霊的聖体拝領の祈り(暗唱用)
十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
主イエス・キリスト、
今、私はご聖体をいただくことが出来ません。
しかしあなたへの愛に満たされて
私の心にお迎えしたいと望みます。
(すこし沈黙して心の準備をする)
今、秘跡によるご聖体を受けられない
わたしの心においで下さい。
(ご聖体拝領をイメージし、聖母マリア様と共に主を迎える『(キリストの体)...アーメン』)
主がわたしの心においでになったことを信じ感謝します。
わたしがあなたから離れることがありませんように。
(少しの時間、沈黙を保ち霊的拝領をできたことを感謝する)
十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
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☆霊的聖体拝領とは?
♦聖体を実際に受けるに先立って、これを受けたいという意識的望み。
愛と信仰をもって行なう霊的聖体拝領は教会から大いに奨励されている。トレント公会議の教理学習書によると「愛のうちに働く生きた信仰に満たされて聖体を望みにおいて受ける信者は望みと願望によって天上のパンが与える恩典を、たとえ全面的にではなくても少なくともその大部分を受ける。(現代カトリック事典)
♦聖体の観想と崇敬は、造り主である主と完全に一致したいという人の望みを強める。同時に、そこから、われわれがふさわしくない者だということも意識させられる。教皇はまた、「霊的聖体拝領」の実践にふれている。それは霊的生活の達人によって、秘跡によって聖体拝領をすることができない人のために勧められているものである。
ミサ以外の場でも、主イエスは生きて、霊的な糧となってくださる。主はわれわれのあいだにいて、われわれとともに歩んでくださる、はかり知ることのできない神秘である。
(カトリック中央協議会)

☆霊的御聖体拝領についての聖人たちのことば
♦聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士(1696~1787年)
『御聖体訪問のたびに、霊的御聖体拝領をするとよいので、霊的御聖体拝領とは何か? どんな効果があるのかを説明しておこう。これは御聖体拝領をしたいと言う熱い望みを持ち、実際に拝領したかのように、愛を込めて主を抱擁(ほうよう)する事である。
主は、ある修道女に、金と銀の器を見せて、金の方には御聖体拝領を、銀の方には霊的御聖体拝領を入れておくと仰せられ、主が霊的御聖体拝領をどれほど尊重し、それによって、いかに多くのお恵みをお与えになるかを悟らせてくださった。
また主は、別の修道女に、霊的御聖体拝領をする度に、実際に御聖体拝領をしたと同じ恵みを受けられると仰せになった。何よりもトレント公会議が霊的御聖体拝領を讃えて、信者に実行するように推奨していることで十分であろう。それゆえ敬虔な人々は、皆この霊的御聖体拝領をたびたび行っている。霊的御聖体拝領は誰からも見られず、断食の必要もなく、指導司祭の許可もいらずいつでも望むときにできるのである。』
♦イエスの聖テレジア(アビラの聖テレサ)教会博士(1515~1582年スペイン)
『ごミサにあずかってもご聖体拝領しないときは、霊的に拝領することができます。そしてそのあと、やはり自分のうちにはいって聖体拝領のときと同じ潜心を実行することができ、これによって主への深い愛が心に刻まれるのです。私どもがお受けする準備をしている以上、主は必ず私どもには、わからない様々な方法でお与えにならずにはいらっしゃいません。』
(完徳の道、第35章ー1)
♦聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(1786~1859年 フランス)
『霊的聖体拝領は霊魂に対し、埋もれて消えそうになっている燃え残りに対する風のような働きをします。神へのあなたの愛が冷えて行くのを感じた時は、いつでも速やかに霊的聖体拝領をしなさい。』
♦聖マリア
1966年1月14日、イタリアのサン・ダミアノにて祝せられた乙女マリアは言われた。
『御聖体のうちに生き給い、彼を受くる者に慈悲深きイエスを、あなたのために、あなたの心にイエスをしばしば受けなさい。』
♦教皇聖ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年 ポーランド)
『聖体の秘跡への絶えざるあこがれを心の中でつちかうことは時宜(じぎ)にかなっています。これが「霊的聖体拝領」が行われるようになった起源でした。この習慣は幸いなことに何世紀にもわたって教会で行われ続け、霊的生活の達人である聖人たちによって勧められています』
(回勅:「教会にいのちを与える聖体」第4章)
十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
主イエス・キリスト、
今、私はご聖体をいただくことが出来ません。
しかしあなたへの愛に満たされて
私の心にお迎えしたいと望みます。
(すこし沈黙して心の準備をする)
今、秘跡によるご聖体を受けられない
わたしの心においで下さい。
(ご聖体拝領をイメージし、聖母マリア様と共に主を迎える『(キリストの体)...アーメン』)
主がわたしの心においでになったことを信じ感謝します。
わたしがあなたから離れることがありませんように。
(少しの時間、沈黙を保ち霊的拝領をできたことを感謝する)
十父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
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☆霊的聖体拝領とは?
