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霊的聖体拝領の祈り

2022-09-04 15:31:23 | 日記
霊的聖体拝領の祈り(暗唱用)

十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

主イエス・キリスト、
今、私はご聖体をいただくことが出来ません。
しかしあなたへの愛に満たされて
 私の心にお迎えしたいと望みます。


(すこし沈黙して心の準備をする)

今、秘跡によるご聖体を受けられない
 わたしの心においで下さい。


(ご聖体拝領をイメージし、聖母マリア様と共に主を迎える『(キリストの体)...アーメン』)

主がわたしの心においでになったことを信じ感謝します。
 わたしがあなたから離れることがありませんように。


(少しの時間、沈黙を保ち霊的拝領をできたことを感謝する)

十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------

☆霊的聖体拝領とは?

聖体を実際に受けるに先立って、これを受けたいという意識的望み。
 愛と信仰をもって行なう霊的聖体拝領は教会から大いに奨励されている。トレント公会議の教理学習書によると「愛のうちに働く生きた信仰に満たされて聖体を望みにおいて受ける信者は望みと願望によって天上のパンが与える恩典を、たとえ全面的にではなくても少なくともその大部分を受ける。(現代カトリック事典)

聖体の観想と崇敬は、造り主である主と完全に一致したいという人の望みを強める。同時に、そこから、われわれがふさわしくない者だということも意識させられる。教皇はまた、「霊的聖体拝領」の実践にふれている。それは霊的生活の達人によって、秘跡によって聖体拝領をすることができない人のために勧められているものである。
ミサ以外の場でも、主イエスは生きて、霊的な糧となってくださる。主はわれわれのあいだにいて、われわれとともに歩んでくださる、はかり知ることのできない神秘である。
(カトリック中央協議会)






☆霊的御聖体拝領についての聖人たちのことば

聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士1696~1787年)
『御聖体訪問のたびに、霊的御聖体拝領をするとよいので、霊的御聖体拝領とは何か? どんな効果があるのかを説明しておこう。これは御聖体拝領をしたいと言う熱い望みを持ち、実際に拝領したかのように、愛を込めて主を抱擁(ほうよう)する事である。

主は、ある修道女に、金と銀の器を見せて、金の方には御聖体拝領を、銀の方には霊的御聖体拝領を入れておくと仰せられ、主が霊的御聖体拝領をどれほど尊重し、それによって、いかに多くのお恵みをお与えになるかを悟らせてくださった。

また主は、別の修道女に、霊的御聖体拝領をする度に、実際に御聖体拝領をしたと同じ恵みを受けられると仰せになった。何よりもトレント公会議が霊的御聖体拝領を讃えて、信者に実行するように推奨していることで十分であろう。それゆえ敬虔な人々は、皆この霊的御聖体拝領をたびたび行っている。霊的御聖体拝領は誰からも見られず、断食の必要もなく、指導司祭の許可もいらずいつでも望むときにできるのである。』

イエスの聖テレジアアビラの聖テレサ)教会博士1515~1582年スペイン)
『ごミサにあずかってもご聖体拝領しないときは、霊的に拝領することができます。そしてそのあと、やはり自分のうちにはいって聖体拝領のときと同じ潜心を実行することができ、これによって主への深い愛が心に刻まれるのです。私どもがお受けする準備をしている以上、主は必ず私どもには、わからない様々な方法でお与えにならずにはいらっしゃいません。』
(完徳の道、第35章ー1)

聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(1786~1859年 フランス)
『霊的聖体拝領は霊魂に対し、埋もれて消えそうになっている燃え残りに対する風のような働きをします。神へのあなたの愛が冷えて行くのを感じた時は、いつでも速やかに霊的聖体拝領をしなさい。』

聖マリア
1966年1月14日、イタリアのサン・ダミアノにて祝せられた乙女マリアは言われた。
『御聖体のうちに生き給い、彼を受くる者に慈悲深きイエスを、あなたのために、あなたの心にイエスをしばしば受けなさい。』
 
教皇聖ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年 ポーランド)
『聖体の秘跡への絶えざるあこがれを心の中でつちかうことは時宜(じぎ)にかなっています。これが「霊的聖体拝領」が行われるようになった起源でした。この習慣は幸いなことに何世紀にもわたって教会で行われ続け、霊的生活の達人である聖人たちによって勧められています』
 (回勅:「教会にいのちを与える聖体」第4章)


霊的聖体拝領(ステファノ・マネッリ神父)

霊的聖体拝領は御聖体のイエスを愛する者たちにとって常に得られる
御聖体の生命と愛の蓄えである。霊的聖体拝領によって霊魂の愛する
花婿たるイエスと結ばれることを望む霊魂の愛する欲求は満たされる。

霊的聖体拝領は霊魂とホスチアのうちにますますイエスとの間の
愛の結合である。この結合は霊的であるが、しかしそれにもかかわらず
実在的であり、霊魂と身体との間の結合よりももっと実在的である。
「なぜなら、霊魂はそれが生きるところでよりもそれが愛するところで
もっと多く生きるからである」と十字架の聖ヨハネは言っている。

*信仰、愛そして欲求

明らかであることだが、霊的聖体拝領はわれわれが聖櫃における
イエスの実在的な存在に対する信仰を持っていることを想定している。
それはわれわれが秘跡的な一致を望んでいるということを意味する。
そしてそれはこの秘跡についてイエスの贈り物に対する感謝を要求する。

このすべてのことは聖アルフォンソの次の定式において単純にまた
簡潔に表現されている:

「私のイエスよ、私はあなたがいとも聖なる秘蹟のうちに実際に
現前しておられることを信じます。私はすべてのものに越えて
あなたを愛します。そして私は私の霊魂の内部にあなたを所有する
ことを望みます。私は今あなたを秘跡として受けることができませんので
少なくとも霊的に私の心の中へ来てください - (中断)私はあなたを
すでにそこにおられそして私自身を完全にあなたに一致させる方として
抱きしめます。あなたから分離されることを私に決して、決して
許さないでください。」

霊的聖体拝領は、聖トマス・アクィナスと聖アルフォンソ・リグオリ
が教えているように、それがなされる意向に従って、イエスが望まれる
熱心さの多い少ないによって、イエズスが歓迎されしかるべき
注目が与えられる愛の大きい小さいによって、秘跡の聖体拝領に
似た効果を産み出す。

霊的聖体拝領の特別の有利な点はわれわれが好むだけしばしば 
拝領することができるということである。-われわれが好むとき 、
 夜遅くでさえ 、そしてわれわれが好む場所で 、砂漠においてさえ、
あるいは飛行機の中で空中でさえ 、可能であるということである。

特にわれわれがミサ聖祭に与っていてわれらの主を秘跡として
受けることができないときに霊的聖体拝領をすることは適切である。
司祭が彼の聖体拝領をしている間にわれわれの霊魂はイエスを
われわれの心の中へ招き入れることによって司祭の聖体拝領に
与るべきである。この仕方でわれわれが拝聴するあらゆる
ミサ聖祭は奉献、犠牲の聖別そして聖体拝領を伴った一つの完全な
ミサ聖祭である。

*二つのカリス

イエス御自身がシエナの聖カタリナにある幻視において霊的聖体拝領が
どのように貴重であるか語られた。聖人は霊的聖体拝領が秘跡の
聖体拝領には比べられないのではないかと恐れていた。幻視において
われらの主は二つのチボリウムを取られてこう言われた:
「この金のチボリウムのうちに私はあなたの秘蹟の聖体拝領を置く。
この銀のチボリウムのうちに私はあなたの霊的聖体拝領を置く。
両方のチボリウムは私にとってまったく喜びを与えるものである。

そしてかつてイエスは聖マルガリタ・マリア・アラコックが
聖櫃におけるイエスに切望の嘆息を向けることに没頭していたとき
彼女にこう言われた:「私は私を受けたいという霊魂の望みを
たいそう愛している、それで私はその霊魂の切望によって霊魂が
私を呼び出すときにはいつでも霊魂のところへ急いで行くのである。」

霊的聖体拝領が聖人たちによってどれほど多く愛されてきたかを
見ることは難しいことではない。

霊的聖体拝領は彼らの愛する御方に結びつけられるというあの熱心な
望みを少なくとも部分的に満たした。イエス御自身こう言われた:
「われに留まれ、われもまた汝らに留まるべし」(ヨハネ15:4)。
そして霊的聖体拝領は、われわれが教会から遠くにいるときでさえ、
われわれをイエスに結びつけられて留まる助けとなる。

聖人たちの心のうちに燃えている情け深い憧れを満たす他の
いかなる手段もなかった。
「おお神よ、私の魂全体はあなたを憧れる。鹿が流れる水を渇き
求めるように、私の魂全体は神を渇き求める。」(詩編41:2 )

これは聖人たちの憧れに満ちたため息である。ジェノアの聖カタリナは
こう叫んだ;「おお、(私の魂の)愛する花婿よ、私はあなたと
共にいる喜びをそのように強く切望しているので、私が死んだ
としても、あなたを聖体拝領において受けるために生き返るだろうと
思われます」

福者十字架のアガタは御聖体におけるイエスに常に結びつけられて
生きたいというそのように激しい憧れを感じていたのでこう述べた:
もし聴罪司祭が私に霊的聖体拝領をするように教えてくださら
なかったならば、私は生きることができなかったでしょう。

五つの傷の聖マリア・フランセスにとって、同じように、
霊的聖体拝領は彼女の愛する主から遠く離れて家に閉じ込められて
いた時に、特に彼女が秘蹟の聖体拝領をすることが許されなかった時に、
彼女が感じた激しい苦痛からの唯一の救いであった。

そのようなときには彼女は彼女の家のテラスの上に出て教会の方を
眺めながら、涙をためてため息をついた:「あなたを今日祝せられた
秘跡において受けた人々は幸いです。おお、イエスよ、私のイエスを
守る教会の壁は祝福されています。最愛のイエスの近くにいつも
居る司祭たちは祝福されています。」霊的聖体拝領だけが彼女を
少しだけ満足させることができた。

*日中の間

ここにピエトレルチーナのパードレ・ピオが彼の霊的娘たちの一人に
与えた忠告の一つがある:「日中の間あなたにとって他のことを
することが許されていないとき、あなたのすべての仕事の最中でさえ、
魂の甘受した嘆息をもってイエスを呼びなさい。そうすればイエスは
彼の恩寵と聖なる愛によってあなたの霊魂に常に結びつけられて
留まるであろう。
あなたが身体をもってそこに行くことができないとき、
聖櫃の前に霊的な飛翔をしなさい。そしてそこであなたの精神の熱心な
望みを注ぎ出しなさい。そして霊魂たちに愛された御方を抱擁しなさい」

