キリストを迫害した人々
キリストを迫害し、死に追い詰めた人々は、皮肉なことに「自分は最も
信心深い者だ」と思っていた人々だった。そんなことがありえる。
ファリサイ派と律法学者たち、彼らは当時のユダヤ教社会の宗教的指導者、
権威者だった。聖書を最もよく知っていた人々だった。
しかし知識で知ることと、心で知ることは違うのだろう。
後にキリスト教に改心してもっとも大きな功績を挙げたパウロは、
以前は熱烈なファリサイ派だった。そのときの反省があってか、
手紙の中でこのようなことを言っている。
「知識は高ぶらせるが、愛は作り上げる」。(Ⅰコリント8章)
「文字は殺し、霊は生かす」。(Ⅱコリント3章)
律法を知っているだけでは、「文字は殺し」「知識は高ぶらせる」
ことになる。律法を行い、愛に生き、聖なる神の霊によって
生かされなければ、律法を知ってかえって悪しき人間になることもある。
彼らは民衆を見て、「律法を知らないこの人々は不幸だ。」
「呪われている」(ヨハネ7章)と言い、さげすんでいた。
多くの人がイエスのなさる業を見たり、説教を聞いて「この人こそ
メシアだ」と思ったが、ファリサイ派の人々はそのあら探しばかりした。
そしてイエスの揚げ足を取ろうとしていろいろ質問した。
それがうまくいかないと見ると、イエスを殺す相談を始めた。
彼らはイエスの革命的な教えを聞き、その行いを見て、「モーセの教えと
違う。聖書に反することをしている」と考えた。だから許してはならないと
思っていた。しかも自分たちの偽善をイエスが厳しく指摘する。
われらこそはメシアに最も気に入られると思っていたのに、
このイエスの前では立つ瀬がない。民衆の前で恥をかかされる。
「聖書は私について書いているのに、あなたたちは私を
殺そうとしている」(ヨハネ5章)とイエスは言われた。
またファリサイ派や律法学者たちが昔の預言者たちの記念碑を立てて、
「私たちがその時代に生きていたならば預言者を殺さなかっただろうに」
と言っているのをイエスが聞いて「あなたたちは先祖の悪行を完成したら
どうだ」(マタイ23章)と皮肉をおっしゃった。案の定、彼ら自身が、
預言者の中の預言者であるキリストを死に追いやることになる。
このようにして、聖書に最も詳しかったファリサイ派と律法学者たちが、
聖書が予言していたメシアを死に追い込む先導をした、という皮肉な結果
になった。これは現代でも繰り返される。神学を勉強した者でも、
実はまことのキリストを知らない、ということがありえる。
キリストを文字や知識だけで学んでもダメだ。心で読み、
実践しなければダメだ。現代、もしキリストが予期しないお姿で
来られたならば、
「私こそ聖書の先生だ」「神学を知っている」「大変信心深い」と
自認する者が、率先してキリストを教会から追い出す、ということが
極めてありえる。司祭も気をつけなければならない。またよく教えを
知っていて熱心だと自認する信徒も気をつけなければならない。
聖書について最もよく知る者が、一番聖書に反することをする、
ということがありえる。これは他宗教でも同じだろう。
仏典を最もよく知ると自認する者たちが、最も仏典に反することを
行っているということがありえる。
私たちは聖書を知れば知るだけ、へりくだりたい。
サイト:「神父の放言」より転載