聖体の教義と崇敬について2/2(パウロ六世回勅:ミステリウム・フィディ:1965年)
*主キリストは聖体の秘跡のうちに実体変化によって現存していたもう
だが、自然の諸法則を越えた、同類のすべてのものの中で最大の奇跡であるこの現存の仕方を人がまちがって解することのように、教える教会と、祈る教会の声に、すなおな心で従う必要がある。キリストの声をつねに反響させているこの声は、われわれにこう言う。キリストが、この秘跡のうちにいたもうようになるのは、ほかでなく、パン全実体のからだへの、ぶどう酒全実体の御血への転換によるもので、不思議で独特なこの転換のことをカトリック教会は的確に実体変化と呼ぶ。
実体変化の後、パンとぶどう酒の形態は確かに新しい意味と新しい目的を持つようになる。すでに普通のパン、普通の飲み物ではないからで、聖なるもののしるしであり、霊的な食料のしるしである。ただし新しい意味と新しい目的を帯びるようになったのは、それらが新しい”現実”を含むからで、われわれがこれを”存在論的”と呼ぶのも当然のことである。上述の形態のもとには前にあったものではなく、まったく別のものが、いまはひそむのであるが、それもただ単に教会の信仰がそう見るというのではなく、事実、パンとぶどう酒の実体が、言い換えれば本性が、キリストの御体と御血へと転換したうえでは、パンとぶどう酒とで残るのはただ形態のみで、その形態のもとに、全キリストがそのまま、物的”現実”をもって、いたもう。物体が場所にあるのというのと同じ仕方ではないが、からだをもって、いたもうのである。
このゆえに、この尊い秘跡について考えるにあたって感覚にたよらないようにと教父たちは、しきりに、信者たちを諭したのであった。感覚はパンとぶどう酒の性質を告げ知らせるだけである。むしろパンとぶどう酒をキリストの御からだと御血にすっかり変え、”元素変換”するほどの力を持つキリストの御ことばをたよるようにと、しきりに諭したのである。実に、教父たちが一度ならず言うように、これを成す力は、時のはじめから、事物のすべてを無から創造した、同じ全能の神の御力なのである。
このゆえに、この尊い秘跡について考えるにあたって感覚にたよらないようにと教父たちは、しきりに、信者たちを諭したのであった。感覚はパンとぶどう酒の性質を告げ知らせるだけである。むしろパンとぶどう酒をキリストの御からだと御血にすっかり変え、”元素変換”するほどの力を持つキリストの御ことばをたよるようにと、しきりに諭したのである。実に、教父たちが一度ならず言うように、これを成す力は、時のはじめから、事物のすべてを無から創造した、同じ全能の神の御力なのである。
エルサレムの聖キュリロスは、信仰の秘儀についての話を終えるにあたって、こう言っている。「パンに見えるものも、味覚に味わいがあってもパンではなく、キリストの御からだであり、ぶどう酒に見えるものも、そういう味がしてもぶどう酒ではなくキリストの御血である。これらのことを教えられ、もっとも確かなこの信仰を授かって・・・このパンを霊的なパンとして受けて、あなたの心を固め、あなたの魂の顔を輝かせよ」。
金口聖ヨハネはさらに念をおしてこう言う。「捧げものがキリストの御からだと御血になるようにするのは人間ではなく、われらのために十字架につけられたキリスト御自らです。かたどりを実現して、司祭は立ち、かのことばを発するが、力と恵みは神のもの。これはわたしのからだであるという。このことばが、捧げものを、すっかり変えるのです。」
聖マタイの福音書を注解して次のように書いたアレキサンドリアの司教キュリロスと、コンスタンチノポリスの司教ヨハネとの一致もみごとなものである。「直接、指し示すようにおっしゃったのです。これはわたしのからだである。そして、これはわたしの血である。見えるものがただのかたどりだと思ってはならない。捧げものは全能の神によって、不思議な、何かの仕方で、キリストの御からだと御血に、すっかり変わるのであってこれに参加することによって、われわれはキリストの、生かす力、聖化の力を受けるのです。」
ミラノの司教アンブロシウスは聖体の転換について明解に述べてこう言っている。「われわれが証明しようとするのは、これが自然によって作られたものではなく、祝福によって自然そのものも変えられるから、祝福の力が自然の力よりも大きいということである。」