♦聖体を実際に受けるに先立って、これを受けたいという意識的望み。
愛と信仰をもって行なう霊的聖体拝領は教会から大いに奨励されている。トレント公会議の教理学習書によると「愛のうちに働く生きた信仰に満たされて聖体を望みにおいて受ける信者は望みと願望によって天上のパンが与える恩典を、たとえ全面的にではなくても少なくともその大部分を受ける。(現代カトリック事典)
♦聖体の観想と崇敬は、造り主である主と完全に一致したいという人の望みを強める。同時に、そこから、われわれがふさわしくない者だということも意識させられる。教皇はまた、「霊的聖体拝領」の実践にふれている。それは霊的生活の達人によって、秘跡によって聖体拝領をすることができない人のために勧められているものである。
ミサ以外の場でも、主イエスは生きて、霊的な糧となってくださる。主はわれわれのあいだにいて、われわれとともに歩んでくださる、はかり知ることのできない神秘である。
(カトリック中央協議会)

☆霊的御聖体拝領についての聖人たちのことば
♦聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士(1696~1787年)
『御聖体訪問のたびに、霊的御聖体拝領をするとよいので、霊的御聖体拝領とは何か? どんな効果があるのかを説明しておこう。これは御聖体拝領をしたいと言う熱い望みを持ち、実際に拝領したかのように、愛を込めて主を抱擁(ほうよう)する事である。
主は、ある修道女に、金と銀の器を見せて、金の方には御聖体拝領を、銀の方には霊的御聖体拝領を入れておくと仰せられ、主が霊的御聖体拝領をどれほど尊重し、それによって、いかに多くのお恵みをお与えになるかを悟らせてくださった。
また主は、別の修道女に、霊的御聖体拝領をする度に、実際に御聖体拝領をしたと同じ恵みを受けられると仰せになった。何よりもトレント公会議が霊的御聖体拝領を讃えて、信者に実行するように推奨していることで十分であろう。それゆえ敬虔な人々は、皆この霊的御聖体拝領をたびたび行っている。霊的御聖体拝領は誰からも見られず、断食の必要もなく、指導司祭の許可もいらずいつでも望むときにできるのである。』
♦イエスの聖テレジア(アビラの聖テレサ)教会博士(1515~1582年スペイン)
『ごミサにあずかってもご聖体拝領しないときは、霊的に拝領することができます。そしてそのあと、やはり自分のうちにはいって聖体拝領のときと同じ潜心を実行することができ、これによって主への深い愛が心に刻まれるのです。私どもがお受けする準備をしている以上、主は必ず私どもには、わからない様々な方法でお与えにならずにはいらっしゃいません。』
(完徳の道、第35章ー1)
♦聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(1786~1859年 フランス)
『霊的聖体拝領は霊魂に対し、埋もれて消えそうになっている燃え残りに対する風のような働きをします。神へのあなたの愛が冷えて行くのを感じた時は、いつでも速やかに霊的聖体拝領をしなさい。』
♦聖マリア
1966年1月14日、イタリアのサン・ダミアノにて祝せられた乙女マリアは言われた。
『御聖体のうちに生き給い、彼を受くる者に慈悲深きイエスを、あなたのために、あなたの心にイエスをしばしば受けなさい。』
♦教皇聖ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年 ポーランド)
『聖体の秘跡への絶えざるあこがれを心の中でつちかうことは時宜(じぎ)にかなっています。これが「霊的聖体拝領」が行われるようになった起源でした。この習慣は幸いなことに何世紀にもわたって教会で行われ続け、霊的生活の達人である聖人たちによって勧められています』
(回勅:「教会にいのちを与える聖体」第4章)
♦霊的聖体拝領(ステファノ・マネッリ神父)
霊的聖体拝領は御聖体のイエスを愛する者たちにとって常に得られる
御聖体の生命と愛の蓄えである。霊的聖体拝領によって霊魂の愛する
花婿たるイエスと結ばれることを望む霊魂の愛する欲求は満たされる。
霊的聖体拝領は霊魂とホスチアのうちにますますイエスとの間の
愛の結合である。この結合は霊的であるが、しかしそれにもかかわらず
実在的であり、霊魂と身体との間の結合よりももっと実在的である。
