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聖体の教義と崇敬について(前文) 聖パウロ六世の回勅(抜粋)

2022-09-04 13:58:46 | 日記
*憂慮すべきこと


聖パウロ6世教皇(1897~1978年)


ところで、尊敬されるべき兄弟みなさん、ここで取り扱っている事柄について、司牧上大いに心配もし、憂慮すべきことがあって、わたしは使徒的任務の責任上、黙することはできない。

この至聖なる秘儀について、あるいは語り、あるいはものを書く人びとの中には、まるで教会で一度決定した教義を忘れてもよいかのように、それとも真正なことばの意味、つまり本来の概念の力を弱めるようにこれを解釈してもよいかのように、私的に挙行されるミサ、実体変化の教義、聖体崇敬について、信者の心を乱し、信仰上のことについて混乱を引き起こすような見解を広める人のいることをわたしは知っている。

例をあげて言えば、「共同体的」というミサを推奨するため、私的に挙行されるミサを軽んじるということは許さるべきことではない。あるいはまた、秘跡的しるしの本質論を力説するあまり、だれでも認めている聖体の象徴という面をもってこの秘跡におけるキリストの現存の本質が全部言い尽くされているかのようにいうのも、許されないことである。

あるいは実体変化の秘儀を論じるにあたって、トリエント公会議のいうキリストの御からだへのパン全実体の、御血へのぶどう酒全実体の転換(コンヴェルシオ)については一言もいわないで、それがただの「トランスシグニフィカチオ」(意味転化)と「トランスフィナリザチオ」(目的転化)であるかのようにいうのも、あるいは、ミサ聖祭の終わったのちに残った聖別ホスチア(円形の薄いパン)のうちに主キリストは、もはやおいでにならないという説を提唱し、これを実行に移すのも許さるべきことではない。

これらおよびこれに類する見解が広まれば聖体の信仰と崇敬とが少なからず傷つくことは、だれでもわかることである。

尊敬されるべき兄弟みなさん。聖体信心の新しい光が全教会に行きわたるという、公会議によって生じてきた希望が、虚偽の見解の種をまかれたために、消え失せることのないように、使徒的権能をもってこのことについて話し、わたしの考えを明らかにしようと決心したのである。

 このような驚くべき見解を広めている人たちが、偉大な秘儀をきわめ、その宝を明らかにし、われわれの時代の人びとに、これをわからせようとする考えをもっていることは軽視すべきことではなく、この努力はわたしも認め、かつ是認するものであるが、この人たちの提唱する見解は是認できないもので、正しい信仰にとって重大な危険であると注意するのが、わたしの務めであると信じる。


*聖体は信仰の秘儀

みなさんは十分ご承知のことであるが、合理主義の害毒を退けるために、もっとも必要なことを思いおこしておきたいと思う。それは多くの尊い殉教者が自分の血をもって証し、著名な教父、教会博士たちが異口同音に告白して教えたことである。すなわち聖体が偉大な秘儀であるということ、まさに典礼がいう『信仰の秘儀』であって、教皇レオ13世が言っておられるように『自然を越えたすべての現実がここに不思議な、驚くべき多様性と豊かさを持って含まれている』のである。

そこでこの秘儀に近づくにあたっては、人間の理屈をもって近づくのではなく、特にへりくだった従順の心をもって近づくべきである。人間の理屈は黙すべきで、われわれは神からの啓示につき従う確固たる心でこの秘儀に近づくのである。みなさんもご承知の金口聖ヨハネは聖体の秘儀について、崇高な表現と信心深い認識をもって教えた人であるが、あるとき信者たちにこのことを教えて適切にも次のように言った。『いつにても神に従順に従い、逆らうのはやめましょう。たとい神の言いたもうことがわれわれの理性と知性に反すると見えても。むしろ、神のことばが、われわれの理性に優先すべきです。そこで聖体の秘儀に関しても、ただ感覚に感じとられるものだけを見つめるのではなく、みことばに沿うように行動しましょう。かみのみことばはまちがうことはないのです。』

 スコラ学者たちも同様に言っている。この秘跡のうちに真のキリストの御からだ、真のキリストの御血のあることは聖トマス・アクィナスが言うように『感覚ではわからないが、ただ神の権威の上に立つ信仰によって知られる。ルカ22の19の「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」に対してキュリロスはこう言っている。これがほんとうかどうか疑うなかれ。むしろ信仰の心で救い主のことばを受けよ。主はまことに在して偽ることはない』