またこの賜物によって利益を受けよう。例えば、われわれが試練に苦しみ、
あるいは見捨てられたと感じている間、われわれにとって霊的聖体拝領
によるわれらの秘跡の主の同伴よりももっと価値あるものが何かあり得る
であろうか?この聖なる実践は愛の行為と感情をもってわれわれの
日々を満たすために容易に働くことができる。そしてわれわれが
それをほとんど中断することがないようにわれわれがしばしばそれを
新たにするまさにそのことに依存している愛の抱擁のうちにわれわれが
生きることを可能にする。

聖アンジェラ・メリチは霊的聖体拝領をとても好んでいた。彼女は単に
それをしばしば行いまた他の人々にそうするように勧めただけではなく、
彼女の娘たちに、彼らがそれを以後いつまでも実践するように一つの
遺産として残すことを選んだ。

聖フランシスコ・サレジオについてわれわれは何と言おうか?
彼の全生涯は一連の霊的聖体拝領のように見えないであろうか?
彼は少なくとも十五分毎に霊的聖体拝領をする決心を立てた。

聖マキシミリアノ・M. コルベは彼の青年時代の頃から同じ決心を
していた。神のしもべアンドルー・バルトラミはわれわれに彼の個人的な
日記の短い一ページを残した。それは祝せられた秘跡における
イエスとの絶え間ない霊的な交わりにおいて生きられた生活の
小さなプログラムであった。

彼の言葉がここにある:「私がどこにいようと私は祝せられた秘跡に
おけるイエスについてしばしば考えるようにしよう。私は聖なる
聖櫃の上に私の考えを固定するようにしよう
 -私がたまたま夜目覚めたときでさえ  。私がいるところから
イエスを礼拝しながら、祝せられた秘蹟におけるイエスに呼びかけ
ながら、私がしている行為をイエスに捧げながら、私は一つの
電報線を私の勉強部屋から教会へ、もう一つの線を私の寝室から、
そして三番目の線をわれわれの食堂から引くことにしよう。
そしてできる限りしばしば私は祝せられた秘蹟におけるイエスに
愛のメッセージを送ることにしよう。」神的な愛情の何という流れが
これらの貴重なケーブルを通って流れたことであろうか!


******************************
☆おしらせ(1)

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救霊のために、説明できるようになります。ぜひご覧ください。

第1部 信経

第2部 秘跡

✰おしらせ(2)
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ー以上ー


【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第10章)

2022-09-04 15:30:01 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第10章)


第十章 愛の祈りとコンソラータの信心生活の関係について

〈愛の祈りと声祷〉

 信心生活の大切な点と愛の祈りとの関係──まずいろいろな声の祈りとの関係はどうだろうか。確かにコンソラータは偉大な祈る人であった。聖福音の「常に祈れ」(ルカ一八・一)ということばを自分の生活で文字どおり実行した。またきわめて高い聖化の頂上へ達することができたのは、謙遜で根気強く、信頼に満ちた祈りがいかに万能であるかの証明となる。例えば毎月の初金曜日を月の静修(せいしゅう:注1)日とし、八時間顕示されているご聖体のみ前で終始祈った。その日はコンソラータにとって大祝日で、祝日の修道服を着た。

─イエズス─「祈りによってこそ、あなたは力をうるだろう。」(一九三四年三月三一日)

コンソラータは会則に対する忠実従順のため、またよい模範を示すために修道会の共同信心業に熱心に参加した。

─イエズス─「ごミサ、ご聖体拝領、聖務日課、黙想などの信心業をやめるのはよくない。それは、私の計らうことではない。」コンソラータはこの戒めを深く心に刻んでおいた。

 それにもかかわらず、その共同信心業と、毎朝一番先に聖堂にはいった時に、また夜、自分の小室でした十字架の道行の祈りのほか、声祷(注2)を唱えなかった。声祷はコンソラータの心にとって苦痛に等しかった。その霊魂はただひとすじにイエズスを愛することだけをせつに望み、絶え間ない愛の祈りの中に、他の祈りに含まれるすべてのものを見いだしていた。イエズスも聖福音に、「祈るとき異邦人のようにむだ言を言うな。彼らはことばが多ければ聞き入れられると考えている。」(マタイ6-7)と仰せられている。

コンソラータは指導司祭に書いた。「聖福音の『私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり……私によって生きるだろう。」(ヨハネ6-56~57)という句は、愛の祈りによって聖心のうちに生き、永遠まで生きるという確信を与えてくれますので、読むたび、無限の喜びを感じます。この愛の祈りはすべてをはからい、永遠に私をイエズスにひきつけます。愛の祈りによって、私は私自身を、またあらゆるものを、高く越えて、天翔ってゆくのを感じます。しかしこの甘美な主との深い一致の喜びは、たびたび声祷によってかき乱されます。その時私のあわれな霊魂は乱れてぼう然としてしまいます。神父様、ご存じのとおり、愛はすべてを簡単にし、また絶え間ない愛の祈りによって、最も活動的な霊魂すら完全な平安を味わいます。」

 コンソラータは、「何か声祷を唱えるために愛の祈りをやめてはならない。イエズスは私の入用をすべてご存じです!」と思ったが、イエズスはコンソラータに、確かに正しい道を歩んだと示してくださった。コンソラータはきまった祈りのことばを唱えられないことは心の怠惰に基づいているのではないかと心配し、一九三五年十月六日、「わがイエズス、祈ることができません。」と嘆くと、イエズスは「『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!』という祈りより、もっと美しい祈りを私にささげることができるだろうか? 愛と救霊! それより美しいものがあろうか?」と慰めて、安心させてくださった。

院長はコンソラータが健康を害するほど働いているのに気づき、仕事を少し減らして、祈る時間を与えたほうがよいと考えた。コンソラータは服従したいと思ったが、以前より声祷を多くすることは不可能な気がして、イエズスの足もとに、「わがイエズスよ、祈ることを教えてください」と願った。

 イエズスは答えたもうた。「なに? 祈ることができない? 愛の祈りよりきれいな、また私を喜はぜる祈りは、なんだろうか? イエズスが聖櫃(せいひつ)の中で何をしているか知っていますか? イエズスは御父と霊魂を愛し続けている。それだけ。寂として、やかましいことばもなく、何もない。静けさと愛のみ。あなたも同じようにしなさい。いい子だから今まで以上声祷を増さず、ただ聖櫃をじっとながめ、そのとおりにイエズスを愛しなさい。」(一九三五年十一月十七日)

 また会則に命じられた以外の声祷についても仰せられた。「私はほかのどんな祈りを合わせたよりも、ただひとつのあなたの愛の祈りのほうが好きだ。」(一九三五年十二月十二日)

また一九四〇年六月二十日「霊魂を救ってください!」という願いは、あらゆる霊魂の救いを祈ることであると説明された。

「煉獄の霊魂、この世の戦いの教会の霊魂、罪のない霊魂、罪に落ちた霊魂、臨終の霊魂、無神論者の霊魂などすべての霊魂を含んでいる。」もちろん、愛の祈りは、会則によって命じられた祈りや、自由に自分が唱える祈りを妨げるものではない。それについてはだれでも神の恵みの指導に従うべきである。

〈愛の祈りと黙想〉

コンソラータは共同信心業として常に忠実に毎日の黙想を行なった。だが、定まった形式に従うことはできなかった。心の機能を使わない単純な祈りを好む霊魂が経験するように、組織的に、霊魂の諸機能である記憶、知性、意志をつかって黙想することより、だんだん観想へ導かれた。すなわち神に対する愛によって神と一致し、聖霊が心に降って、信仰の光、信頼の親しさのうちに、単純に神が心の底へ直接お示しになり、祈らせ、祈りと愛が全くひとつになるのである。

「神に対する熱望が私たちを黙想させる。しかし神の愛を得た時、愛は私たちを観想へ導く。」(聖フランシスコ・サレジオ)

コンソラータは愛の祈りによってすでに神との一致に達したので、黙想書による信心的知識は、励ましにならず、かえって妨げとなった。「私は絶え間ない愛の祈りによってイエズスと一致しているので、イエズスはもはや長い黙想や読書を要求なさいません。それらのことは私にとって時間の損失です。私にとって重要なことは多くの実を結ぶことなので、多く、絶え間なく愛することだけが不可欠です。」

 胃の弱い人に、強健な人にむく普通の食物が消化できないように、信心生活を始めたはかりの人にすすんだ人の心の食物がむくはずはない。ある日の黙想の時、コンソラータは黙想書のある一点にむりやり精神を集中しようと努めたができなかった。その時イエズスは、「私はあなたの思考ではなく、愛がほしい。」と仰せられて、黙想のために聖福音を勧めてくださった。コンソラータの聖福音の解釈は学問的ではなく、自分の霊魂に応用して心の滋養をとった。そして黙想を始める時、神の恵みに照らされて、常にまず熱心に愛の心を起こした。

 ごくわずかな例をあげよう。一九三五年十月十日黙想(注2)の要点を聞きとることができなかったので、コンソラータは聖福音を開けて、その要点に代わる箇所を捜した。ちょうど、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山と丘はならされ、曲がった所はまっすぐに、でこぼこ道は平らにせよ。」(ルカ3・4~6)の所を読み、イエズスが「愛の祈りがちょうどそのとおりに霊魂に働く。霊魂の空間を満たし、ごう慢な部分を謙遜にする」ということを理解させてくださったので、その考えを十分味わいながら、黙想時間を過ごした。

また一九三六年七月二五日「めざめて祈れ」(マタイ26-41)という聖句を黙想する時、イエズスは「何も恐れなくともよい。私があなたの中でめざめて祈っているから、あなたはただ私を愛していなさい。」と仰せられた。このようにすべてがコンソラータを絶え間ない愛の心へ導いた。放とうむすこのたとえを黙想したのち、日記に記入した。「ほんとうにイエズスは、私に最も美しい『愛』という上衣をくださいました。また『忠実』という指輪をはめ、足には『信頼』という靴をはかせてくださいました。そして私には絶え間ない愛の祈りのほか、何も要求なさいません。」また「一時間も目をさましていることができなかったのか」というイエズスのペトロへの御ことばを黙想したのち、その御ことばを一日のうち何度も思い出して、一時間一時間を全部イエズスヘの愛に満たしてささげようと努めた。また一九三六年八月二十日「絶え間ない愛の祈りが、畑に隠された宝、あるいは真珠であることがわかってきました。この宝をうるため、私はすべての持ち物を売らねばなりません。私の口から洩れることばをすべて売ること、沈黙を守ること。」と書いた。

コンソラータは黙想を重視せず、無視したわけではない。全くその反対で、一心に黙想したが、単に頭を使うやり方ではなく、心を静かに愛の中に休ませ、絶え間なく愛し、純粋で絶え間ない愛の心を妨げる障害物をすべて除くことに努めるやり方で黙想した。

