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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第10章)

2022-09-04 15:30:01 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第10章)


第十章 愛の祈りとコンソラータの信心生活の関係について

〈愛の祈りと声祷〉

 信心生活の大切な点と愛の祈りとの関係──まずいろいろな声の祈りとの関係はどうだろうか。確かにコンソラータは偉大な祈る人であった。聖福音の「常に祈れ」(ルカ一八・一)ということばを自分の生活で文字どおり実行した。またきわめて高い聖化の頂上へ達することができたのは、謙遜で根気強く、信頼に満ちた祈りがいかに万能であるかの証明となる。例えば毎月の初金曜日を月の静修(せいしゅう:注1)日とし、八時間顕示されているご聖体のみ前で終始祈った。その日はコンソラータにとって大祝日で、祝日の修道服を着た。

─イエズス─「祈りによってこそ、あなたは力をうるだろう。」(一九三四年三月三一日)

コンソラータは会則に対する忠実従順のため、またよい模範を示すために修道会の共同信心業に熱心に参加した。

─イエズス─「ごミサ、ご聖体拝領、聖務日課、黙想などの信心業をやめるのはよくない。それは、私の計らうことではない。」コンソラータはこの戒めを深く心に刻んでおいた。

 それにもかかわらず、その共同信心業と、毎朝一番先に聖堂にはいった時に、また夜、自分の小室でした十字架の道行の祈りのほか、声祷(注2)を唱えなかった。声祷はコンソラータの心にとって苦痛に等しかった。その霊魂はただひとすじにイエズスを愛することだけをせつに望み、絶え間ない愛の祈りの中に、他の祈りに含まれるすべてのものを見いだしていた。イエズスも聖福音に、「祈るとき異邦人のようにむだ言を言うな。彼らはことばが多ければ聞き入れられると考えている。」(マタイ6-7)と仰せられている。

コンソラータは指導司祭に書いた。「聖福音の『私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり……私によって生きるだろう。」(ヨハネ6-56~57)という句は、愛の祈りによって聖心のうちに生き、永遠まで生きるという確信を与えてくれますので、読むたび、無限の喜びを感じます。この愛の祈りはすべてをはからい、永遠に私をイエズスにひきつけます。愛の祈りによって、私は私自身を、またあらゆるものを、高く越えて、天翔ってゆくのを感じます。しかしこの甘美な主との深い一致の喜びは、たびたび声祷によってかき乱されます。その時私のあわれな霊魂は乱れてぼう然としてしまいます。神父様、ご存じのとおり、愛はすべてを簡単にし、また絶え間ない愛の祈りによって、最も活動的な霊魂すら完全な平安を味わいます。」

 コンソラータは、「何か声祷を唱えるために愛の祈りをやめてはならない。イエズスは私の入用をすべてご存じです!」と思ったが、イエズスはコンソラータに、確かに正しい道を歩んだと示してくださった。コンソラータはきまった祈りのことばを唱えられないことは心の怠惰に基づいているのではないかと心配し、一九三五年十月六日、「わがイエズス、祈ることができません。」と嘆くと、イエズスは「『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!』という祈りより、もっと美しい祈りを私にささげることができるだろうか? 愛と救霊! それより美しいものがあろうか?」と慰めて、安心させてくださった。

院長はコンソラータが健康を害するほど働いているのに気づき、仕事を少し減らして、祈る時間を与えたほうがよいと考えた。コンソラータは服従したいと思ったが、以前より声祷を多くすることは不可能な気がして、イエズスの足もとに、「わがイエズスよ、祈ることを教えてください」と願った。

 イエズスは答えたもうた。「なに? 祈ることができない? 愛の祈りよりきれいな、また私を喜はぜる祈りは、なんだろうか? イエズスが聖櫃(せいひつ)の中で何をしているか知っていますか? イエズスは御父と霊魂を愛し続けている。それだけ。寂として、やかましいことばもなく、何もない。静けさと愛のみ。あなたも同じようにしなさい。いい子だから今まで以上声祷を増さず、ただ聖櫃をじっとながめ、そのとおりにイエズスを愛しなさい。」(一九三五年十一月十七日)