そこでこの天使博士(聖トマス・アクィナス)のあとに続いてキリスト者の民衆は、つねづねこう歌うのである。『ここに今、見、触れ、味わうところのみにては、主なることを認めがたきけれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり。われは神の御子の、のたまいしことを、ことごとく信じたてまつる。この真理のことばにまさる まことは、世にあることなし。』

聖ボナベントゥラはこういっている。『キリストがこの秘跡のうちに、しるしのうちにというように、おいでになることについては何の困難もない。だが天においでになると同じように真に秘跡のうちにおいでになるということは、もっと分かりにくいことである。それゆえ、これを信じるということはもっとも功のおおきいことである。』

キリストの弟子のうちの幾人もが、キリストの肉を食べ、その血を飲む話を聞いたとき「この話はわかりにくい。だれがこれを聞きえよう」といって主をすてて去って行ったと述べるところで福音はすでにこの同じ点にふれている。十二人も去って行きたいのかとのイエズスの問いかけに答えて、」ペトロは即座に確固たる態度をもって、「わたしどもはどこに行きましょう。あなたこそ永遠の生命のことばをお持ちです」と言って自分と他の使徒たちの信仰を言い表したのであった。(ヨハネ6の61~69)

そこでこの秘儀を探究するにあたって、われわれが教会の教導職を星のように仰いでこれにつき従うのは理の当然である。神なるあがない主は、書きしるされ、あるいは伝承された神のことばをこの教導職に託して守らせ、言いあらわせ、われわれは「たとい理性でいかようにも探知できなくても、ことばでどうにも説明ができなくても、真のカトリック的信仰をもって、いにしえより述べ伝えられ、信じられて全教会に行きわたっている、ことがらを真実である」と確信するのである。

それで足りるというわけではない。傷なき信仰を保ったうえで、さらに正確なことばづかいを守る必要がある。不注意なことばづかいをしたために、もっとも崇高なことがらの信仰に関して誤った見解が生じることになってはならないからである。聖アウグスティヌスは、哲学者の用いることばづかいとキリスト者の用いるべきことばづかいの違いについて厳重にいましめて、こう言っている。「哲学者は、なかなか知り尽くしにくいむずかしいことについて信心深い人の耳を傷つけることも恐れずに自由な話し方をする。私たちは一定の基準に従った話し方をするようにしなくてはならない。あまりにも自由なことばづかいをしたために、これらのことばの示す物事をめぐって信仰に反する見解を生み出すようなことがあってはならないからである。」

教会が幾世紀の長い年月の労苦をもって、実に聖霊の助けのもとで確立し、公会議の権威をもって確認したことばづかいの基準は、たびたび正統信仰の証明とも旗印ともなったもので、これは尊重されるべきものである。あるいは気ままに、あるいは新しい学問という口実のもとで、変えてはならないものである。たびたびの公会議が至聖なる三位一体と托身(受肉)の秘儀のために用いた教理表現が現代の人びとに適しないものであるという論を進めて、ほかの表現をそれらの代わりに軽率に取り入れるようなことは許されるべきことではあるまい。

同様に、トリエント公会議(注1)が聖体の信仰を言いあらわした表現形式を、だれもが自己流に変えてよいものではない。それらの表現形式は、教会が信仰の教義を表すときに用いる他の表現形式と同じように、ただ単に特定の文化の形態とか、科学の進歩の一段階とか、特定の神学学派に結びついた概念をあらわすものではなく、人間の精神が事物について普遍的、必然的経験をもって知覚したものを、あるいは通俗のことば、あるいは洗練されたことばの中から選んで的確に表現したものであって、したがってあらゆる時と場所の人びとに適したものである。

 それらの表現形式がいっそう明解に説明されて人びとのためになるということはあっても、最初の意味と異なる意味で用いられることがあってはならない。信仰について、いっそう深く知るようになっても、信仰の真理は不動のものだからである。第一バチカン公会議(注2)が教えているように、聖なる教義は「聖にして母なる教会が一度宣言した意味で保持すべきであって、いっそう高い深い知り方という外形や名のもとに、その意味から離れてはならない。」