きまったやり方で黙想する目的は、信、望、愛の感動を起こすことだが、愛の心はそのまま愛の感動だから、頭を使うよりも、絶え間なく愛の心を起こしたほうがはるかによい。また黙想時間だけでなく、にぎやかな道、満員電車、人混みの中でも絶え間なく愛の心を起こすことは、組織的黙想にまさることもある。心が乾燥している時、よい考えを頭からしぼり出すよりも、意志の努力で愛の心を起こしたほうが、聖化のため大きな価値を有し、功徳にもなる。聖トマも「絶え間ない愛は、黙想の欠乏をよく補う。」といっている。

〈愛の祈りと霊的読書〉

霊的読書(注3)はすべての霊魂に有益なものである。しかしコンソラータは本からの照らしの必要を感ぜず、定期的に必ず読む会則、指導書、イミタチオ、聖福音のほかは、ほとんど何も読まなかった。長い間小さい聖テレジアの「ある霊魂の記録」を読んでいたが、のち、イエズスはそれもやめるよう仰せられた。イエズスご自身がコンソラータを教えてくださったので、本によってよりも、イエズスによって、コンソラータは犠牲心、神と隣人に対する愛に導かれた。すでにコンソラータの霊的生活は全部唯一の絶え間ない愛の祈りであった。コンソラータは書いている。

「どんなに美しいことが書いてある本でも、その一ページすら愛の祈りを中止させます。イエズスは、私の愛が完全で絶え間ないものであることを望んでいられます。」

心の中にイエズスの御声が聞こえなくなっても、その考えを変えなかった。ある姉妹が、「ただイエズスと共に」という本を貸してくれたがコンソラータは何ケ月も手もとにおいたのちこっそり返した。読まなかったことを言わないですますためだった。

「ある日、霊魂が暗やみに閉ざされた時、私は照らしを受けたいと思い、『ただイエズスと共に』を開きました。けれどもすぐに疑いの雲が私を圧倒して、何もわからなくなってしまいました。指導司祭が手紙とことばでよいことを教えてくださいましたので、私の霊魂の小舟はやっと水平の位置を取りもどしました。それで私に残った唯一のその本を読むことをやめ、これからの生涯ただ聖福音だけを心の糧とすることにしました。」

聖福音は常にコンソラータの守護、よりどころであった。心が暗やみに閉ざされた時は必ずそこに必要な光を見いだした。

「聖人伝では、永遠の生命のことばを見つけるため全体を読まねばなりません。しかし聖福音では一語一語が永遠の生命の糧です。……イエズスは私に聖福音を非常に深く理解させてくださいます。たびたび聖エリザべトの『信じたあなたは幸いである』(ルカ1-45)ということばをとらえます。ああ、私もほんとうに深くイエズスを信じたいと望みます。」

「『あなたがたが私に一致しており、私のことばがあなたがたにとどまっているならば、望みのままにすべてを願いなさい。そうすれば与えられるであろう。』(ヨハネ15-7)ああわが神よ、あなたは私の希望のすべてをはるかに越えるおかたであります! あなたのおきてを守れば、あなたへの愛にとどまることができます。そのためには、私の『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!』」

「カナの婚宴で聖マリアが仰せられた『なんでもあの人のいうとおりにしなさい』(ヨハネ2-5)という御ことばが絶えず聞こえます。指導司祭が、イエズスに対して、ただひとつの愛の祈りも決してこばんではならないとおっしゃいましたので、そのとおりにしようと努めています。愛の祈りによって、私の生活はすべてふしぎなほど簡単になりました。愛の祈りのほかは何ものもなく、だれもありません。それによって純粋な愛は自由に、高く、もっと高く翔けのぼります!」

コンソラータは特に聖福音を熱心に読んだが、聖書全体をも愛し、喜んで読んだ。

「私は特別無学な者ですが、ラテン語で聖務日課を唱える時、イタリア語で唱えるよりもずっとよく理解し、神の照らしをいただきます。例えば朝課の時、Quis ergo nos separabit a caritate Dei?(だれが私たちを神の愛から離し得ようか?)という句が私をとらえました。いいえ、使徒聖パウロとともに繰り返して言います。どんな被造物も私を絶え間ない愛の祈りからひき離すことはできません。」

同様にコンソラータは食事ちゅうの朗読からも心の糧を得て、イエズスに対する愛をますます絶え間なくするために適用した。

〈愛の祈りと特別究明(きゅうめい)〉

特別究明(注4)
は信心生活の熱心を保ち、増大するのに不可欠な手段である。コンソラータは、その特別究明を全部純粋な絶え間ない愛の祈りに集中した。コンソラータの決心も、それを守る英雄的な誓約もすべて「純粋で絶え間ない愛の心」という共通分母を含み、イエズスは、その絶え間ない愛の祈りを忠実に励めば、そのために必要な決心を忠実に守る力をお与えになると約束された。コンソラータは日課表に定められた特別究明の時間(正午と夜)だけでなく、ある意味で一日じゅうを特別究明にあてていた。イエズスは一時間ごとに絶え間ない愛の祈りの決心をあらためるよう教えて下さったので、一時間過ぎるごとにすばやく過ぎた一時間の愛の祈りについて究明した。そのためいつも小さな手帳を持っていて、不熱心について記入した。だから夜の一般究明(注4)の時、自分の霊魂の状態がはっきりわかった。不熱心については真面目に痛悔して舌で床に十字架を印したり、十字架にせっぷんしたりして償い、また静かに深く信頼しながら愛の歌を始めた。

この方法がすべての霊魂に適当だとは言えないが、コンソラータの成聖への激しい飢えかわきにはこの方法が必要であった。絶え間なく純粋な愛の祈りをささげるためには、極端に不断の警戒を要し、霊魂を統御(コントロール)して、熱心をしばしばあらためねば絶対不可能であった。

他方、常にただひとつの点について特別究明してゆくことは実行を容易にし、絶え間ない愛の祈りによって、コンソラータは他のすべての徳をも得て、成聖の道に早く進むことができたが、それこそイエズスの堅い御約束なのであった。

〈愛の祈りと静修日〉

毎月の静修日は、コンソラータにとって霊魂を強める日で非常に熱心にその日を利用した。カプチン会では静修日を自分で自由に定めてもよいので、コンソラータは初金曜日と定めた。

コンソラータは初金曜日の前夜の聖時間から準備を始めた。毎月の静修日にイエズスはひとつの深い考えを与えてくださり、それについて熟考した。たとえば、「人の子が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるため」など。

もちろんその時いただく心の照らしと、起こす決心は、いつも愛の祈りと関連があった。そしてイエズスの許可を得て、その静修日の終わりごろ、あるいはその次の日曜日に、コンソラータは自分の霊魂の状態をくわしく書いて指導司祭に送った。本書でたびたび引用したのはその手紙である。

結局、コンソラータの全生活は絶え間ない愛の祈りであり、イエズスの愛の祈りについての教えに導かれ、また自分の毎日の経験によって、この愛の祈りの本質的価値と、霊魂を容易に聖化させる効果とを確信していたのである。

「私が望んでも、絶えずご聖体拝領することはできませんが、愛の祈りが、イエズスを霊魂に迎えいれること、つまり愛の祈りによって恵みは増し、ちょうどご聖体拝領をしたとしても同じであることがだんだんわかってきました。」

コンソラータの性格のすぐれた特性のひとつは、その強い意志であった。その意志によって、自分の使命にすべてを集中し、目的達成のため英雄的な決意をもって雄々しく愛の祈りを絶え間なくささげるという必要手段にあたったのである。また愛の祈りのひとつひとつが永遠まで続くという確信は、コンソラータを非常に効果的に励ます動機となった。そして少しの休息も許されぬ、悪魔との戦いにおいて、愛の祈りは常に勝利を得させる武器であった。心が喜びに満ちている時も、暗やみに苦しんでいる時も、いつも変わらず、一日十七時間の間一度も愛の祈りを怠らぬよう努めた。

「私が香部屋(こうべや:注5)を出た時は夜の九時でした。二階の階段の降り口の所で、私はまっ暗やみにつつまれて立っていました。下へ降りてゆくことは、転んで死ぬ危険がありました。けれども私はしっかり、手すりにつかまって、伝わりながら静かに一段一段降りていってとうとう下へ着くことができました。降りながら私は考えました。これはなんと私の霊魂の状態に似ているでしょう。霊魂もまっ暗やみにつつまれています。けれども絶え間ない愛の祈りにしっかりつかまることによって、静かに無事、生涯の最後に到達するでしょう。……そうです。愛の祈りこそは真にすべてであり、進んでゆくために必要な光と力を与えます。もし暗やみの中でつかまれるこの救霊のいかりがなかったら私の霊魂は災いなるかな! 私が落ち込む絶望の深淵はどんなに限りなく深いでしょう!」


(注1) 静修(せいしゅう):修道院あるいは、その他の宗教的な場所で行われ、信仰の真理について黙想し、それに関する指導司祭の講話を聞き、とくに熱心に秘跡を受け、他の信心業を行うなど、信仰生活の潜心(精神集中)と深化とのためにおこなわれるものをいいます。

(注2)カトリック教会の伝統では、口祷(声祷)、黙想、念祷(観想的な祈り)を重視してきました。

【口祷の祈り】口祷は「声の祈り」とも言われます。弟子に祈りの仕方を教えてほしいと言われたイエスは、「天におられる私たちの父よ、・・・」と口祷の祈りを教えてくださいました。

【黙想】黙想とは、何よりも聖書の神の言葉から始まる、祈りのうちに行なわれる内省です。黙想する時には、聖書(特に福音書)、聖画像、当日ないし季節の典礼文、霊的書物などを用います。黙想する時には、知性、想像、感情、望みを働かせ、わたしたちの信仰を深め、心を改めさせ、キリストに従う意志を強めるようにします。

 【念祷(観想的な祈り)】聖テレジアは、「念祷とは、わたしを愛しておられる神としばし語り合う、友愛の親密な交わりです。わたしたちはその神から愛されていることを知っているのです。」と語っています。この祈りにおいて、感情をあらわすにも、言葉にだすのではなく、内心で行われます。そして信仰の神秘について愛情をこめて行われる直観的考察と賛美といわれています。友人同士が語り合うことを通してお互いの理解を深めることができるように、念祷を通して神のことをより理解し、神が我々を愛しておられることや、お望みのことを知ることができます。(カトリック北白川教会HPより)

(注3)霊的読書:初期の頃から修道生活において定められていたもので、祈りおよび神とのいっそう親密な一致へと人々を導く読書。この種の読書として、聖書が常にその首位を占め、教会の教父たちの著作、とくに教皇および司教の著作、聖人の著作および聖人伝、そのほか、神を崇敬し奉仕するために知性を照らし意志を強め情緒を高めることを目的とした著作が用いられます。(現代カトリック事典)

(注4)意識の究明意識の究明とは、絶え間ない観想のうちに、師イエスの徳を模倣し、わたしたち自身のうちに師イエスを形づくり、彼の住まいとするために心を開き、絶えず師イエスに心を傾けることです。師イエスを見、聞き、洞察し、迎え入れようとする弟子の姿です。意識の究明は、自分自身を知るために必要な方法です。意識の究明は、人を謙虚にさせ、神に対する感謝と罪の悔い改め、将来に向かう固い決心をさせます。