 また会則に命じられた以外の声祷についても仰せられた。「私はほかのどんな祈りを合わせたよりも、ただひとつのあなたの愛の祈りのほうが好きだ。」(一九三五年十二月十二日)

また一九四〇年六月二十日「霊魂を救ってください!」という願いは、あらゆる霊魂の救いを祈ることであると説明された。

「煉獄の霊魂、この世の戦いの教会の霊魂、罪のない霊魂、罪に落ちた霊魂、臨終の霊魂、無神論者の霊魂などすべての霊魂を含んでいる。」もちろん、愛の祈りは、会則によって命じられた祈りや、自由に自分が唱える祈りを妨げるものではない。それについてはだれでも神の恵みの指導に従うべきである。

〈愛の祈りと黙想〉

コンソラータは共同信心業として常に忠実に毎日の黙想を行なった。だが、定まった形式に従うことはできなかった。心の機能を使わない単純な祈りを好む霊魂が経験するように、組織的に、霊魂の諸機能である記憶、知性、意志をつかって黙想することより、だんだん観想へ導かれた。すなわち神に対する愛によって神と一致し、聖霊が心に降って、信仰の光、信頼の親しさのうちに、単純に神が心の底へ直接お示しになり、祈らせ、祈りと愛が全くひとつになるのである。

「神に対する熱望が私たちを黙想させる。しかし神の愛を得た時、愛は私たちを観想へ導く。」(聖フランシスコ・サレジオ)

コンソラータは愛の祈りによってすでに神との一致に達したので、黙想書による信心的知識は、励ましにならず、かえって妨げとなった。「私は絶え間ない愛の祈りによってイエズスと一致しているので、イエズスはもはや長い黙想や読書を要求なさいません。それらのことは私にとって時間の損失です。私にとって重要なことは多くの実を結ぶことなので、多く、絶え間なく愛することだけが不可欠です。」

 胃の弱い人に、強健な人にむく普通の食物が消化できないように、信心生活を始めたはかりの人にすすんだ人の心の食物がむくはずはない。ある日の黙想の時、コンソラータは黙想書のある一点にむりやり精神を集中しようと努めたができなかった。その時イエズスは、「私はあなたの思考ではなく、愛がほしい。」と仰せられて、黙想のために聖福音を勧めてくださった。コンソラータの聖福音の解釈は学問的ではなく、自分の霊魂に応用して心の滋養をとった。そして黙想を始める時、神の恵みに照らされて、常にまず熱心に愛の心を起こした。

 ごくわずかな例をあげよう。一九三五年十月十日黙想(注2)の要点を聞きとることができなかったので、コンソラータは聖福音を開けて、その要点に代わる箇所を捜した。ちょうど、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山と丘はならされ、曲がった所はまっすぐに、でこぼこ道は平らにせよ。」(ルカ3・4~6)の所を読み、イエズスが「愛の祈りがちょうどそのとおりに霊魂に働く。霊魂の空間を満たし、ごう慢な部分を謙遜にする」ということを理解させてくださったので、その考えを十分味わいながら、黙想時間を過ごした。

また一九三六年七月二五日「めざめて祈れ」(マタイ26-41)という聖句を黙想する時、イエズスは「何も恐れなくともよい。私があなたの中でめざめて祈っているから、あなたはただ私を愛していなさい。」と仰せられた。このようにすべてがコンソラータを絶え間ない愛の心へ導いた。放とうむすこのたとえを黙想したのち、日記に記入した。「ほんとうにイエズスは、私に最も美しい『愛』という上衣をくださいました。また『忠実』という指輪をはめ、足には『信頼』という靴をはかせてくださいました。そして私には絶え間ない愛の祈りのほか、何も要求なさいません。」また「一時間も目をさましていることができなかったのか」というイエズスのペトロへの御ことばを黙想したのち、その御ことばを一日のうち何度も思い出して、一時間一時間を全部イエズスヘの愛に満たしてささげようと努めた。また一九三六年八月二十日「絶え間ない愛の祈りが、畑に隠された宝、あるいは真珠であることがわかってきました。この宝をうるため、私はすべての持ち物を売らねばなりません。私の口から洩れることばをすべて売ること、沈黙を守ること。」と書いた。