*主キリストは聖体の秘跡のうちに実体変化によって現存していたもう

だが、自然の諸法則を越えた、同類のすべてのものの中で最大の奇跡であるこの現存の仕方を人がまちがって解することのないように、教える教会と、祈る教会の声に、すなおな心で従う必要がある。キリストの声をつねに反響させているこの声は、われわれにこう言う。キリストが、この秘跡のうちにいたもうようになるのは、ほかでなく、パン全実体のからだへの、ぶどう酒全実体の御血への転換によるもので、不思議で独特なこの転換のことをカトリック教会は的確に実体変化呼ぶ。

実体変化の後、パンとぶどう酒の形態は確かに新しい意味と新しい目的を持つようになる。すでに普通のパン、普通の飲み物ではないからで、聖なるもののしるしであり、霊的な食料のしるしである。ただし新しい意味と新しい目的を帯びるようになったのは、それらが新しい”現実”を含むからで、われわれがこれを”存在論的”と呼ぶのも当然のことである。上述の形態のもとには前にあったものではなく、まったく別のものが、いまはひそむのであるが、それもただ単に教会の信仰がそう見るというのではなく、事実、パンとぶどう酒の実体が、言い換えれば本性が、キリストの御体と御血へと転換したうえでは、パンとぶどう酒とで残るのはただ形態のみで、その形態のもとに、全キリストがそのまま、物的”現実”をもって、いたもう。物体が場所にあるのというのと同じ仕方ではないが、からだをもって、いたもうのである。

 このゆえに、この尊い秘跡について考えるにあたって感覚にたよらないようにと教父たちは、しきりに、信者たちを諭したのであった。感覚はパンとぶどう酒の性質を告げ知らせるだけである。むしろパンとぶどう酒をキリストの御からだと御血にすっかり変え、”元素変換”するほどの力を持つキリストの御ことばをたよるようにと、しきりに諭したのである。実に、教父たちが一度ならず言うように、これを成す力は、時のはじめから、事物のすべてを無から創造した、同じ全能の神の御力なのである。




エルサレムの聖キュリロスは、信仰の秘儀についての話を終えるにあたって、こう言っている。「パンに見えるものも、味覚に味わいがあってもパンではなく、キリストの御からだであり、ぶどう酒に見えるものも、そういう味がしてもぶどう酒ではなくキリストの御血である。これらのことを教えられ、もっとも確かなこの信仰を授かって・・・このパンを霊的なパンとして受けて、あなたの心を固め、あなたの魂の顔を輝かせよ」。

金口聖ヨハネはさらに念をおしてこう言う。「捧げものがキリストの御からだと御血になるようにするのは人間ではなく、われらのために十字架につけられたキリスト御自らです。かたどりを実現して、司祭は立ち、かのことばを発するが、力と恵みは神のもの。これはわたしのからだであるという。このことばが、捧げものを、すっかり変えるのです。」

聖マタイの福音書を注解して次のように書いたアレキサンドリアの司教キュリロスと、コンスタンチノポリスの司教ヨハネとの一致もみごとなものである。「直接、指し示すようにおっしゃったのです。これはわたしのからだである。そして、これはわたしの血である。見えるものがただのかたどりだと思ってはならない。捧げものは全能の神によって、不思議な、何かの仕方で、キリストの御からだと御血に、すっかり変わるのであってこれに参加することによって、われわれはキリストの、生かす力、聖化の力を受けるのです。」

ミラノの司教アンブロシウスは聖体の転換について明解に述べてこう言っている。「われわれが証明しようとするのは、これが自然によって作られたものではなく、祝福によって自然そのものも変えられるから、祝福の力が自然の力よりも大きいということである。」
そして秘儀の真理を確認しようとして、聖書に語られている多くの奇跡の例を示し、なかでも乙女マリアからのキリスト自らの誕生を示し、そののち創造のわざに注意を向けて、こう結んでいる。「存在しなかったものを無からつくることができたキリストのことばが、存在しているものを、他のものに変化させえないということはあり得ない。ものの本性を変えることは、ものの本質をつくることより容易である。」