そして秘儀の真理を確認しようとして、聖書に語られている多くの奇跡の例を示し、なかでも乙女マリアからのキリスト自らの誕生を示し、そののち創造のわざに注意を向けて、こう結んでいる。「存在しなかったものを無からつくることができたキリストのことばが、存在しているものを、他のものに変化させえないということはあり得ない。ものの本性を変えることは、ものの本質をつくることより容易である。」
だが、多くの証言をもたらす必要もない。むしろ教会が一致してベレンガリウス(注1)に抵抗したときの堅固な信仰を思いおこすほうがよい。ベレンガリウスは、人間の理性が示す困難に譲って聖体の転換を否定した最初の人である。
教会は、もとに戻るにあらずばとて幾度もその誤りを責め、教皇聖グレゴリオス七世は、次の明文による宣誓を要求した。「祭壇に置かれるパンとぶどう酒は、聖なる祈りの秘儀により、われらのあがない主のことばをもって、生命を与える真実正銘のイエズス・キリストの御からだと御血に、実体的に転換するものであって、そして聖別ののちは、おとめから生まれ、世の救いのために十字架にかかり、御父の右の座にある真のキリストの御からだであること、そしてキリストの脇腹から流れ出た真の御血であること、それもただ単に秘跡のしるしと力とによってではなく、本来の本性において、実体の真実において、そうであることを、わたしは心で信じ、口で告白する。」
これらのことばと、ラテラン(1215年)、コンスタンツ(1414年)・フィレンツェ(1438年)、トリエント(1545年)の各公会議が、聖体の転換について、あるいは教会の教えを述べ、あるいは誤りを退けて一貫して教えたこととが一致するが、これこそカトリック的信仰の安定性のみごとな実例である。
トリエント公会議ののち、教皇ピオ六世はピストイア会議(注2)の誤りに対して厳重な警告を発し、教えを説く任務にある主任司祭が、信仰箇条の中に数えられる実体変化について、ひかえてふれないことがないようにと説いた。またピオ十二世は、実体変化の秘儀について微妙な仕方で論議する人たちに越えてはならない限界のあることを思いおこさせ、わたしもまた、最近ピザで開かれたイタリア全国聖体大会のおりに、教皇の使徒的任務にもとづいて、教会の信仰証言を、公に、おごそかに、行なった。
そもそもカトリック教会は、聖体におけるキリストの御からだと御血の現存の信仰を教えるだけでなく、生活のうちにこれを守り、ただ神のみに帰するべき礼拝をささげてこの大いなる秘跡をいつの世にも尊んできた。このことについて聖アウグスティヌスの言うには「主は肉体をもってこの世に住み、その肉体を救いの食物としてわれわれに与えられた。だれもまず礼拝してからでなければ、その肉を食べることはない。・・・礼拝すればわれわれは罪を犯さないが、それだけでなく、礼拝しなければ罪を犯す。」
(注1)ベレンガリウス は、11世紀フランスの神学者。シャルトル学派を指導することで、復興した弁証術を利用した知的研究の例を示した。この流れにランやパリの聖堂学校が続くことになった。また、彼はミサにおける聖変化の教義上での教会の教導権をめぐって論争を行った。
(注2)1786年、イタリアのトスカナのピストイアというところで教会会議(シノドス)が開かれた。ところが、この教会会議はピオ六世教皇によって悪しきものであると排斥された。それはトリエント公会議が信仰箇条として決定して、荘厳な信仰宣言の中に含まれている「全実体変化」という言葉を省略したからだといわれている。
金口聖ヨハネはさらに念をおしてこう言う。「捧げものがキリストの御からだと御血になるようにするのは人間ではなく、われらのために十字架につけられたキリスト御自らです。かたどりを実現して、司祭は立ち、かのことばを発するが、力と恵みは神のもの。これはわたしのからだであるという。このことばが、捧げものを、すっかり変えるのです。」
聖マタイの福音書を注解して次のように書いたアレキサンドリアの司教キュリロスと、コンスタンチノポリスの司教ヨハネとの一致もみごとなものである。「直接、指し示すようにおっしゃったのです。これはわたしのからだである。そして、これはわたしの血である。見えるものがただのかたどりだと思ってはならない。捧げものは全能の神によって、不思議な、何かの仕方で、キリストの御からだと御血に、すっかり変わるのであってこれに参加することによって、われわれはキリストの、生かす力、聖化の力を受けるのです。」
