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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第9章)

2022-09-04 15:29:41 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第9章)

第九章 絶え間ない愛の祈りの完成によって愛の生活の完成へ

コンソラータの道を歩みたいと望む霊魂が、その努力と成聖の偉大さに恐れをなし、「さあ、私にはとても不可能だ。」と落胆してしまわないように、少し述べることとする。

イエズスはすべての霊魂を高い完徳に召し、完全の極致へは努力なしに到達できぬことも教えられた。たとえその目的に達することが不可能に思えても努力を免除される者はひとりもないわけである。

また、イエズスはコンソラータをこのように高い成聖の頂上へ召されたのだから、コンソラータは、当然すぐに頂上へ達し、もう別に努力をしなくともよかったと、考えてはならない。それどころか、コンソラータは、頂上はまだだ、まだだと確信していたために、生涯の最後の瞬間まで善戦の武器をはなさずがんばったのである。

だから神は、成功よりも、人が神の恵みに助けられて、どんなに熱心に、断固として努力するかということのほうに重きをおかれるのである。成功は全く神によっている。しかし神の恵みは万人に等しく与えられるものではなく、神の慈悲深い計画によって適切に与えられる。さてコンソラータは、絶え間ない愛の祈りの道を世に示すため、神によって選はれたので、その使命に応じ、特別の恵みを与えられたのは当然である。それは、コンソラータのあとに従うように召されたすべての霊魂の模範となるためであった。

本書で述べた神の要求が、あらゆる霊魂に要求されていると考えてはならない。またコンソラータの道を歩むよう召された霊魂についても同じで、各人各様でそれぞれ違う。ただ神が示されたコンソラータという模範に、しかと目をすえ、惜しみなく恵みにこたえ、能力の限りを尽くして模範にならい、神が重きをおかれるのは成功ではなく努力であることを常に心にとめておけば十分である。

〈愛の祈りの絶え間ないとは〉

完全な愛とは、神を神のためにのみ愛するという純粋さと、常に絶え間なく愛することである。絶え間なくとは、単に習慣的にではなく、生き生きと現に燃えている愛の心を起こし続けること、イエズスはそのための非常に効果的で便利な方法を、コンソラータを通じて教えてくださったのである。それが絶え間ない愛の祈りである。

─イエズス─「愛の祈りによって私と常に一致するようになると、一致を妨げるいろいろな小さな欠点が見えるようになり、それを追い私うことによって、あなたの一日が全部一つの絶え間ない愛の鼓動となり、永遠までその鼓動が続くようになる。」(一九三五年八月二二日)

またイエズスはたびたび、絶え間なく愛の祈りを続けるため内的外的の沈黙を命じた。

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りは線路の上を走る急行列車のようである。もし線路が無益な考えや不必要なことばで、あちらこちら列車妨害された場合、列車は何度もやむをえず停車しなけれはならない……。」(一九三五年十二月十六日)

─イエズス─「コンソラータ、絶え間なく愛の祈りを唱えてあなたが私の中に住んでいるかぎり、あなたの生活は驚くほど聖なる生活である。その時あなたは示された未来を信じ少しも疑わない。けれども、もし休憩時間、私を離れ被造物との会話にまきこまれたとすると、休憩時間が終わった時、あなたが内的に経験しているこれらの偉大なことは、全部空想ではないかという疑いが入り込むだろう。だからあなたは決して私を離れて被造物のほうへ行ってはいけない。ただの二十分間でも!話してもよい。だができるだけ問われたことに答える時だけ、そしてその時も常に心の中で私を愛し続けなさい。」(一九三五年十一月十二日)

コンソラータは、どの程度まで絶え間なく愛することに成功しただろうか? 聖マリア、聖ヨゼフ、他のわずかの聖人にだけ特別与えられた恵みなしに、人は文字どおり絶え間なく愛することはできない。ちょうどイエズスが倦むことなく、絶え間なく愛の祈りを求められたように、コンソラータのほうでも、絶え間なく愛の心を起こす努力を忠実に尽くした。