「なぜなら、霊魂はそれが生きるところでよりもそれが愛するところで
もっと多く生きるからである」と十字架の聖ヨハネは言っている。
*信仰、愛そして欲求
明らかであることだが、霊的聖体拝領はわれわれが聖櫃における
イエスの実在的な存在に対する信仰を持っていることを想定している。
それはわれわれが秘跡的な一致を望んでいるということを意味する。
そしてそれはこの秘跡についてイエスの贈り物に対する感謝を要求する。
このすべてのことは聖アルフォンソの次の定式において単純にまた
簡潔に表現されている:
「私のイエスよ、私はあなたがいとも聖なる秘蹟のうちに実際に
現前しておられることを信じます。私はすべてのものに越えて
あなたを愛します。そして私は私の霊魂の内部にあなたを所有する
ことを望みます。私は今あなたを秘跡として受けることができませんので
少なくとも霊的に私の心の中へ来てください - (中断)私はあなたを
すでにそこにおられそして私自身を完全にあなたに一致させる方として
抱きしめます。あなたから分離されることを私に決して、決して
許さないでください。」
霊的聖体拝領は、聖トマス・アクィナスと聖アルフォンソ・リグオリ
が教えているように、それがなされる意向に従って、イエスが望まれる
熱心さの多い少ないによって、イエズスが歓迎されしかるべき
注目が与えられる愛の大きい小さいによって、秘跡の聖体拝領に
似た効果を産み出す。
霊的聖体拝領の特別の有利な点はわれわれが好むだけしばしば
拝領することができるということである。-われわれが好むとき 、
夜遅くでさえ 、そしてわれわれが好む場所で 、砂漠においてさえ、
あるいは飛行機の中で空中でさえ 、可能であるということである。
特にわれわれがミサ聖祭に与っていてわれらの主を秘跡として
受けることができないときに霊的聖体拝領をすることは適切である。
司祭が彼の聖体拝領をしている間にわれわれの霊魂はイエスを
われわれの心の中へ招き入れることによって司祭の聖体拝領に
与るべきである。この仕方でわれわれが拝聴するあらゆる
ミサ聖祭は奉献、犠牲の聖別そして聖体拝領を伴った一つの完全な
ミサ聖祭である。
*二つのカリス
イエス御自身がシエナの聖カタリナにある幻視において霊的聖体拝領が
どのように貴重であるか語られた。聖人は霊的聖体拝領が秘跡の
聖体拝領には比べられないのではないかと恐れていた。幻視において
われらの主は二つのチボリウムを取られてこう言われた:
「この金のチボリウムのうちに私はあなたの秘蹟の聖体拝領を置く。
この銀のチボリウムのうちに私はあなたの霊的聖体拝領を置く。
両方のチボリウムは私にとってまったく喜びを与えるものである。」
そしてかつてイエスは聖マルガリタ・マリア・アラコックが
聖櫃におけるイエスに切望の嘆息を向けることに没頭していたとき
彼女にこう言われた:「私は私を受けたいという霊魂の望みを
たいそう愛している、それで私はその霊魂の切望によって霊魂が
私を呼び出すときにはいつでも霊魂のところへ急いで行くのである。」
霊的聖体拝領が聖人たちによってどれほど多く愛されてきたかを
見ることは難しいことではない。
霊的聖体拝領は彼らの愛する御方に結びつけられるというあの熱心な
望みを少なくとも部分的に満たした。イエス御自身こう言われた:
「われに留まれ、われもまた汝らに留まるべし」(ヨハネ15:4)。
そして霊的聖体拝領は、われわれが教会から遠くにいるときでさえ、
われわれをイエスに結びつけられて留まる助けとなる。
聖人たちの心のうちに燃えている情け深い憧れを満たす他の
いかなる手段もなかった。
「おお神よ、私の魂全体はあなたを憧れる。鹿が流れる水を渇き
求めるように、私の魂全体は神を渇き求める。」(詩編41:2 )
これは聖人たちの憧れに満ちたため息である。ジェノアの聖カタリナは
こう叫んだ;「おお、(私の魂の)愛する花婿よ、私はあなたと
共にいる喜びをそのように強く切望しているので、私が死んだ
としても、あなたを聖体拝領において受けるために生き返るだろうと
思われます」
福者十字架のアガタは御聖体におけるイエスに常に結びつけられて
生きたいというそのように激しい憧れを感じていたのでこう述べた:
「もし聴罪司祭が私に霊的聖体拝領をするように教えてくださら
なかったならば、私は生きることができなかったでしょう。」