究明には、予防究明、一般究明、特別究明の三つの種類があります。

【予防究明】 朝、その日の一日を予見し、それに備える決心および計画を立てます。
【一般究明】 十戒、福音的勧告、主な徳、職務上、身分上の義務について、特に意志の状態と祈りの態度について調べます。
【特別究明】 主欠点と主決心について、また、霊的生活の歩みについて調べます。

 究明をよくするためにいろいろな方法が勧められますが、効果的な方法は、それを行おうと意志的に望むことです。つまり、神の栄光を求め、すべての過ちを悔いながら、知性・意志・心について究明するように勧められています。(『パウロ家族の祈り』より)

(注5)香部屋:聖物納室、聖具室ともいう。聖堂の奥室で司祭が祭服に着替えたり、祭服・祭具を保管したりする部屋。(キリスト教百科事典)

【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第9章)

2022-09-04 15:29:41 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第9章)

第九章 絶え間ない愛の祈りの完成によって愛の生活の完成へ

コンソラータの道を歩みたいと望む霊魂が、その努力と成聖の偉大さに恐れをなし、「さあ、私にはとても不可能だ。」と落胆してしまわないように、少し述べることとする。

イエズスはすべての霊魂を高い完徳に召し、完全の極致へは努力なしに到達できぬことも教えられた。たとえその目的に達することが不可能に思えても努力を免除される者はひとりもないわけである。

また、イエズスはコンソラータをこのように高い成聖の頂上へ召されたのだから、コンソラータは、当然すぐに頂上へ達し、もう別に努力をしなくともよかったと、考えてはならない。それどころか、コンソラータは、頂上はまだだ、まだだと確信していたために、生涯の最後の瞬間まで善戦の武器をはなさずがんばったのである。

だから神は、成功よりも、人が神の恵みに助けられて、どんなに熱心に、断固として努力するかということのほうに重きをおかれるのである。成功は全く神によっている。しかし神の恵みは万人に等しく与えられるものではなく、神の慈悲深い計画によって適切に与えられる。さてコンソラータは、絶え間ない愛の祈りの道を世に示すため、神によって選はれたので、その使命に応じ、特別の恵みを与えられたのは当然である。それは、コンソラータのあとに従うように召されたすべての霊魂の模範となるためであった。

本書で述べた神の要求が、あらゆる霊魂に要求されていると考えてはならない。またコンソラータの道を歩むよう召された霊魂についても同じで、各人各様でそれぞれ違う。ただ神が示されたコンソラータという模範に、しかと目をすえ、惜しみなく恵みにこたえ、能力の限りを尽くして模範にならい、神が重きをおかれるのは成功ではなく努力であることを常に心にとめておけば十分である。

〈愛の祈りの絶え間ないとは〉

完全な愛とは、神を神のためにのみ愛するという純粋さと、常に絶え間なく愛することである。絶え間なくとは、単に習慣的にではなく、生き生きと現に燃えている愛の心を起こし続けること、イエズスはそのための非常に効果的で便利な方法を、コンソラータを通じて教えてくださったのである。それが絶え間ない愛の祈りである。

─イエズス─「愛の祈りによって私と常に一致するようになると、一致を妨げるいろいろな小さな欠点が見えるようになり、それを追い私うことによって、あなたの一日が全部一つの絶え間ない愛の鼓動となり、永遠までその鼓動が続くようになる。」(一九三五年八月二二日)

またイエズスはたびたび、絶え間なく愛の祈りを続けるため内的外的の沈黙を命じた。

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りは線路の上を走る急行列車のようである。もし線路が無益な考えや不必要なことばで、あちらこちら列車妨害された場合、列車は何度もやむをえず停車しなけれはならない……。」(一九三五年十二月十六日)

─イエズス─「コンソラータ、絶え間なく愛の祈りを唱えてあなたが私の中に住んでいるかぎり、あなたの生活は驚くほど聖なる生活である。その時あなたは示された未来を信じ少しも疑わない。けれども、もし休憩時間、私を離れ被造物との会話にまきこまれたとすると、休憩時間が終わった時、あなたが内的に経験しているこれらの偉大なことは、全部空想ではないかという疑いが入り込むだろう。だからあなたは決して私を離れて被造物のほうへ行ってはいけない。ただの二十分間でも!話してもよい。だができるだけ問われたことに答える時だけ、そしてその時も常に心の中で私を愛し続けなさい。」(一九三五年十一月十二日)

コンソラータは、どの程度まで絶え間なく愛することに成功しただろうか? 聖マリア、聖ヨゼフ、他のわずかの聖人にだけ特別与えられた恵みなしに、人は文字どおり絶え間なく愛することはできない。ちょうどイエズスが倦むことなく、絶え間なく愛の祈りを求められたように、コンソラータのほうでも、絶え間なく愛の心を起こす努力を忠実に尽くした。

─イエズス─「私はあなたの着衣式の日(一九三〇年二月二八日)初めて絶え間ない愛の祈りを要求したが、その日から今日まで、ほんの二、三日しか忠実に果たし得なかった。」(一九三五年九月十六日)

五年間にわずか二、三日絶え間なく愛の祈りをささげ得たというが、他の日に絶え間があったとしても、ほんの短い間で、それもほとんどしかたのなかったもので、完全に自由に怠ったことは全然なかった。しかもその短い怠りの時間すらだんだん努力により、お恵みにより、完全になくなったのである。

一九三四年四月八日、荘厳な永久誓願の日、イエズスの要求にこたえ、コンソラータは犠牲として自分をささげた。しかし一九三五年九月の初金曜日まで、イエズスはいけにえとして聖別なさらなかった。その日にイエズスは、コンソラータの愛が、絶え間なくなることをおごそかに確認なさり、コンソラータはそれを承諾したのである。

初金曜日の前晩の聖時間ちゅう、イエズスは、ご自分の愛への渇き、愛による「兄弟姉妹」のための償い、また彼らに対して持っていられるご自分の権利について語られた。イエズスは聖心により、コンソラータにすべてを与えたもうたので、その愛にこたえて、コンソラータも自分のすべて、愛と心のすべてを、愛の祈りによってイエズスにささげるはずだった。

─イエズス─「コンソラータ、無益な考えと不必要なことばを全く放棄して、愛の祈りを決して中絶しないように、犠牲によってあなたの忠実と雅量を証明しなさい。愛の祈りを決して中絶しないことによって、私のコンソラータが、だんだん消耗してゆき、犠牲として殺されてゆくことを私は知っている。ごらん、それこそ愛のいけにえの意味である。」

翌朝、イエズスは約束どおり聖別式を行なわれた。しかし外部的には何も見えず、すベてが心の中で行なわれた。

─イエズス─「きょう私はあなたを愛のいけにえとして聖別する。私はいけにえであるあなたを、矢で傷つけず、心の中であなたを炎々と燃やす。きょうから死ぬ日まで、残された時間全部を絶え間ない愛の祈りで満たしなさい。それについて私が全部の責任を受け持つ!」

イエズスが責任をもってくださっても、コンソラータにとっては絶え間ない戦いとなったのである。だが聖別式によって愛の炎に燃やされたコンソラータは、愛のいけにえとして強められたことを感じた。そして一九三六年六月の聖心の祝日に、絶え間ない愛の祈りの誓約を立てることを覚悟した。イエズスがそれを望み、準備させてくださった。自分の性質にとって、愛の祈りを一日じゆう絶え間なく続け、一度も怠らぬことが非常にむずかしく、本性をすりへらすものであることを毎日経験していたので、その誓約がそんなに簡単でないことはよく知っていた。コンソラータは、その誓願を立てる準備として、九日間の祈りを行なった。その初めのころ、日記にこう書いた。

「絶え間ない愛の祈りによって、考え、ことば、想像力のすべてを犠牲にして提供するので、神にすべてをささげるのだということが、だんだんわかってきました。つまりだんだん自己を捨て、自分の本性を殺すことです。」(一九三六年六月十日)

だから、藁火(わらび:わらを燃やしてたく火)のような一時的な熱中ではなく、イエズスが仰せられたとおり、霊魂を十字架につけ、絶え間なく傷つける誓約であった。

一九三六年六月十八日、聖心の祝日の前夜、この食事の時も、仕事、休憩時間にも愛の祈りを一度も怠らないという、守りがたい誓約を立てた。聖マリアと聖ヨゼフの御取り次ぎにより、聖心に全く信頼しながら、この誓約により、コンソラータは、十字架につけられたイエズスに自分をつなぎ、イエズスとともに愛の贖罪の燔祭に、焼き尽くされてゆくのである。

─イエズス─「今や、十字架をになって進むのではなく、十字架上で、絶え間ない祈りによって、最後までたゆまずがんばるのである。」(一九三六年七月八日)

それは真に英雄的な剛勇を要するものだったが、コンソラータは頂上を仰いで恐れる者ではなかった。

「イエズスよ、真にあなたを愛するとは、ただひとつの無益な思いが心にはいるのを許すよりは、死ぬこと、不必要なただひとつの文章を口にするよりは死ぬこと、ただひとつの愛の祈りを怠るよりは死ぬことです。」(一九三六年十二月)

〈愛の祈りと愛の純粋さ〉

すでに述べたとおり、絶え間なく愛の祈りをささげるためには、精神、心、口の慎みを守り、心を散らす無益な考えを防ぎ、神の愛を妨げる自己心や、世間的なもの、被造物から離脱し、絶え間ないきびしい沈黙によって潜心しなければならない。ところが、この絶え間ない愛の祈りこそ、精神、心、口の慎みを守らせる大きな助けとなるのである。

─イエズス─「愛の祈りによって、考えとことばを完全に抑制できるようになるので、悪魔はあなたに対して何もできなくなってしまう。」(一九三六年九月十六日)

イエズスは絶え間なく愛の祈りを続けることとともに、愛の祈りを純粋なものとすることを要求された。

─イエズス─「愛の祈りの純粋さとはなんであるか知っていますか?それは無益な考えがひとつでも心にはいるのを絶対許さないことである。悪魔は愛の祈りを怠らせようと激しく攻撃している。ただひとつのどんな考えでも、あなたを愛の祈りから引き離すかぎり、敵を満足させるだろう。」(一九三五年十月十七日)

─イエズス─「ごらん。あなたの心にへびのように忍び込んでくるよい考えの中にも、常にいくらか自己心、自己満足が含まれている。それによって愛は濁ってくる。私がすべてを考えてあげることを信じ、私に全く信頼し、どんな考えがはいるのも許さぬならば、愛の祈りは純粋となるだろう。」(一九三五年十二月六日)

イエズスは恵みによって、愛の永続と純粋さを補い固めてくださったが、コンソラータのほうでも、あらんかぎりの総力を結集して、特別強い意志と自己放棄により、努力し、戦った。