─イエズス─「私はあなたの着衣式の日(一九三〇年二月二八日)初めて絶え間ない愛の祈りを要求したが、その日から今日まで、ほんの二、三日しか忠実に果たし得なかった。」(一九三五年九月十六日)

五年間にわずか二、三日絶え間なく愛の祈りをささげ得たというが、他の日に絶え間があったとしても、ほんの短い間で、それもほとんどしかたのなかったもので、完全に自由に怠ったことは全然なかった。しかもその短い怠りの時間すらだんだん努力により、お恵みにより、完全になくなったのである。

一九三四年四月八日、荘厳な永久誓願の日、イエズスの要求にこたえ、コンソラータは犠牲として自分をささげた。しかし一九三五年九月の初金曜日まで、イエズスはいけにえとして聖別なさらなかった。その日にイエズスは、コンソラータの愛が、絶え間なくなることをおごそかに確認なさり、コンソラータはそれを承諾したのである。

初金曜日の前晩の聖時間ちゅう、イエズスは、ご自分の愛への渇き、愛による「兄弟姉妹」のための償い、また彼らに対して持っていられるご自分の権利について語られた。イエズスは聖心により、コンソラータにすべてを与えたもうたので、その愛にこたえて、コンソラータも自分のすべて、愛と心のすべてを、愛の祈りによってイエズスにささげるはずだった。

─イエズス─「コンソラータ、無益な考えと不必要なことばを全く放棄して、愛の祈りを決して中絶しないように、犠牲によってあなたの忠実と雅量を証明しなさい。愛の祈りを決して中絶しないことによって、私のコンソラータが、だんだん消耗してゆき、犠牲として殺されてゆくことを私は知っている。ごらん、それこそ愛のいけにえの意味である。」

翌朝、イエズスは約束どおり聖別式を行なわれた。しかし外部的には何も見えず、すベてが心の中で行なわれた。

─イエズス─「きょう私はあなたを愛のいけにえとして聖別する。私はいけにえであるあなたを、矢で傷つけず、心の中であなたを炎々と燃やす。きょうから死ぬ日まで、残された時間全部を絶え間ない愛の祈りで満たしなさい。それについて私が全部の責任を受け持つ!」

イエズスが責任をもってくださっても、コンソラータにとっては絶え間ない戦いとなったのである。だが聖別式によって愛の炎に燃やされたコンソラータは、愛のいけにえとして強められたことを感じた。そして一九三六年六月の聖心の祝日に、絶え間ない愛の祈りの誓約を立てることを覚悟した。イエズスがそれを望み、準備させてくださった。自分の性質にとって、愛の祈りを一日じゆう絶え間なく続け、一度も怠らぬことが非常にむずかしく、本性をすりへらすものであることを毎日経験していたので、その誓約がそんなに簡単でないことはよく知っていた。コンソラータは、その誓願を立てる準備として、九日間の祈りを行なった。その初めのころ、日記にこう書いた。

「絶え間ない愛の祈りによって、考え、ことば、想像力のすべてを犠牲にして提供するので、神にすべてをささげるのだということが、だんだんわかってきました。つまりだんだん自己を捨て、自分の本性を殺すことです。」(一九三六年六月十日)

だから、藁火(わらび:わらを燃やしてたく火)のような一時的な熱中ではなく、イエズスが仰せられたとおり、霊魂を十字架につけ、絶え間なく傷つける誓約であった。

一九三六年六月十八日、聖心の祝日の前夜、この食事の時も、仕事、休憩時間にも愛の祈りを一度も怠らないという、守りがたい誓約を立てた。聖マリアと聖ヨゼフの御取り次ぎにより、聖心に全く信頼しながら、この誓約により、コンソラータは、十字架につけられたイエズスに自分をつなぎ、イエズスとともに愛の贖罪の燔祭に、焼き尽くされてゆくのである。

─イエズス─「今や、十字架をになって進むのではなく、十字架上で、絶え間ない祈りによって、最後までたゆまずがんばるのである。」(一九三六年七月八日)

