたしを守るみ使いよ、あなたに感謝します。
あなたは、わたしが天の父のもとに帰るまで
絶えず旅路をともにしてくださいます。
また、わたしに聖なる勧めを与え、あらゆる危険から守り、
主のみもとで力強い祈りをささげ、
わたしに、深い慰めと確かな希望を与えてくださいます。

▼わたしを守る神のみ使いよ、
主のあわれみによってあなたにゆだねられたわたしを、
照らし、守り、支え、導いてください。

2.わたしを守るみ使いよ、
あなたは主のみもとで、常に、わたしが天の国に入ることを
望んでおられます。
しかし、わたしは、たびたびあなたの勧めに背いて罪を犯し、
あなたが身近におられることを忘れます。
わたしのために、主のゆるしを求めてください。

▼わたしを守る神のみ使いよ、
主のあわれみによってあなたにゆだねられたわたしを、
照らし、守り、支え、導いてください。

3.わたしの守り手、神のみ使いよ、
忠実で力強いあなたは、天において聖ミカエルに率いられ、
サタンとこれに従うものに打ち勝たれました。
かつて天で行われた戦いは、今も地上で続けられ、
悪の頭とこれに従うものはイエスにはむかい、
人びとを悪に陥れようとしています。
サタンの国と戦う神の国、教会のために、
汚れない使徒の女王マリアに祈ってください。
大天使ミカエル、戦いの時にわたしたちを守り、
悪魔の狡猾なはかりごとに打ち勝つ力となってください。
人びとを滅ぼそうと世にはびこるサタンと悪霊を、
神の力によって地獄に封じてください。

▼わたしを守る神のみ使いよ、
主のあわれみによってあなたにゆだねられたわたしを、
照らし、守り、支え、導いてください。

4.すべてのみ使いよ、
あなたがたは尊い群れをつくり、三位一体の神に絶え間なく賛美をささげ、
わたしたちの忘恩を償うために召されました。
神と人びとを愛し、
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
と歌い続けておられます。
全人類が唯一まことの神と、神から遣わされた御子、
および真理の柱である教会を認めることができるように願います。
神のみ名が聖とされ、イエス・キリストのみ国が到来し、
み旨が天と同じく地でも行われるよう祈ってください。
為政者、労働者、苦しむ人びとの上にご保護の手をのべ、
真理と正義と平和を求めるすべての人の上に、祝福と救いを求めてください。

▼わたしを守る神のみ使いよ、
 主のあわれみによってあなたにゆだねられたわたしを、
 照らし、守り、支え、導いてください。

(『パウロ家族の祈り』より)


【天使の保護を願う祈り】

〈天使の保護を求むる祈(文語)〉

ああ天主、主はくすしき階級を立てて
天使と人との聖役(せいえき)を分ち給えり。
願わくは天において主の御前に仕うる天使をして、
地上におけるわれらを守らしめ給わんことを。
 われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

 
 
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第1部 信経

第2部 秘跡

信望愛の祈り

2022-09-05 14:18:50 | 日記
【信望愛の祈り】

(文語)

〈信徳唱〉
真理の源なる天主、
▲主は誤りなき御者(おんもの)にましますが故に、
われは主が公教会に垂(た)れて、
われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

〈望徳唱〉
恵みの源なる天主、
▲主は約束を違(たが)えざる御者にましますが故に、
救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、
その御約束の如く、われに終りなき命と、
これを得(う)べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。

〈愛徳唱〉
愛の源なる天主、
▲主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、
われ、心を尽し力を尽して、深く主を愛し奉る。
また主を愛するがために、
人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。

(口語)

〈神を信じる人の祈り〉
救いの源である神よ、
わたしは、永遠の真理であるあなたが、
主キリストとその教会を通して
教えてくださることをすべて信じます。

〈神に希望をおく人の祈り〉
恵みの源である神よ、
わたしは、
あなたがイエス・キリストの救いのみわざによって、
約束のとおり永遠のいのちと必要な助けを
お与えになることを心から希望します。

〈神を愛する人の祈り〉
愛の源である神よ、
わたしは、心を尽くし、力を尽くして、
唯一の神であるあなたを愛します。
また、あなたへの愛によって
 隣人を自分のように愛します。



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『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版(2021年)』
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現代版カトリック要理、自分で読んで納得し、さらに他の人々の
救霊のために、説明できるようになります。ぜひご覧ください。

第1部 信経

第2部 秘跡
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