コンソラータは黙想を重視せず、無視したわけではない。全くその反対で、一心に黙想したが、単に頭を使うやり方ではなく、心を静かに愛の中に休ませ、絶え間なく愛し、純粋で絶え間ない愛の心を妨げる障害物をすべて除くことに努めるやり方で黙想した。

きまったやり方で黙想する目的は、信、望、愛の感動を起こすことだが、愛の心はそのまま愛の感動だから、頭を使うよりも、絶え間なく愛の心を起こしたほうがはるかによい。また黙想時間だけでなく、にぎやかな道、満員電車、人混みの中でも絶え間なく愛の心を起こすことは、組織的黙想にまさることもある。心が乾燥している時、よい考えを頭からしぼり出すよりも、意志の努力で愛の心を起こしたほうが、聖化のため大きな価値を有し、功徳にもなる。聖トマも「絶え間ない愛は、黙想の欠乏をよく補う。」といっている。

〈愛の祈りと霊的読書〉

霊的読書(注3)はすべての霊魂に有益なものである。しかしコンソラータは本からの照らしの必要を感ぜず、定期的に必ず読む会則、指導書、イミタチオ、聖福音のほかは、ほとんど何も読まなかった。長い間小さい聖テレジアの「ある霊魂の記録」を読んでいたが、のち、イエズスはそれもやめるよう仰せられた。イエズスご自身がコンソラータを教えてくださったので、本によってよりも、イエズスによって、コンソラータは犠牲心、神と隣人に対する愛に導かれた。すでにコンソラータの霊的生活は全部唯一の絶え間ない愛の祈りであった。コンソラータは書いている。

「どんなに美しいことが書いてある本でも、その一ページすら愛の祈りを中止させます。イエズスは、私の愛が完全で絶え間ないものであることを望んでいられます。」

心の中にイエズスの御声が聞こえなくなっても、その考えを変えなかった。ある姉妹が、「ただイエズスと共に」という本を貸してくれたがコンソラータは何ケ月も手もとにおいたのちこっそり返した。読まなかったことを言わないですますためだった。

「ある日、霊魂が暗やみに閉ざされた時、私は照らしを受けたいと思い、『ただイエズスと共に』を開きました。けれどもすぐに疑いの雲が私を圧倒して、何もわからなくなってしまいました。指導司祭が手紙とことばでよいことを教えてくださいましたので、私の霊魂の小舟はやっと水平の位置を取りもどしました。それで私に残った唯一のその本を読むことをやめ、これからの生涯ただ聖福音だけを心の糧とすることにしました。」

聖福音は常にコンソラータの守護、よりどころであった。心が暗やみに閉ざされた時は必ずそこに必要な光を見いだした。

「聖人伝では、永遠の生命のことばを見つけるため全体を読まねばなりません。しかし聖福音では一語一語が永遠の生命の糧です。……イエズスは私に聖福音を非常に深く理解させてくださいます。たびたび聖エリザべトの『信じたあなたは幸いである』(ルカ1-45)ということばをとらえます。ああ、私もほんとうに深くイエズスを信じたいと望みます。」

「『あなたがたが私に一致しており、私のことばがあなたがたにとどまっているならば、望みのままにすべてを願いなさい。そうすれば与えられるであろう。』(ヨハネ15-7)ああわが神よ、あなたは私の希望のすべてをはるかに越えるおかたであります! あなたのおきてを守れば、あなたへの愛にとどまることができます。そのためには、私の『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!』」

「カナの婚宴で聖マリアが仰せられた『なんでもあの人のいうとおりにしなさい』(ヨハネ2-5)という御ことばが絶えず聞こえます。指導司祭が、イエズスに対して、ただひとつの愛の祈りも決してこばんではならないとおっしゃいましたので、そのとおりにしようと努めています。愛の祈りによって、私の生活はすべてふしぎなほど簡単になりました。愛の祈りのほかは何ものもなく、だれもありません。それによって純粋な愛は自由に、高く、もっと高く翔けのぼります!」

コンソラータは特に聖福音を熱心に読んだが、聖書全体をも愛し、喜んで読んだ。

「私は特別無学な者ですが、ラテン語で聖務日課を唱える時、イタリア語で唱えるよりもずっとよく理解し、神の照らしをいただきます。例えば朝課の時、Quis ergo nos separabit a caritate Dei?(だれが私たちを神の愛から離し得ようか?)という句が私をとらえました。いいえ、使徒聖パウロとともに繰り返して言います。どんな被造物も私を絶え間ない愛の祈りからひき離すことはできません。」