それは真に英雄的な剛勇を要するものだったが、コンソラータは頂上を仰いで恐れる者ではなかった。

「イエズスよ、真にあなたを愛するとは、ただひとつの無益な思いが心にはいるのを許すよりは、死ぬこと、不必要なただひとつの文章を口にするよりは死ぬこと、ただひとつの愛の祈りを怠るよりは死ぬことです。」(一九三六年十二月)

〈愛の祈りと愛の純粋さ〉

すでに述べたとおり、絶え間なく愛の祈りをささげるためには、精神、心、口の慎みを守り、心を散らす無益な考えを防ぎ、神の愛を妨げる自己心や、世間的なもの、被造物から離脱し、絶え間ないきびしい沈黙によって潜心しなければならない。ところが、この絶え間ない愛の祈りこそ、精神、心、口の慎みを守らせる大きな助けとなるのである。

─イエズス─「愛の祈りによって、考えとことばを完全に抑制できるようになるので、悪魔はあなたに対して何もできなくなってしまう。」(一九三六年九月十六日)

イエズスは絶え間なく愛の祈りを続けることとともに、愛の祈りを純粋なものとすることを要求された。

─イエズス─「愛の祈りの純粋さとはなんであるか知っていますか?それは無益な考えがひとつでも心にはいるのを絶対許さないことである。悪魔は愛の祈りを怠らせようと激しく攻撃している。ただひとつのどんな考えでも、あなたを愛の祈りから引き離すかぎり、敵を満足させるだろう。」(一九三五年十月十七日)

─イエズス─「ごらん。あなたの心にへびのように忍び込んでくるよい考えの中にも、常にいくらか自己心、自己満足が含まれている。それによって愛は濁ってくる。私がすべてを考えてあげることを信じ、私に全く信頼し、どんな考えがはいるのも許さぬならば、愛の祈りは純粋となるだろう。」(一九三五年十二月六日)

イエズスは恵みによって、愛の永続と純粋さを補い固めてくださったが、コンソラータのほうでも、あらんかぎりの総力を結集して、特別強い意志と自己放棄により、努力し、戦った。

─イエズス─「私が恵みによって、愛の純粋さを強めてあげても、もう努力する必要はないと思ってはならない。いいえ! 恵みによって強めても、戦いと努力は相変わらず必要である!」(一九三五年十二月十五日)

戦いは苦しみであり、絶え間なく戦うことは、絶え間なく苦しむことであった。だが、愛の純粋さによって、神のうちへいかりをおろした霊魂は、苦しみを忍ぶにも純粋となり、つまらぬ嘆き、自らを頼む自己満足、いかにもあわれないけにえであるというわざとらしいみせかけで、人の注意をひくことなく、いけにえの苦しみの芳香をすべて神へのみ立ちのぼらせることができる。

─イエズス─「霊魂が愛の純粋さに停泊すれば、平安につながれ、不安になることがない。十字架の足もとにたたずんでいられた聖母マリアをごらんなさい。苦しみの海の中で毅然(きぜん)として落ち着き、ひと言のお嘆きのことばもない。剛毅(ごうき)をもって苦しみを受け、高貴な威厳をもって苦しんでおいでになる。落胆もせず、ただ穏やかに、凛(りん)として、苦しみを神にささげておいでになる。イエズスのあの最後の『すべてはなしとげられた』とのことばにすらも。苦しみの日にはあなたもそうするように。そして愛の純粋さが、そうすることを助けるだろう!」(一九三五年十二月九日)

─イエズス─「コンソラータ、あなたのまわりのまぶしいほどまっ白な雪をごらんなさい。その雪のように心も精神も口も全く清く純粋であるように。そうすればすべての苦しみは甘美なものとなり、イエズスと霊魂に対する愛のために、苦しみを忍ぶことは喜びとなる。」(一九三五年十二月十三日)

愛の純粋さは心の最高位の清さである。だから絶え間ない愛の祈りに、霊魂の総力を尽す者は、最高位の清さを有するのである。

─イエズス─「精神の慎みによってあなたの心は清く汚れなくなる。絶え間ない愛の祈りはあなたを私の望む道へと燃えるような熱心で進ませる!」(一九三五年十一月三十日)