だが、多くの証言をもたらす必要もない。むしろ教会が一致してベレンガリウス(注3)に抵抗したときの堅固な信仰を思いおこすほうがよい。ベレンガリウスは、人間の理性が示す困難に譲って聖体の転換を否定した最初の人である。

教会は、もとに戻るにあらずばとて幾度もその誤りを責め、教皇聖グレゴリオス七世は、次の明文による宣誓を要求した。「祭壇に置かれるパンとぶどう酒は、聖なる祈りの秘儀により、われらのあがない主のことばをもって、生命を与える真実正銘のイエズス・キリストの御からだと御血に、実体的に転換するものであって、そして聖別ののちは、おとめから生まれ、世の救いのために十字架にかかり、御父の右の座にある真のキリストの御からだであること、そしてキリストの脇腹から流れ出た真の御血であること、それもただ単に秘跡のしるしと力とによってではなく、本来の本性において、実体の真実において、そうであることを、わたしは心で信じ、口で告白する。」

これらのことばと、ラテラン(1215年)、コンスタンツ(1414年)・フィレンツェ(1438年)、トリエント(1545年)の各公会議が、聖体の転換について、あるいは教会の教えを述べ、あるいは誤りを退けて一貫して教えたこととが一致するが、これこそカトリック的信仰の安定性のみごとな実例である。


トリエント公会議ののち、教皇ピオ六世はピストイア会議(注4)の誤りに対して厳重な警告を発し、教えを説く任務にある主任司祭が、信仰箇条の中に数えられる実体変化について、ひかえてふれないことがないようにと説いた。またピオ十二世は、実体変化の秘儀について微妙な仕方で論議する人たちに越えてはならない限界のあることを思いおこさせ、わたしもまた、最近ピザで開かれたイタリア全国聖体大会のおりに、教皇の使徒的任務にもとづいて、教会の信仰証言を、公に、おごそかに、行なった。

そもそもカトリック教会は、聖体におけるキリストの御からだと御血の現存の信仰を教えるだけでなく、生活のうちにこれを守り、ただ神のみに帰するべき礼拝をささげてこの大いなる秘跡をいつの世にも尊んできた。このことについて聖アウグスティヌスの言うには「主は肉体をもってこの世に住み、その肉体を救いの食物としてわれわれに与えられた。だれもまず礼拝してからでなければ、その肉を食べることはない。・・・礼拝すればわれわれは罪を犯さないが、それだけでなく、礼拝しなければ罪を犯す。」

1965年9月3日 教皇在職3年 聖ピオ10世の祝日にあたりローマ聖ペトロのかたわらで
                           司教にして教皇 パウロ6世



注1:トリエント公会議

1545~63年に断続的に開催され教皇の至上権などを再確認し、宗教改革に対抗するカトリック側の改革を進めた。宗教改革の混乱を収束させ、カトリック教会の体制の立て直しを図るために教皇パウルス3世が1545年に召集したキリスト教世界の最高会議。トリエントは南チロル(当時はオーストリア)の都市(現在はイタリアに属しトレントと表記している)。


注2:第一バチカン公会議

 第20回公会議。教皇ピウス9世(在位1846~78)により招集され、1869年より翌70年にかけて開かれた。トリエント公会議以来300年ぶりに開かれたこの公会議は、その間に著しい発展を遂げたヨーロッパ近代文化・思想に対して、教会の立場を明確にすることを任務とした。信仰憲章「デイ・フィリウス」においては、極端な合理主義を時代の誤謬として排斥し、カトリック信仰の基本的立場を明示した。憲章「パストール・エテルヌス」では、教皇の首位権と不可謬性を宣言した。プロイセン・フランス戦争勃発により会議は中断され、閉会宣言のないまま、事実上1870年で終了した。




注3:ベレンガリウス は、11世紀フランスの神学者。シャルトル学派を指導することで、復興した弁証術を利用した知的研究の例を示した。この流れにランやパリの聖堂学校が続くことになった。また、彼はミサにおける聖変化の教義上での教会の教導権をめぐって論争を行った。


注4:1786年、イタリアのトスカナのピストイアというところで教会会議(シノドス)が開かれた。ところが、この教会会議はピオ六世教皇によって悪しきものであると排斥された。それはトリエント公会議が信仰箇条として決定して、荘厳な信仰宣言の中に含まれている「全実体変化」という言葉を省略したからだといわれている。


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