同様にコンソラータは食事ちゅうの朗読からも心の糧を得て、イエズスに対する愛をますます絶え間なくするために適用した。

〈愛の祈りと特別究明(きゅうめい)〉

特別究明(注4)
は信心生活の熱心を保ち、増大するのに不可欠な手段である。コンソラータは、その特別究明を全部純粋な絶え間ない愛の祈りに集中した。コンソラータの決心も、それを守る英雄的な誓約もすべて「純粋で絶え間ない愛の心」という共通分母を含み、イエズスは、その絶え間ない愛の祈りを忠実に励めば、そのために必要な決心を忠実に守る力をお与えになると約束された。コンソラータは日課表に定められた特別究明の時間(正午と夜)だけでなく、ある意味で一日じゅうを特別究明にあてていた。イエズスは一時間ごとに絶え間ない愛の祈りの決心をあらためるよう教えて下さったので、一時間過ぎるごとにすばやく過ぎた一時間の愛の祈りについて究明した。そのためいつも小さな手帳を持っていて、不熱心について記入した。だから夜の一般究明(注4)の時、自分の霊魂の状態がはっきりわかった。不熱心については真面目に痛悔して舌で床に十字架を印したり、十字架にせっぷんしたりして償い、また静かに深く信頼しながら愛の歌を始めた。

この方法がすべての霊魂に適当だとは言えないが、コンソラータの成聖への激しい飢えかわきにはこの方法が必要であった。絶え間なく純粋な愛の祈りをささげるためには、極端に不断の警戒を要し、霊魂を統御(コントロール)して、熱心をしばしばあらためねば絶対不可能であった。

他方、常にただひとつの点について特別究明してゆくことは実行を容易にし、絶え間ない愛の祈りによって、コンソラータは他のすべての徳をも得て、成聖の道に早く進むことができたが、それこそイエズスの堅い御約束なのであった。

〈愛の祈りと静修日〉

毎月の静修日は、コンソラータにとって霊魂を強める日で非常に熱心にその日を利用した。カプチン会では静修日を自分で自由に定めてもよいので、コンソラータは初金曜日と定めた。

コンソラータは初金曜日の前夜の聖時間から準備を始めた。毎月の静修日にイエズスはひとつの深い考えを与えてくださり、それについて熟考した。たとえば、「人の子が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるため」など。

もちろんその時いただく心の照らしと、起こす決心は、いつも愛の祈りと関連があった。そしてイエズスの許可を得て、その静修日の終わりごろ、あるいはその次の日曜日に、コンソラータは自分の霊魂の状態をくわしく書いて指導司祭に送った。本書でたびたび引用したのはその手紙である。

結局、コンソラータの全生活は絶え間ない愛の祈りであり、イエズスの愛の祈りについての教えに導かれ、また自分の毎日の経験によって、この愛の祈りの本質的価値と、霊魂を容易に聖化させる効果とを確信していたのである。

「私が望んでも、絶えずご聖体拝領することはできませんが、愛の祈りが、イエズスを霊魂に迎えいれること、つまり愛の祈りによって恵みは増し、ちょうどご聖体拝領をしたとしても同じであることがだんだんわかってきました。」

コンソラータの性格のすぐれた特性のひとつは、その強い意志であった。その意志によって、自分の使命にすべてを集中し、目的達成のため英雄的な決意をもって雄々しく愛の祈りを絶え間なくささげるという必要手段にあたったのである。また愛の祈りのひとつひとつが永遠まで続くという確信は、コンソラータを非常に効果的に励ます動機となった。そして少しの休息も許されぬ、悪魔との戦いにおいて、愛の祈りは常に勝利を得させる武器であった。心が喜びに満ちている時も、暗やみに苦しんでいる時も、いつも変わらず、一日十七時間の間一度も愛の祈りを怠らぬよう努めた。