一九三六年八月六日、イエズスはコンソラータに絶え間なく純粋に愛する誓約を立てることを要求された。「イエズスの愛の渇きを不浄な水でいやすことは、浄配(清い配偶者)としてできません。だから愛の祈りは、ほかの何ものも混じえない全く清いものとならねばなりません。」この誓約は最も守りがたい、しかし最高の完徳に向かわせる最も効果的な誓約である。コンソラータは愛の祈りを絶え間なく続けるだけでなく、その純粋な清さを保つために、一日じゅう、いつ、いかなる時でも、常に自己放棄をゆるめることなしに全力をあげて努力しなければならなかった。一九三六年一月一日コンソラータは書いた。「イエズスが私に対してなさってくださるように、私もイエズスに対して同じようになりたい。すなわち、心、精神、口の慎みにより、清く光り輝く小さい白いホスチアに。」実際に、ホスチアになったことをイエズスは確認された。

─イエズス─「あなたは今や無限の愛によって、永遠の愛にささげられたホスチアである。」(一九三六年七月十九日)

〈愛の祈りと愛の熱烈さ〉

「あなたは神なる主を力を尽くして愛しなさい」との聖句によれは、完全な愛の第三の特徴は、自分の全力を尽くすもっとも熱烈な強さでイエズスを愛することである。

イエズスはコンソラータを熱烈に愛し、またその愛に対して、コンソラータのほうでも熱烈にこたえた。ここでイエズスがコンソラータに与えられた特別な恵みや賜ものをすべて数え上げることができないが、絶え間ない愛の祈りに関係の深い次の御ことばだけを引用しよう。

「コンソラータ、私たちのこれからの努力は、ただ欠点を避けるだけではなく、イエズスを、愚のきわみまで熱烈に愛することを目標にしよう! 私はあなたから熱烈に愛されたい!」(一九三六年十一月十日)

どうしたらその熱烈な愛に達することができるかを、コンソラータは聞いた。

─イエズス─「絶え間ない愛の祈りによって、あなたは私を熱烈に愛するようになる!」

聖母マリアもコンソラータをたびたび励ましてくださった。

「イエズスを愛し、あなたの絶え間ない愛の祈りをできるかぎり熱烈にするためには、あらゆることを役だてなけれはなりません。」

信仰の徳が信仰の行為によって増加し、希望の徳が希望の行為によって増加するように、愛の徳も愛の行為によって増加する。だが何か非常に特別な愛の行為、犠牲をしなければならないのではなく、目前のあらゆる小さいことを、絶え間ない愛の祈りのうちに熱烈な愛をもって行なえばよいのである。コンソラータは、その愛の熱烈さが最高熱度に達するように、激しく努力したので、御父、神は、ほどよくその熱を和らげ、落ち着いて、愛を増加するよう勧めてくださった。

─御父─「絶え間ない愛の祈りにおいて、あなたは静かに燃えなければならない。あなたが静かにすすまず、心に強制するなら、心は疲れて、愛の歌を歌い続けることができなくなる! 静かだから熱烈でないと思ってほならない!

 静けさこそは、愛の祈りの絶え間ないことを証明する。わかりましたか? 愛そのものは火です。その火が静かにあなたを燃し尽くすようにしなさい。私の小さいホスチアよ! 平安のうちに愛しなさい。愛があなたを静かに燃し尽くすことを許しなさい。荒れ狂うような激烈さ、猛烈さをもってせずに。そうでないと、あなたは、ただ疲れ果てて、私を続いて、あなたの愛の歌で喜ばしてくれることができなくなるだろうから!」
(一九三五年十一月二九日)

同じ意味のことをイエズスも熱心に勧められた。コンソラータはミシンを踏んでいた。一目一目を愛の行為としてささげようとして、少しでも多くするためスピードをあげた。だがあまり急いだので、縁がねじれたまま縫ってしまったので、ミシンをとめねばならなくなった。

─イエズス─「わかりましたか? コンソラータ、今の失敗は愛の祈りについても同じである。静かに私を愛し続けるならば、愛の祈りを絶え間なくささげることができるが、せかせかと心にむりを強いるならば、途中でやめねばならなくなる。続ける力がなくなってしまうから。」