─イエズス─「私が恵みによって、愛の純粋さを強めてあげても、もう努力する必要はないと思ってはならない。いいえ! 恵みによって強めても、戦いと努力は相変わらず必要である!」(一九三五年十二月十五日)

戦いは苦しみであり、絶え間なく戦うことは、絶え間なく苦しむことであった。だが、愛の純粋さによって、神のうちへいかりをおろした霊魂は、苦しみを忍ぶにも純粋となり、つまらぬ嘆き、自らを頼む自己満足、いかにもあわれないけにえであるというわざとらしいみせかけで、人の注意をひくことなく、いけにえの苦しみの芳香をすべて神へのみ立ちのぼらせることができる。

─イエズス─「霊魂が愛の純粋さに停泊すれば、平安につながれ、不安になることがない。十字架の足もとにたたずんでいられた聖母マリアをごらんなさい。苦しみの海の中で毅然(きぜん)として落ち着き、ひと言のお嘆きのことばもない。剛毅(ごうき)をもって苦しみを受け、高貴な威厳をもって苦しんでおいでになる。落胆もせず、ただ穏やかに、凛(りん)として、苦しみを神にささげておいでになる。イエズスのあの最後の『すべてはなしとげられた』とのことばにすらも。苦しみの日にはあなたもそうするように。そして愛の純粋さが、そうすることを助けるだろう!」(一九三五年十二月九日)

─イエズス─「コンソラータ、あなたのまわりのまぶしいほどまっ白な雪をごらんなさい。その雪のように心も精神も口も全く清く純粋であるように。そうすればすべての苦しみは甘美なものとなり、イエズスと霊魂に対する愛のために、苦しみを忍ぶことは喜びとなる。」(一九三五年十二月十三日)

愛の純粋さは心の最高位の清さである。だから絶え間ない愛の祈りに、霊魂の総力を尽す者は、最高位の清さを有するのである。

─イエズス─「精神の慎みによってあなたの心は清く汚れなくなる。絶え間ない愛の祈りはあなたを私の望む道へと燃えるような熱心で進ませる!」(一九三五年十一月三十日)

一九三六年八月六日、イエズスはコンソラータに絶え間なく純粋に愛する誓約を立てることを要求された。「イエズスの愛の渇きを不浄な水でいやすことは、浄配(清い配偶者)としてできません。だから愛の祈りは、ほかの何ものも混じえない全く清いものとならねばなりません。」この誓約は最も守りがたい、しかし最高の完徳に向かわせる最も効果的な誓約である。コンソラータは愛の祈りを絶え間なく続けるだけでなく、その純粋な清さを保つために、一日じゅう、いつ、いかなる時でも、常に自己放棄をゆるめることなしに全力をあげて努力しなければならなかった。一九三六年一月一日コンソラータは書いた。「イエズスが私に対してなさってくださるように、私もイエズスに対して同じようになりたい。すなわち、心、精神、口の慎みにより、清く光り輝く小さい白いホスチアに。」実際に、ホスチアになったことをイエズスは確認された。

─イエズス─「あなたは今や無限の愛によって、永遠の愛にささげられたホスチアである。」(一九三六年七月十九日)

〈愛の祈りと愛の熱烈さ〉

「あなたは神なる主を力を尽くして愛しなさい」との聖句によれは、完全な愛の第三の特徴は、自分の全力を尽くすもっとも熱烈な強さでイエズスを愛することである。

イエズスはコンソラータを熱烈に愛し、またその愛に対して、コンソラータのほうでも熱烈にこたえた。ここでイエズスがコンソラータに与えられた特別な恵みや賜ものをすべて数え上げることができないが、絶え間ない愛の祈りに関係の深い次の御ことばだけを引用しよう。

「コンソラータ、私たちのこれからの努力は、ただ欠点を避けるだけではなく、イエズスを、愚のきわみまで熱烈に愛することを目標にしよう! 私はあなたから熱烈に愛されたい!」(一九三六年十一月十日)

どうしたらその熱烈な愛に達することができるかを、コンソラータは聞いた。

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りによって、あなたは私を熱烈に愛するようになる!」

聖母マリアもコンソラータをたびたび励ましてくださった。

「イエズスを愛し、あなたの絶え間ない愛の祈りをできるかぎり熱烈にするためには、あらゆることを役だてなけれはなりません。」

信仰の徳が信仰の行為によって増加し、希望の徳が希望の行為によって増加するように、愛の徳も愛の行為によって増加する。だが何か非常に特別な愛の行為、犠牲をしなければならないのではなく、目前のあらゆる小さいことを、絶え間ない愛の祈りのうちに熱烈な愛をもって行なえばよいのである。コンソラータは、その愛の熱烈さが最高熱度に達するように、激しく努力したので、御父、神は、ほどよくその熱を和らげ、落ち着いて、愛を増加するよう勧めてくださった。

─御父─「絶え間ない愛の祈りにおいて、あなたは静かに燃えなければならない。あなたが静かにすすまず、心に強制するなら、心は疲れて、愛の歌を歌い続けることができなくなる! 静かだから熱烈でないと思ってほならない!

 静けさこそは、愛の祈りの絶え間ないことを証明する。わかりましたか? 愛そのものは火です。その火が静かにあなたを燃し尽くすようにしなさい。私の小さいホスチアよ! 平安のうちに愛しなさい。愛があなたを静かに燃し尽くすことを許しなさい。荒れ狂うような激烈さ、猛烈さをもってせずに。そうでないと、あなたは、ただ疲れ果てて、私を続いて、あなたの愛の歌で喜ばしてくれることができなくなるだろうから!」
(一九三五年十一月二九日)

同じ意味のことをイエズスも熱心に勧められた。コンソラータはミシンを踏んでいた。一目一目を愛の行為としてささげようとして、少しでも多くするためスピードをあげた。だがあまり急いだので、縁がねじれたまま縫ってしまったので、ミシンをとめねばならなくなった。

─イエズス─「わかりましたか? コンソラータ、今の失敗は愛の祈りについても同じである。静かに私を愛し続けるならば、愛の祈りを絶え間なくささげることができるが、せかせかと心にむりを強いるならば、途中でやめねばならなくなる。続ける力がなくなってしまうから。」

絶え間ない愛の祈りによって、コンソラータがだんだん愛の熱烈さを増していったことを伝えるには、その手紙と日記の熱烈な部分を、全部そのまま書き写さねばならないが、ここにそのひとつだけを書き写そう。

「夜、聖ひつのみ前で少しの間祈っておりました。私の弱い心臓は、愛の大火に焼き尽くされ、爆発的に噴き出してくる愛の熱願と、猛烈さをおさめるには、心臓は小さすぎて、もはや耐えず、ひどく痛んできました。私を熱烈に愛してくださるイエズスを、同じ熱烈さで愛したいという無限な強い衝動にかりたてられ、その愛の熱願を何度も繰り返した時、私の心の中にもうひとつの心がおられるのを感じました。もうひとつの心臓! イエズスの聖心! その聖心の愛こそは、私の心臓を痛めずに、無限に流れ出ることができるのです!」(一九三六年七月四日)


〈愛の祈りと自己献身〉

愛の祈りを一度も自由に怠らぬほど、絶え間なく、また無益な考えがひとつも心にはいらぬほど、純粋になるためには、霊魂は風の中の羽のように、自己を完全に神の御愛に任せなければならない。言いかえれば霊魂が他の被造物だけでなく、自分についての考えを捨て、自分を忘れ、神の御愛に自分を沈めて、自分がなくなることが必要である。これは非常にむずかしいけれども、イエズスが霊魂のうちに自由に働きうるため、絶対的に必要である。

自分を捨てて神にゆだねるとは、自分の霊的進歩を無視し、怠けて無関心となり、気まぐれに、また好みのままに努力をやめてしまうことではない。それは霊魂に働きたもう神に単純に従うことである。

「私の働きに反対しないで、そのままに任せなさい!」 そうです! イエズスに任せなさい! なぜならイエズス以上、霊魂の聖化を望む者がいようか?またイエズス以外に霊魂を聖化できる者がいようか? だれがイエズスのように霊魂の真の必要を知っているだろうか? 霊魂に対する神のご計画を知りたもうのはイエズスだけである。またイエズスは全能で忠実そのものであり、あらゆる約束を守りたもう!……ではなぜ自分を全くイエズスにゆだねて、霊魂のうちで、イエズスが絶対自由に働きたもうようにしないのだろうか? またなぜ、自分の意見、思想、希望、心配をイエズスにゆだね、信頼に満ちて、各瞬間、そのとうとい導きに忠実に従わないのだろうか?

─イエズス─「コンソラータ、考え、望み、ことばにおいて自分を全く忘れなさい。私の働きにすべてを任せなさい。私がすべてをするから、あなたは各瞬間、私が大きな深い愛をもってあなたに要求することを、私にささげなさい!」(一九三五年九月二二日)

イエズスが神として行ないたもうことは、いたって善であり、いつでも霊魂に最も役にたち、神の善のみを生ずる。この神の行ないの効果がわからなくとも、神に全く任せなければならない。イエズスはそれを強くコンソラータに求められた。

─イエズス─「私の働きに任せなさい。そうすれば私がすべてを善く行ない、私の小さなホスチアは、愛においても救霊においても豊かになるだろう。」(一九三六年十二月十八日)

多くの人は、自分で自分を聖化できると信じ、イエズスの御働きにすべてを任せる代わりに、自分で聖化をはかろうと望み、自分で道、手段、方法を選んで、ある意味では、イエズスにどうすべきかを教えたいと思っている。その結果聖化できなくなる。聖化への道を邪魔する自己を除き、イエズスの導きに従えば従うほど、イエズスによって早く、完全に聖人になることができる。

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたにあらゆる権利をもっている。だがあなたはただひとつの権利しかもっていない。すなわち私に従うこと。私は、私に信顧し、どんな状態においても私の指導に反対せず、常に平安と喜びのうちに私に奉仕する、あなたの従いやすい心がほしい。」(一九三五年九月二四日)

霊魂は愛によってのみ、この信頼に満ちた全き自己献身に導かれる。愛なしには、考え、望み、心配などを放棄できない。イエズスが霊魂のうちに、ご自分ですべてを行ないたもう目的は、その霊魂が愛をもって、神の御愛にこたえるように努力することである。

─イエズス─「霊魂のうちに働くのは私の楽しみである。私は霊魂のうちですべて自分でしたいと思っているが、同時に霊魂が私を愛することだけを望んでいる。」(一九三五年十一月八日)

─イエズス─「あなた自身のこと、あなたの欠点、あなたの現在、未来の困難、あなたの完成、あなたの聖徳などについて考えてはならない。私があなたの聖化、聖徳について考えてあげよう。だからあなたはこれから、ただ私のことと、他の霊魂のことだけを考えなさい。私を愛することと救霊のことだけを!」(一九三四年八月二二日)