「私が香部屋(こうべや:注5)を出た時は夜の九時でした。二階の階段の降り口の所で、私はまっ暗やみにつつまれて立っていました。下へ降りてゆくことは、転んで死ぬ危険がありました。けれども私はしっかり、手すりにつかまって、伝わりながら静かに一段一段降りていってとうとう下へ着くことができました。降りながら私は考えました。これはなんと私の霊魂の状態に似ているでしょう。霊魂もまっ暗やみにつつまれています。けれども絶え間ない愛の祈りにしっかりつかまることによって、静かに無事、生涯の最後に到達するでしょう。……そうです。愛の祈りこそは真にすべてであり、進んでゆくために必要な光と力を与えます。もし暗やみの中でつかまれるこの救霊のいかりがなかったら私の霊魂は災いなるかな! 私が落ち込む絶望の深淵はどんなに限りなく深いでしょう!」


(注1) 静修(せいしゅう):修道院あるいは、その他の宗教的な場所で行われ、信仰の真理について黙想し、それに関する指導司祭の講話を聞き、とくに熱心に秘跡を受け、他の信心業を行うなど、信仰生活の潜心(精神集中)と深化とのためにおこなわれるものをいいます。

(注2)カトリック教会の伝統では、口祷(声祷)、黙想、念祷(観想的な祈り)を重視してきました。

【口祷の祈り】口祷は「声の祈り」とも言われます。弟子に祈りの仕方を教えてほしいと言われたイエスは、「天におられる私たちの父よ、・・・」と口祷の祈りを教えてくださいました。

【黙想】黙想とは、何よりも聖書の神の言葉から始まる、祈りのうちに行なわれる内省です。黙想する時には、聖書(特に福音書)、聖画像、当日ないし季節の典礼文、霊的書物などを用います。黙想する時には、知性、想像、感情、望みを働かせ、わたしたちの信仰を深め、心を改めさせ、キリストに従う意志を強めるようにします。

 【念祷(観想的な祈り)】聖テレジアは、「念祷とは、わたしを愛しておられる神としばし語り合う、友愛の親密な交わりです。わたしたちはその神から愛されていることを知っているのです。」と語っています。この祈りにおいて、感情をあらわすにも、言葉にだすのではなく、内心で行われます。そして信仰の神秘について愛情をこめて行われる直観的考察と賛美といわれています。友人同士が語り合うことを通してお互いの理解を深めることができるように、念祷を通して神のことをより理解し、神が我々を愛しておられることや、お望みのことを知ることができます。(カトリック北白川教会HPより)

(注3)霊的読書:初期の頃から修道生活において定められていたもので、祈りおよび神とのいっそう親密な一致へと人々を導く読書。この種の読書として、聖書が常にその首位を占め、教会の教父たちの著作、とくに教皇および司教の著作、聖人の著作および聖人伝、そのほか、神を崇敬し奉仕するために知性を照らし意志を強め情緒を高めることを目的とした著作が用いられます。(現代カトリック事典)

(注4)意識の究明意識の究明とは、絶え間ない観想のうちに、師イエスの徳を模倣し、わたしたち自身のうちに師イエスを形づくり、彼の住まいとするために心を開き、絶えず師イエスに心を傾けることです。師イエスを見、聞き、洞察し、迎え入れようとする弟子の姿です。意識の究明は、自分自身を知るために必要な方法です。意識の究明は、人を謙虚にさせ、神に対する感謝と罪の悔い改め、将来に向かう固い決心をさせます。

究明には、予防究明、一般究明、特別究明の三つの種類があります。

【予防究明】 朝、その日の一日を予見し、それに備える決心および計画を立てます。
【一般究明】 十戒、福音的勧告、主な徳、職務上、身分上の義務について、特に意志の状態と祈りの態度について調べます。
【特別究明】 主欠点と主決心について、また、霊的生活の歩みについて調べます。

 究明をよくするためにいろいろな方法が勧められますが、効果的な方法は、それを行おうと意志的に望むことです。つまり、神の栄光を求め、すべての過ちを悔いながら、知性・意志・心について究明するように勧められています。(『パウロ家族の祈り』より)

(注5)香部屋:聖物納室、聖具室ともいう。聖堂の奥室で司祭が祭服に着替えたり、祭服・祭具を保管したりする部屋。(キリスト教百科事典)

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