絶え間ない愛の祈りによって、コンソラータがだんだん愛の熱烈さを増していったことを伝えるには、その手紙と日記の熱烈な部分を、全部そのまま書き写さねばならないが、ここにそのひとつだけを書き写そう。

「夜、聖ひつのみ前で少しの間祈っておりました。私の弱い心臓は、愛の大火に焼き尽くされ、爆発的に噴き出してくる愛の熱願と、猛烈さをおさめるには、心臓は小さすぎて、もはや耐えず、ひどく痛んできました。私を熱烈に愛してくださるイエズスを、同じ熱烈さで愛したいという無限な強い衝動にかりたてられ、その愛の熱願を何度も繰り返した時、私の心の中にもうひとつの心がおられるのを感じました。もうひとつの心臓! イエズスの聖心! その聖心の愛こそは、私の心臓を痛めずに、無限に流れ出ることができるのです!」(一九三六年七月四日)


〈愛の祈りと自己献身〉

愛の祈りを一度も自由に怠らぬほど、絶え間なく、また無益な考えがひとつも心にはいらぬほど、純粋になるためには、霊魂は風の中の羽のように、自己を完全に神の御愛に任せなければならない。言いかえれば霊魂が他の被造物だけでなく、自分についての考えを捨て、自分を忘れ、神の御愛に自分を沈めて、自分がなくなることが必要である。これは非常にむずかしいけれども、イエズスが霊魂のうちに自由に働きうるため、絶対的に必要である。

自分を捨てて神にゆだねるとは、自分の霊的進歩を無視し、怠けて無関心となり、気まぐれに、また好みのままに努力をやめてしまうことではない。それは霊魂に働きたもう神に単純に従うことである。

「私の働きに反対しないで、そのままに任せなさい!」 そうです! イエズスに任せなさい! なぜならイエズス以上、霊魂の聖化を望む者がいようか?またイエズス以外に霊魂を聖化できる者がいようか? だれがイエズスのように霊魂の真の必要を知っているだろうか? 霊魂に対する神のご計画を知りたもうのはイエズスだけである。またイエズスは全能で忠実そのものであり、あらゆる約束を守りたもう!……ではなぜ自分を全くイエズスにゆだねて、霊魂のうちで、イエズスが絶対自由に働きたもうようにしないのだろうか? またなぜ、自分の意見、思想、希望、心配をイエズスにゆだね、信頼に満ちて、各瞬間、そのとうとい導きに忠実に従わないのだろうか?

─イエズス─「コンソラータ、考え、望み、ことばにおいて自分を全く忘れなさい。私の働きにすべてを任せなさい。私がすべてをするから、あなたは各瞬間、私が大きな深い愛をもってあなたに要求することを、私にささげなさい!」(一九三五年九月二二日)

イエズスが神として行ないたもうことは、いたって善であり、いつでも霊魂に最も役にたち、神の善のみを生ずる。この神の行ないの効果がわからなくとも、神に全く任せなければならない。イエズスはそれを強くコンソラータに求められた。

─イエズス─「私の働きに任せなさい。そうすれば私がすべてを善く行ない、私の小さなホスチアは、愛においても救霊においても豊かになるだろう。」(一九三六年十二月十八日)

多くの人は、自分で自分を聖化できると信じ、イエズスの御働きにすべてを任せる代わりに、自分で聖化をはかろうと望み、自分で道、手段、方法を選んで、ある意味では、イエズスにどうすべきかを教えたいと思っている。その結果聖化できなくなる。聖化への道を邪魔する自己を除き、イエズスの導きに従えば従うほど、イエズスによって早く、完全に聖人になることができる。

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたにあらゆる権利をもっている。だがあなたはただひとつの権利しかもっていない。すなわち私に従うこと。私は、私に信顧し、どんな状態においても私の指導に反対せず、常に平安と喜びのうちに私に奉仕する、あなたの従いやすい心がほしい。」(一九三五年九月二四日)