ここに絶え間ない愛の祈りと自己献身との親密な関係をみることができる。絶え間なく純粋に愛の心を起こす人は、自然に、神の愛にすべてを任せ、またその愛に満ちた自己献身によって、自然に、絶え間なく純粋な愛の心を起こすようになる。すなわち神に自己献身すればするほど愛に生き、愛すれは愛するほど、神に自己献身するのである。

─イエズス─「私のみにすべてを任せなさい。あなたの唯一の務めは、絶え間ない愛の祈りと、私が直接、又は間接に、上長や姉妹たちをとおして、あなたに要求することを、単純にそのまま、いつでもすることです。絶対的な服従とはそれである。」(一九三五年十月十五日)

イエズスに絶え間ない純粋な愛の祈りをささげるため、自己を捨てた霊魂に対して、イエズスは、世の母があふれる愛にかられてその子を抱きしめる時よりも、もっと愛深く、あらゆることを気づかい、考えてくださる。

─イエズス─「毎日、毎時間、毎瞬間、絶え間ない愛の祈りによって私に従いなさい! 他のことはすべて私が考えてあげよう。」(一九三六年五月二十二日)

コンソラータは驚くべき活動を示し、毎日すべての人に奉仕するとうとい大志をいだいて、秘書、コック、門番、靴屋などの務めのほか、どんな人にも、いつでもすぐに、喜んで手伝った。時にはあまり多くの義務があって十分奉仕できないことを心配した。

─イエズス─「ただ愛の祈りだけ、他のすべての心配を捨てなさい。私がすべてをよくしてあげることを確信しなさい。あらゆることをするに要する時間も私がみつけてあげよう!」(一九三六年九月八日)

コンソラータは書いている。「死ぬこと、もはや存在しないこと! もし私が自分のことを考えたり、たとえよい考えでも夢中になってその考えを追ったり、つまらぬことでも、自分のことを話したりするならば、それは死ぬことでなく、私の中にまだ生きていることです。それはちょうどイエズスがすべてを考えてくださらないように、イエズスヘの不信頼を表わしています。」

コンソラータは一九三七年聖心の祝日に、神のみ旨により、指導司祭の許可を得て、完全な自己献身の誓約をたてた。その誓約を英雄的に守ることにより、絶え間ない戦いにおいて、絶え間なく深い平安と精神の不動の落ち着きを保つことができた。

「私はもはや主の聖なるみ旨が行なわれることのほか、イエズスに望むことがなくなりました。その他のすべてに全く無関心ですので、私をちょうど、聖心の上で眠る嬰児にたとえてもよいと思います。私が主に自己を全くゆだねた時から、甘美な平安を楽しみ、不動の喜びを味わっています。イエズスがすべてのことをよくしてくださるので、私はもう望むものが何もありません。今では献身の生活は、私が神に何もささげていないことを悟った時の落胆の苦しみすらなくしてくれました!」

 実際、コンソラータは絶え間ない純粋な愛の祈りにより、また、すべてのこと、すべての人に対する「はい」という承諾によって、神にすべてをささげていた。そしてその愛の祈りはコンソラータの死によって中断することなく、天国において永遠に至るまで歌い続けられるのである。

【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第8章)

2022-09-04 15:29:05 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第8章)

第八章 絶え間ない愛の祈りによる愛の生活の実行

〈絶え間ない愛の心〉

道が多くの小さな石の集まりで、私たちの生涯が各瞬間の集まりであるように、愛の道も、絶え間ない愛の心に満された地上の生活の各部分から成り立っている。それを実行するため、イエズスは次に述べる愛の祈りをコンソラータに教え、人々に伝えるように仰せられた。

小さい聖テレジアのように特別の愛の祈りのことばを使わず、日常生活のすべてを愛と信頼の心をもって神にささげることは、多くの霊魂にとって適当な愛の道だと思われる。だが、日常生活において、心を散らさずに神と一致するため、短くわかりやすい完全な愛の祈りのことばを用いることは、非常に助けとなる。

母が小さな子どもの上に身をかがめ、子どもに教えたいことばや文章を何度も何度も繰り返し教えるように、イエズスは、コンソラータの小さな霊魂に身をかがめて、絶え間ない愛の祈りを、口うつしに教え、絶え間なく神を愛し、その祈りを絶え間なく神にささげるように要求された。その時から、この愛の祈りはコンソラータの信心生活の中心となり、愛の道を歩む最も重要な手段となった。

〈絶え間ない愛の祈りのことば〉

イエズスがコンソラータに口うつしに教えてくださった愛の祈りは次のことばである。

「イエズス、マリア、あなたを愛します! 霊魂を救ってください!」

この愛の祈りの価値について簡単にまとめてみよう。

1、このことばよりもっと短いことばで、完全な愛の心を表わすことは不可能である。これはあらゆること、すなわちイエズスへの愛、マリアヘの愛、霊魂への愛を含んでいる。

2、これは純粋な愛を表わすことばである。このことばによって人は神に対し、あらゆるものの中で最もすぐれたささげもの、すなわち愛と霊魂をささげるから。

3、同時に、このことばは隣人愛を表わしている。他の霊魂のために、絶え間なく祈るこのことばには、隣人愛の最高の表現がある。そしてイエズスが仰せられたとおり、煉獄の霊魂をも含むすべての霊魂を救うという目的のため、イエズス、マリアと協力することを表わす。

4、次に述べる意味において、この愛のことばは絶え間がない。すなわち「心を尽くし、霊を尽くし、力を尽くし主なるあなたの神を愛せよ。」との第一のおきてを完全に、この愛の祈りが守らせるのである。

「心を尽くし」 愛の祈りは心からわき出てこなければならない。絶え間なく熱烈に愛するのは心であり、心は愛の中心である。

「精神を尽くし」 絶え間ない愛の祈りは、自由意志からのあらゆる無益な思いを自然に遠ざける。

「霊を尽くし」 聖トマが解釈したように、これは全意志を尽くしての意味である。絶え間ない愛の祈りは感情によらず、激しい意志によってささえられる。

「力を尽くし」 できうる最大限の間、絶え間なく熱烈に愛するためには愛の一致に霊魂の全精力を集中しなければならない。

5、この愛の祈りは完全な祈りであり、「常に祈れ」(ルカ18-1)という主の命令を文字どおり実行することになる。

6、この愛の祈りによって、霊魂はきわめて偉大な克己、浄化、静かな自己献身の生活を送り、神の愛のいけにえなる小さな霊魂の列に加わる。

〈絶え間ない愛の心とは〉

イエズスが「絶え間ない愛の心」についてコンソラータに教えられたことは非常に重要なもので、まちがったやり方にならないようにしなければならない。

1、まず、愛の心を起こすとは、簡単に愛の祈りを普通の射祷のようにたびたび唱えることにすぎない、と思うことはまちがいである。それも悪いことではなく、多くの霊魂にとっては、それで十分である。だがイエズスがコンソラータに教えられたのはそれだけの目的ではなかった。イエズスは新しい射祷を教えてくださったわけではなく、愛の生活を容易にする霊的な道を、霊魂に教えてくださったのである。絶え間なく愛の心を起こすことが、生きている霊的生活における霊魂の呼吸として、絶え間ないものとなるよう、意志を用いて努力せねばならない。

2、次に日常生活の仕事や義務の間に、どのようにして愛の心を絶え間なく起こすことができるだろうか。イエズスがそれに答えておられる。(一九三四年聖土曜日)

「コンソラータ、私があなたの考えとことばの責任をとってきたように、愛の祈りにも責任をもってあげよう。あなたが私に他の祈りをする時も、書く時も、黙想している時も、愛の心は絶え間なく続いている。心はその時、ことばとして愛の祈りを唱えられなくとも、祈り、働く時間を、絶え間ない愛の心の続きとみなしてあげよう。」

修道院でも家庭でも、学校職場でも、共同生活のいろいろな義務がある。また会則によって命じられたり、自分できめた信心の務めもある。だが絶え間ない愛の心は、その祈りかつ働く生活とは全然抵触せず、日常の仕事も愛の祈りによって妨げられないし、仕事、務めの許すかぎり愛の心を起こすことを続ければ、霊魂も仕事、務めに妨げられない。祈り、黙想をしても、仕事、務めに励んでも、隣人愛、礼儀作法のため会話しても、精神を全部集中しなければならない仕事をしても、愛の心は、常に絶え間ないものである。

3、最後のヒントは非常に重要である。絶え間なく愛の心を起こすことを、コンソラータは愛の賛歌といっている。それを習慣的、機械的に何度もきまった祈りのことばを唱えるにすぎないと思ってはいけない。事実、愛の祈りをくちびるで唱えることすら必要でない。愛の心を起こすとは単に口で唱えることばの羅列ではなく、心の内的行為である。愛したいと望み、愛している意志の行為である。それは自然に、続いて、絶え間なく、静かに心の愛があふれてくるのである。愛の祈りは、霊魂が完全な愛に集中しうるように助ける以外の何ものでもないことを、忘れてはならない。その点についてイエズスは仰せられた。

「もし善意に満ちた人が、私を愛し、生涯を唯一の絶え間ない愛にしたいと望み、起床の瞬間から眠るまで、心底から、それを実行するよう励んだならば、その霊魂のため、
 私は信じられぬほど偉大なことをするだろう。これを書いておきなさい。」


心の底から愛することが必要である。絶え間なく愛することによって、霊魂が愛の甘美、喜びを感じ、味わうことは少しも必要でなく、ほんとうに愛したいと望み、愛の心を続けるために努力をすれば十分である。それが絶え間ない愛である。愛したいと望み、実際に愛することは意志の行為で、神に全く自己をささげるに妨げとなるすべてを遠ざける時、人は常に完全に愛するのである。

〈絶え間ない愛の祈りに対するイエズスの要求〉

 コンソラータは書いている。「カプチン修道院での最初の黙想会の時、イエズスは絶え間ない愛の祈りを私に要求し、その時以来ずっと数えきれないほど何度も、その要求を繰り返されました。そしてその絶え間ない愛の光の中では、すべての妨げ、あらゆる欲望、あらゆる欠点が根こそぎされるだろうと保証してくださいました。着衣式の日、『私はあなたにただひとつの要求をする。絶え間ない愛の祈りのみ。』と仰せになり、最初は、『イエズス、あなたを愛します!』後に『イエズス、マリア、あなたを愛します。』遂に『イエズス、マリア、あなたを愛します! 霊魂を救ってください。』と完成するよう要求されました。」