五つの傷の聖マリア・フランセスにとって、同じように、
霊的聖体拝領は彼女の愛する主から遠く離れて家に閉じ込められて
いた時に、特に彼女が秘蹟の聖体拝領をすることが許されなかった時に、
彼女が感じた激しい苦痛からの唯一の救いであった。
そのようなときには彼女は彼女の家のテラスの上に出て教会の方を
眺めながら、涙をためてため息をついた:「あなたを今日祝せられた
秘跡において受けた人々は幸いです。おお、イエスよ、私のイエスを
守る教会の壁は祝福されています。最愛のイエスの近くにいつも
居る司祭たちは祝福されています。」霊的聖体拝領だけが彼女を
少しだけ満足させることができた。
*日中の間
ここにピエトレルチーナのパードレ・ピオが彼の霊的娘たちの一人に
与えた忠告の一つがある:「日中の間あなたにとって他のことを
することが許されていないとき、あなたのすべての仕事の最中でさえ、
魂の甘受した嘆息をもってイエスを呼びなさい。そうすればイエスは
彼の恩寵と聖なる愛によってあなたの霊魂に常に結びつけられて
留まるであろう。
あなたが身体をもってそこに行くことができないとき、
聖櫃の前に霊的な飛翔をしなさい。そしてそこであなたの精神の熱心な
望みを注ぎ出しなさい。そして霊魂たちに愛された御方を抱擁しなさい」
またこの賜物によって利益を受けよう。例えば、われわれが試練に苦しみ、
あるいは見捨てられたと感じている間、われわれにとって霊的聖体拝領
によるわれらの秘跡の主の同伴よりももっと価値あるものが何かあり得る
であろうか?この聖なる実践は愛の行為と感情をもってわれわれの
日々を満たすために容易に働くことができる。そしてわれわれが
それをほとんど中断することがないようにわれわれがしばしばそれを
新たにするまさにそのことに依存している愛の抱擁のうちにわれわれが
生きることを可能にする。
聖アンジェラ・メリチは霊的聖体拝領をとても好んでいた。彼女は単に
それをしばしば行いまた他の人々にそうするように勧めただけではなく、
彼女の娘たちに、彼らがそれを以後いつまでも実践するように一つの
遺産として残すことを選んだ。
聖フランシスコ・サレジオについてわれわれは何と言おうか?
彼の全生涯は一連の霊的聖体拝領のように見えないであろうか?
彼は少なくとも十五分毎に霊的聖体拝領をする決心を立てた。
聖マキシミリアノ・M. コルベは彼の青年時代の頃から同じ決心を
していた。神のしもべアンドルー・バルトラミはわれわれに彼の個人的な
日記の短い一ページを残した。それは祝せられた秘跡における
イエスとの絶え間ない霊的な交わりにおいて生きられた生活の
小さなプログラムであった。
彼の言葉がここにある:「私がどこにいようと私は祝せられた秘跡に
おけるイエスについてしばしば考えるようにしよう。私は聖なる
聖櫃の上に私の考えを固定するようにしよう
-私がたまたま夜目覚めたときでさえ 。私がいるところから
イエスを礼拝しながら、祝せられた秘蹟におけるイエスに呼びかけ
ながら、私がしている行為をイエスに捧げながら、私は一つの
電報線を私の勉強部屋から教会へ、もう一つの線を私の寝室から、
そして三番目の線をわれわれの食堂から引くことにしよう。
そしてできる限りしばしば私は祝せられた秘蹟におけるイエスに
愛のメッセージを送ることにしよう。」神的な愛情の何という流れが
これらの貴重なケーブルを通って流れたことであろうか!
******************************
☆おしらせ(1)
『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版(2021年)』
入門者や求道者からベテランの方にまでわかりやすいと好評な
現代版カトリック要理、自分で読んで納得し、さらに他の人々の
救霊のために、説明できるようになります。ぜひご覧ください。
第1部 信経
第2部 秘跡
✰おしらせ(2)
聖母信心書の決定版である「聖母マリアへのまことの信心」をご紹介します。➡
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/cbf6bd0c5c75cf5d6ac3c71b1ec6f617
歴代の教皇からの推薦もあります。全11巻となっていますので、第一巻からお読みください。
ー以上ー