ミラノの司教アンブロシウスは聖体の転換について明解に述べてこう言っている。「われわれが証明しようとするのは、これが自然によって作られたものではなく、祝福によって自然そのものも変えられるから、祝福の力が自然の力よりも大きいということである。」
そして秘儀の真理を確認しようとして、聖書に語られている多くの奇跡の例を示し、なかでも乙女マリアからのキリスト自らの誕生を示し、そののち創造のわざに注意を向けて、こう結んでいる。「存在しなかったものを無からつくることができたキリストのことばが、存在しているものを、他のものに変化させえないということはあり得ない。ものの本性を変えることは、ものの本質をつくることより容易である。」
だが、多くの証言をもたらす必要もない。むしろ教会が一致してベレンガリウス(注1)に抵抗したときの堅固な信仰を思いおこすほうがよい。ベレンガリウスは、人間の理性が示す困難に譲って聖体の転換を否定した最初の人である。
教会は、もとに戻るにあらずばとて幾度もその誤りを責め、教皇聖グレゴリオス七世は、次の明文による宣誓を要求した。「祭壇に置かれるパンとぶどう酒は、聖なる祈りの秘儀により、われらのあがない主のことばをもって、生命を与える真実正銘のイエズス・キリストの御からだと御血に、実体的に転換するものであって、そして聖別ののちは、おとめから生まれ、世の救いのために十字架にかかり、御父の右の座にある真のキリストの御からだであること、そしてキリストの脇腹から流れ出た真の御血であること、それもただ単に秘跡のしるしと力とによってではなく、本来の本性において、実体の真実において、そうであることを、わたしは心で信じ、口で告白する。」
これらのことばと、ラテラン(1215年)、コンスタンツ(1414年)・フィレンツェ(1438年)、トリエント(1545年)の各公会議が、聖体の転換について、あるいは教会の教えを述べ、あるいは誤りを退けて一貫して教えたこととが一致するが、これこそカトリック的信仰の安定性のみごとな実例である。
トリエント公会議ののち、教皇ピオ六世はピストイア会議(注2)の誤りに対して厳重な警告を発し、教えを説く任務にある主任司祭が、信仰箇条の中に数えられる実体変化について、ひかえてふれないことがないようにと説いた。またピオ十二世は、実体変化の秘儀について微妙な仕方で論議する人たちに越えてはならない限界のあることを思いおこさせ、わたしもまた、最近ピザで開かれたイタリア全国聖体大会のおりに、教皇の使徒的任務にもとづいて、教会の信仰証言を、公に、おごそかに、行なった。
そもそもカトリック教会は、聖体におけるキリストの御からだと御血の現存の信仰を教えるだけでなく、生活のうちにこれを守り、ただ神のみに帰するべき礼拝をささげてこの大いなる秘跡をいつの世にも尊んできた。このことについて聖アウグスティヌスの言うには「主は肉体をもってこの世に住み、その肉体を救いの食物としてわれわれに与えられた。だれもまず礼拝してからでなければ、その肉を食べることはない。・・・礼拝すればわれわれは罪を犯さないが、それだけでなく、礼拝しなければ罪を犯す。」
(注1)ベレンガリウス は、11世紀フランスの神学者。シャルトル学派を指導することで、復興した弁証術を利用した知的研究の例を示した。この流れにランやパリの聖堂学校が続くことになった。また、彼はミサにおける聖変化の教義上での教会の教導権をめぐって論争を行った。
(注2)1786年、イタリアのトスカナのピストイアというところで教会会議(シノドス)が開かれた。ところが、この教会会議はピオ六世教皇によって悪しきものであると排斥された。それはトリエント公会議が信仰箇条として決定して、荘厳な信仰宣言の中に含まれている「全実体変化」という言葉を省略したからだといわれている。
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とても役立つ参考書籍などが脚注で多数紹介されています。
信仰上の疑問にぶつかったときなど大きな助けとなってくれるでしょう。
詳細な目次もついてあり、事典としてもお使いください。
第1部 信経
➡https://peraichi.com/landing_pages/view/00hiz
第2部 秘跡
➡https://wnrm0.hp.peraichi.com/
(第4章 聖体をお読みください。)
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