 まず忘れてならないことは、愛の生活をより完全に送るため、イエズスがご自分で、この絶え間ない愛の祈りを教えてくださったことである。それはコンソラータが自分で考え出したことばでないことである。また魚を水から出せば死に、水の中におけば生きてどんどん成長してゆくように、恵みの生命も、絶え間ない愛の祈りの中で成長し、完成して遂に完全な自己放棄、すなわち神秘的死に至るのである。言いかえれば、この愛の祈りは自己放棄への最も強い助けとなり、自分の考え、ことば、希望、趣味、心配、行為などを全部なくして、愛の祈りの中に溶け込み、愛の祈りとひとつになって、自分がさながら愛の祈りの象徴そのものになってゆくのである。その英雄的な自己放棄に達すると、イエズスはなんの障害もなく霊魂の中で、主権者として働くことがおできになる。

─イエズス─「あなたの自己放棄のうえに私はすばらしいことを行なう。自己放棄にはどうしたら達しられるだろうか? 絶え間ない愛の祈りによって! 絶え間ない愛の祈りによってあなたのものは何もなくなり、すべてが私のもの、私のためだけのものとなる!」(一九三五年九月七日)

─イエズス─「沖へ乗り出しなさい!(ルカ5-4)地上のあらゆるもの、すべての被造物に永遠の別れを告げ、絶え間ない愛の祈りによって広い海原へ前進! 前進!永遠の岸へ向かって!」(一九三六年六月二八日)

愛の祈りは気分に関係なく、石のように愛を少しも感じなくとも、また氷のように冷く暗黒に閉ざされ、誘惑と戦っていても、変わらず忠実に続けなければならない。それは本性に反する必死の努力を要し、いわば内的殉教である。多くの人は愛がないのに愛の祈りを続けることは真実でないとおそれてやめてしまう。それこそサタンの謀略である。

─イエズス─「コンソラータ、悪魔や、情欲がありとあらゆる攻撃を試みても少しもかまわない。雷鳴、嵐、雷光など気にかけてはならない。自分にいいきかせなさい、『私はあるご聖体拝領から次のご聖体拝領まで、決して落胆せず愛の祈りを続けます。それこそ私の義務です』と。」(一九三五年十月十日)

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りはあなたの軍旗である。あなたの命にかけてこの旗を、敵に向かって守り抜きなさい。」(一九三六年九月六日)

─イエズス─「旗手は軍旗を愛さなければならない。旗が決して敵の手に落ちないよう、何がなんでも守り、旗のもとに生き、旗を胸にしっかり抱きしめて死ぬ。あなたも『絶え間ない愛の祈り』の旗をそのとおりにしなさい! どんな必死の努力を要しても決してやめず、絶え間なく愛の祈りを私にささげなさい。」(一九三六年九月七日)

失敗や人間的弱さのため、愛の祈りを時にやめても、決して落胆せず、戦闘を放棄してはならなかった。全力を尽くして鉄のような固い意志をもって悪の誘惑や反対と戦いながら、絶え間なく愛の心を起こすよう、どこまでもがんばらなければならなかった。そのための戦いが激しくなればなるほど、功徳もふえるはずだった。

─イエズス─「最高度まで奮励努力しなさい。ただひとつの愛の祈りもおろそかにしないと、断固として決心しなさい。愛の祈りがとぎれても勇気を落とさず、また新たな努力をもって戦闘を開始しなさい!」

そのような絶え間ない戦いにあきないことがはたして人間に可能だろうか。

─イエズス─「あなたが私の全能を信ずるなら、絶え間なく愛の祈りを唱えることができるよう私があなたを助けてあげることも信ずるだろう。」(一九三四年十月十五日)

神はこれほどまでの努力を、すべての人に要求されるわけではないが、もしある選ばれた霊魂たちにそれを要求なさるなら必ず果たしうる助力をも与えたもう。コンソラータは愛への特別な使命を与えられ、愛の祈りを忠実に唱えるかどうかの一点にその使命の成就がかかっていた。

─イエズス─「あなたの使命のため、イエズスが要求しているだけのことを、あなたはイエズスに与えねばならない。すなわち愛の祈り。それが全部である。そしてこの絶え間
 ない愛の祈りに全部がかかっている。」
(一九三五年十二月十六日)

 イエズスが望みたもうのは人間の努力だけで、その努力によってイエズスは満足したもうのである。成功、不成功は、イエズスの御助けにかかっている。だからイエズスはコンソラータに力の限りまで努力すること、それ以上は望みたまわなかった。「私に絶え間なく愛の祈りをささげるよう自分のできるかぎりを尽くしなさい。失敗しても私が償ってあげるから安心しなさい。私はいつでも優しい。」

イエズスはひと飛びにコンソラータを、目ざす頂上へ導いてもよいはずであったが、決してそうなさらなかった。

─イエズス─「あなたが戦い、転び、また立ち上がり─つまり努力しているのを見ることは私の喜びである。あなたがどれくらいやれるかをみるのが好きだ。とりわけ、あなたが、たとえ何が起ころうとも、泰然自若として起き上がり、また愛の祈りを続けることを見ることが私の一番の喜びである。」(一九三六年九月十六日)

この愛の祈りに霊魂の総力を瞬時の休みもなく打ちこむことは、真にすべてを(とりとめない無益な思いのひとつすら)打ちくだくのだから、言語に絶する十字架であった。この困難な道を進むコンソラータを勇気づけるため、イエズスは過去、未来のことを思わず、ただ現在の瞬間、愛をもつて生きるよう勧められた。

─イエズス─「目前のその一瞬間を愛をもって生きなさい!一日ではあなたに長すぎるから!」

イエズスがコンソラータの霊魂のうちで働きたもうた目的は、おもに不動の愛へ導くことであった。ある日コンソラータがイエズスに聞いた。

「同じご要求を何度も繰り返し、新しいことばでおっしゃって、単語が足りなくなりはしませんか?」

─イエズス─「私は全能だから、永遠に至るまで、同じ要求を、絶えず新しいことばで与えることができるのだ。」

「同じご要求を何度もなさって、お飽きになりませんか?」

「いや飽きない。いつまでもいつまでも飽きないだろう。なぜなら私の望みはただひとつ──私を愛してくれること!」

〈絶え間ない愛の祈りの霊的効果(本人のため)〉

愛の祈りの中には、礼拝、感謝、贖罪、祈願が含まれている。それでイエズスは、コンソラータに会則に命ぜられた祈り以外できるだけ愛の祈りを唱えるようお勧めになった。また、コンソラータが、イエズスや聖母マリアに何か特別のものをささげたいと決心するたびごとに、イエズスは愛の祈りを要求された。

─イエズス─「イエズスに偉大なことをささげたい? 愛と救霊より偉大なことがあろうか?」(一九三五年六月)

─イエズス─「なぜ私はあなたにあまり多くの声祷を唱えることを許さないか? 愛の祈りは声祷よりも、特に贖罪のため効果的だから。たった一度『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください。』と祈っても、千の呪い、侮辱を償う。」(一九三五年十月八日)

また愛の祈りは、願いの祈りとしての効果があり、愛の祈りのひとつひとつによって、イエズスは霊魂のほうへ引き寄せられ、霊魂と一致し、聖心の無限な賜ものをお与えになる。だから絶え間なく愛するよう努力する霊魂は、どんなに恵まれるだろうか。絶え間ないイエズスとの一致によって、霊的なすべての実を結ぶのである。「われなしに、あなたたちは何もできない。」(ヨハネ15-5)との聖句をイエズスは説明してくださった。

「この句はあなたにとって、聖福音の中でも最も慰めを与える句である。この句はあなたの無能を全部ゆるすと同時に、イエズスの聖心に完全に献身するようあなたを励ます。聖心において、あなたは自分を捨てたまま、愛の祈りによって、なんでも望むままに願いをかなえられるだろう。」(一九三五年十月二六日)

そして数えきれぬほどたびたび愛の祈りの報いとして「すべて、真にすべてを与える」ことを約束された。神はすべてをささげ尽くす被造物の雅量に負けることを好まれず、完全に自己献身する霊魂には、完全にすべてを望むままに与えたもうのである。

愛の祈りそのものは、神を喜ばせ、功徳をふやす最も完全な行為である。愛の祈りによって霊魂の愛は完成し、それによって善業は、より多くの功徳を招くようになるからである。そこで毎日できるだけ、愛の祈りのひとつも怠らぬよう努力すれば、信心生活は完成し、功徳はどんどん増加する。

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りで過ごした一日のほうを、あなたが果たしたどんな善業、またささげたあらゆる犠牲よりも好む。」

 また愛の祈りは霊魂の成聖(注1)に非常に効果的である。愛の祈りによってすべての善徳の泉にましますイエズスの聖心と一致し、聖心からすべての善徳の大河が絶えず、愛を尽くす霊魂に流れこむからである。─イエズス─「私のうちにあなたをなくしなさい。そしてあなたの全力を愛の祈りに打ちこみなさい。そうすれば豊かな実を結ぶだろう。」(一九三五年十月二六日)

神の恵みのご指導に対して、忠実に従えば従うほど、愛の祈りはより豊かな実を結ぶのだが、愛の祈りを忠実に絶え間なくすればするほど、その忠実さも増してゆくのである。そして他のどんなことにも、忠実となる。

─イエズス─「あなたの愛の祈りのひとつひとつは、あなたのうちへ忠実を招き寄せるだろう。なぜなら、忠実そのものである私を招き寄せるから! 霊魂が雄々しく恵みに忠実に従えば、どんどん進歩して遂に頂上へ達するだろう。」(一九三六年七月十四日)

─イエズス─「愛の祈りをひとつも怠らぬ努力によっていつも勝利をうることができる。」(一九三六年五月三十日)

〈絶え間ない愛の祈りの使徒職的効果(人のため)〉

だれが霊魂を救うことができるだろうか? それは確かに私たちではない。過去、現在、未来にわたって、血のいけにえなるご苦難の無限の功徳によって、霊魂を救い続けたもうのは十字架上のイエズスである。イエズスの恵みによって私たちは、救霊の協力者となるが、それもイエズスを愛し、イエズスと一致する度合いに比例して協力するのである。つまり、イエズスに対する愛なしには、私たちの努力は全然価値も効果もないのである。この愛なしに何もできないことの真実性を、コンソラータの生活は実証した。

 コンソラータは、神と霊魂に対する愛に燃えていたがために、イエズスとともに無数の霊魂を救うことができた。十字架の聖ヨハネ(注2)は、純粋な愛の最も小さなひとつでも、神のみ前に、外部的なわざのすべて(例えば説教、苦業、教理の教授など)を足したよりも、教会と霊魂にとって効果的であるといっている。愛は使徒職の最高位、かつ、最も効果的な方法であるから、コンソラータは絶え間ない愛によって、最も絶え間なく使徒職に尽くしたわけである。

イエズスはコンソラータに大切な約束をお与えになった。

─イエズス─「ただひとつの愛の祈りによってひとりの霊魂の永遠の救かりが決定されることをよく覚えなさい。ひとつひとつの愛の祈りが、ひとりひとりの霊魂の救いをきめるのだから、一度でも怠けて、『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください。』と祈ることを怠れば、良心の苛責を感ずるはずだ。」(一九五三年十月八日)