霊魂は愛によってのみ、この信頼に満ちた全き自己献身に導かれる。愛なしには、考え、望み、心配などを放棄できない。イエズスが霊魂のうちに、ご自分ですべてを行ないたもう目的は、その霊魂が愛をもって、神の御愛にこたえるように努力することである。

─イエズス─「霊魂のうちに働くのは私の楽しみである。私は霊魂のうちですべて自分でしたいと思っているが、同時に霊魂が私を愛することだけを望んでいる。」(一九三五年十一月八日)

─イエズス─「あなた自身のこと、あなたの欠点、あなたの現在、未来の困難、あなたの完成、あなたの聖徳などについて考えてはならない。私があなたの聖化、聖徳について考えてあげよう。だからあなたはこれから、ただ私のことと、他の霊魂のことだけを考えなさい。私を愛することと救霊のことだけを!」(一九三四年八月二二日)

ここに絶え間ない愛の祈りと自己献身との親密な関係をみることができる。絶え間なく純粋に愛の心を起こす人は、自然に、神の愛にすべてを任せ、またその愛に満ちた自己献身によって、自然に、絶え間なく純粋な愛の心を起こすようになる。すなわち神に自己献身すればするほど愛に生き、愛すれは愛するほど、神に自己献身するのである。

─イエズス─「私のみにすべてを任せなさい。あなたの唯一の務めは、絶え間ない愛の祈りと、私が直接、又は間接に、上長や姉妹たちをとおして、あなたに要求することを、単純にそのまま、いつでもすることです。絶対的な服従とはそれである。」(一九三五年十月十五日)

イエズスに絶え間ない純粋な愛の祈りをささげるため、自己を捨てた霊魂に対して、イエズスは、世の母があふれる愛にかられてその子を抱きしめる時よりも、もっと愛深く、あらゆることを気づかい、考えてくださる。

─イエズス─「毎日、毎時間、毎瞬間、絶え間ない愛の祈りによって私に従いなさい! 他のことはすべて私が考えてあげよう。」(一九三六年五月二十二日)

コンソラータは驚くべき活動を示し、毎日すべての人に奉仕するとうとい大志をいだいて、秘書、コック、門番、靴屋などの務めのほか、どんな人にも、いつでもすぐに、喜んで手伝った。時にはあまり多くの義務があって十分奉仕できないことを心配した。

─イエズス─「ただ愛の祈りだけ、他のすべての心配を捨てなさい。私がすべてをよくしてあげることを確信しなさい。あらゆることをするに要する時間も私がみつけてあげよう!」(一九三六年九月八日)

コンソラータは書いている。「死ぬこと、もはや存在しないこと! もし私が自分のことを考えたり、たとえよい考えでも夢中になってその考えを追ったり、つまらぬことでも、自分のことを話したりするならば、それは死ぬことでなく、私の中にまだ生きていることです。それはちょうどイエズスがすべてを考えてくださらないように、イエズスヘの不信頼を表わしています。」

コンソラータは一九三七年聖心の祝日に、神のみ旨により、指導司祭の許可を得て、完全な自己献身の誓約をたてた。その誓約を英雄的に守ることにより、絶え間ない戦いにおいて、絶え間なく深い平安と精神の不動の落ち着きを保つことができた。

「私はもはや主の聖なるみ旨が行なわれることのほか、イエズスに望むことがなくなりました。その他のすべてに全く無関心ですので、私をちょうど、聖心の上で眠る嬰児にたとえてもよいと思います。私が主に自己を全くゆだねた時から、甘美な平安を楽しみ、不動の喜びを味わっています。イエズスがすべてのことをよくしてくださるので、私はもう望むものが何もありません。今では献身の生活は、私が神に何もささげていないことを悟った時の落胆の苦しみすらなくしてくれました!」

 実際、コンソラータは絶え間ない純粋な愛の祈りにより、また、すべてのこと、すべての人に対する「はい」という承諾によって、神にすべてをささげていた。そしてその愛の祈りはコンソラータの死によって中断することなく、天国において永遠に至るまで歌い続けられるのである。

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