同じような約束を後にたびたび、いただいた。

─イエズス─「少しも時をむだにしてはいけない! ひとつの愛の祈りがひとつの霊魂なのだから!」

また聖母マリアも同じようにコンソラータを励ましてくださった。

「天国にはいってはじめて、あなたは、愛の祈りの価値と、その救霊への豊かな効果とを理解するでしょう!」

ここに二つの例をのせよう。何年間も、コンソラータは、兄のニコラと伯父フェリチェ・ビアノの改心のため祈っていた。(ニコラは一九三六年の復活祭に、遂に改心し、一九四七年十二月聖なる死をとげ、伯父も改心した)

─イエズス─「コンソラータ、あなたの苦業と犠牲によって、ニコラとフェリチェが改心したのでなく、ただただ、あなたの絶え間ない愛の祈りによって、私が彼らをあなたに与えたことを忘れてはならない。私が被造物に望むものは、ただ愛だけだから!」(一九三六年七月)

一九三六年ソ連の共産軍の陰謀でスペインに内乱が起きた時、共産党が勝って政府をとることがないよう、コンソラータは一生懸命愛の祈りによって祈った。その時イエズスは次の約束をお与えになった。「はい、私は、スペインにおける共産党に対する勝利を、あなたに与えよう。だがあなたはいっそう全力を尽くして愛の祈りをささげなさい……。」 ほかにも多くの例があるが、いかにイエズスが、絶え間ない愛の祈りを重んじたもうかを知るには、この二つの例で十分であろう。

もちろん、救霊のために犠牲は非常に大切だが、愛こそ霊魂に犠牲を覚悟させる。だから愛の祈りは犠牲と苦しみへの飢えかわきを増す最も効果的な手段である。イエズスはこのことをたびたびコンソラータに教えたもうた。

─イエズス─「コンソラータ、絶え間なく愛の祈りを唱えることにすベてを集中しなさい。この唯一の決心こそ、私の犠牲への招きにすべて従う力を与えるのだ。」(一九三五年九月二四日)

─イエズス─「愛の祈りはそのものが十字架ではないが、どんな状態にあっても、愛の祈りをひとつも怠らぬよう努力することは十字架である。だがこの十字架が、他のすべての十字架を担うことができるように助けるだろう。コンソラータ、私はあなたの肩の上に負わせるこの十字架をたいへん好む。

 この十字架こそ、あなたを完全な自己放棄へ導き、会則と修道院の日課をちゃんと守らせてくれるのだ。この十字架は非常に恵み豊かなものであり、すべての十字架の中で、この愛の十字架こそ私と霊魂のため、最も効果的なものである。」
(一九三五年十一月十五日)

苦しむ霊魂は多いが、その苦しみを自己聖化と救霊のため、有効に使う霊魂は少ない。苦しみが愛へ導くのではなく、愛が、犠牲精神へ、苦しみを感謝と喜びをもって耐え忍ぶことへ導くのである。そしてそのとうとい苦しみは、愛の増加の源となる。

─イエズス─「絶え間ない愛によって、きたるべき苦しみに備えなさい。愛することをもしやめたら災いなるかな!私はあなたを愛のいけにえとして選んだ。コンソラータ、私はあなたを愛と苦しみの絶頂へ導くことを約束する。あなたはただ『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください』と絶え間なく繰り返しなさい。ただそれだけ、そのほか、何も考えてはいけない!」(一九三五年十月九日)



(注1)成聖(せいせい):神の聖性にあずかり、聖なるものとされること。

(注2)十字架の聖ヨハネ(1542~1591年)はスペインのカトリック司祭、神秘思想家。アビラの聖テレジアと共にカルメル修道会の改革に尽力し、『暗夜』などのすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。カトリック教会・聖公会で聖人であり、教会博士の一人。記念日は帰天日の12月14日。

聖霊の連祷(文語・口語)

2022-09-04 15:28:49 | 日記
【聖霊の連祷(文語)】
 
主よ、あわれみ給え。
キリスト、あわれみ給え。
主よ、あわれみ給え。

全能の御父、われらをあわれみ給え。
御父の永遠の御子、世の贖い主イエズス、われらを救い給え。
御父と御子の命を一つに結ぶ霊、われらを聖化し給え。

いと聖なる三位一体、われらの祈りを聞き給え。
御父と御子より出る聖霊、われらの心に来たり給え。
御父と御子に等しい聖霊、われらの心に来たり給え。

父である神の約束、われらの心に来たり給え。
天の光の輝き、われらの心に来たり給え。
あらゆる善の創造者、われらの心に来たり給え。

生きた水の泉、われらの心に来たり給え。
焼き尽くす炎、われらの心に来たり給え。
霊的な一致、われらの心に来たり給え。

愛と真理の霊、われらをあわれみ給え。
知恵と知識の霊、われらをあわれみ給え。
賢慮と強さの霊、われらをあわれみ給え。

分別と孝愛の霊、われらをあわれみ給え。
平和と柔和の霊、われらをあわれみ給え。
慎みと潔白の霊、われらをあわれみ給え。

励ましの霊、われらをあわれみ給え。
聖化する霊、われらをあわれみ給え。
教会を治める霊、われらをあわれみ給え。

いと高き神の賜物、われらをあわれみ給え。
宇宙を満たす霊、われらをあわれみ給え。
神の子とする霊、われらをあわれみ給え。

聖霊、われらに罪への嫌悪を起こさしめ給え。
聖霊、来て、地の面は新たにならん。
聖霊、御身の光でわれらの魂を照らしめ給え。


聖霊、われらの心にあなたの聖なるおきてを刻み給え。
聖霊、御身の愛の火でわれらを燃やしめ給え。
聖霊、御身の恵みの宝をわれらに注がしめ給え。

聖霊、われらに祈ることを教え給え。
聖霊、あなたの神の霊感でわれらを照らしめ給え。
聖霊、救いの道にわれらを導き給え。

聖霊、必要なただ1つのことを悟らしめ給え。
聖霊、われらに善の実行を教え給え。
聖霊、われらにあらゆる徳の功徳を与え給え。

聖霊、われらを正義のうちに堅忍させ給え。
聖霊、御身をわれらの永遠の報いとならしめ給え。

世の罪を除きたもう神の子羊、われらに御身の霊を送らしめ給え。
世の罪を除きたもう神の子羊、われらの心を聖霊の賜物で満たし給え。
世の罪を除きたもう神の子羊、われらに知恵と孝愛の霊を与え給え。

聖霊来たり給え。信者の心を満たらしめ、御身の愛の火を燃やしめ給え。
神よ、御身の愛の息吹を送らせ給え。しかしてよろずのものは造られん。地のおもては新たにならん。

祈願 

 あわれみ深い御父よ、聖霊御自身が天の愛熱をもってわれらに浸透し、よき業で満たされんまでわれらを照らし、燃え立たせ、清め給え。聖霊の交わりの中で、御父と共に世々に生き、支配しておられる御子、われらの主イエズス・キリストによりて願い奉る。 アーメン。


【聖霊の連祷(口語)】
 
主よ、あわれんで下さい。
キリスト、あわれんで下さい。
主よ、あわれんで下さい。

全能の御父、私たちをあわれんで下さい。
御父の永遠の御子、世の贖い主イエズス、私たちを救って下さい。
御父と御子の命を一つに結ぶ霊、私たちを聖化して下さい。

いと聖なる三位一体、私たちの祈りを聞いて下さい。
御父と御子より出る聖霊、私たちの心に来て下さい。
御父と御子に等しい聖霊、私たちの心に来て下さい。

父である神の約束、私たちの心に来て下さい。
天の光の輝き、私たちの心に来て下さい。
あらゆる善の創造者、私たちの心に来て下さい。

生きた水の泉、私たちの心に来て下さい。
焼き尽くす炎、私たちの心に来て下さい。
霊的な一致、私たちの心に来て下さい。

愛と真理の霊、私たちをあわれんで下さい。
知恵と知識の霊、私たちをあわれんで下さい。
賢慮と強さの霊、私たちをあわれんで下さい。

分別と孝愛の霊、私たちをあわれんで下さい。
平和と柔和の霊、私たちをあわれんで下さい。
慎みと潔白の霊、私たちをあわれんで下さい。

励ましの霊、私たちをあわれんで下さい。
聖化する霊、私たちをあわれんで下さい。
教会を治める霊、私たちをあわれんで下さい。

いと高き神の賜物、私たちをあわれんで下さい。
宇宙を満たす霊、私たちをあわれんで下さい。
神の子とする霊、私たちをあわれんで下さい。

聖霊、私たちに罪への嫌悪を起こさせて下さい。
聖霊、来て、地の面を新たにして下さい。

聖霊、あなたの光で私たちの魂を照らして下さい。

聖霊、私たちの心にあなたの聖なるおきてを刻んで下さい。
聖霊、あなたの愛の火で私たちを燃やして下さい。
聖霊、あなたの恵みの宝を私たちに注いで下さい。

聖霊、私たちに祈ることを教えて下さい。
聖霊、あなたの神の霊感で私たちを照らして下さい。
聖霊、救いの道に私たちを導いて下さい。

聖霊、必要なただひとつのことを悟らせて下さい。
聖霊、私たちに善の実行を教えて下さい。
聖霊、私たちにあらゆる徳の功徳を与えて下さい。

聖霊、私たちを正義のうちに堅忍させて下さい。
聖霊、あなた御自身が私たちの永遠の報いとなって下さい。

世の罪を除いて下さる神の子羊、私たちにあなたの霊を送って下さい。
世の罪を除いて下さる神の子羊、私たちの心を聖霊の賜物で満たして下さい。
世の罪を除いて下さる神の子羊、私たちに知恵と孝愛の霊を与えて下さい。

聖霊よ、来て下さい。信じる人々の心を満たし、あなたの愛の火を燃やして下さい。
神よ、あなたの愛の息吹を送って、すべてを造り、地の面を新たにして下さい。

祈願 

 あわれみ深い御父よ、聖霊御自身が天の愛熱をもって私たちに浸透し、よい業で満たして下さるまで私たちを照らし、燃え立たせ、清めて下さいますように。聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエズス・キリストによって。 アーメン。

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【お知らせ1】

『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版(2021年)』

入門者や求道者からベテランの方にまでわかりやすいと好評な
現代版カトリック要理、自分で読んで納得し、さらに他の人々の
救霊のために、説明できるようになります。ぜひご覧ください。


第1部 信経
https://peraichi.com/landing_pages/view/00hiz

第2部 秘跡
https://wnrm0.hp.peraichi.com/


【お知らせ2】

聖母信心書の決定版である「聖母マリアへのまことの信心」をご紹介します。➡ 
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/cbf6bd0c5c75cf5d6ac3c71b1ec6f617
歴代の教皇からの推薦もあります。全11巻となっていますので、第一巻からお読みください。