園児の頃から習う事は好き
幼稚園のデブ女ピアノ教師は大っ嫌いだが、ピアノは嫌いではなかった。
首締め園児らは大っ嫌いだが、連中のいない幼稚園は好きだった。
大人も子どもも嫌いなのは、そういう嫌な経験からくる。小学校も最初は嫌いだった。それでも、遠足や勉強は好きだった。知らない場所や知らない文字との出合いが楽しいからだろう。猫の冒険だ。
犯罪が嫌いなのは、首を締められ苦しみ、死をまだ知らないのに死ぬかもしれない恐怖に襲われた事が許せないからだ。
別に、警官という職に就かなくても犯罪は嫌いで、さらに警官の怠惰を目の当たりにすると、警官が犯罪組織のボスなのではないかと疑いたくなる。
もしも、犯罪嫌いが減ったら、警官は必要が無くなるのだろう。あぶれた警官は、模造品やコピー品を製造販売し出すのかもしれない。
何度も言うが、私は普通の職にしかついた事はなく、お役所や官職に縁はない。文部科学省では、派遣で短期事務員を少しやっていただけだ。最初から繋がりは無い。人脈は作れずに、孤独な人生だ。
人脈作りで色々な会社や組織を転々とするヤリテではない。
季節工みたいな暮らしは、いわゆる尊厳とはそれほど関係はないが、嫌になったり合わなかったりした時には去る事が可能だ。尊厳も自由も全てを手にしたいとワガママを言うと、人生が破綻する。
私の芸術家としての才能は、楽チン人生では得られなかったはずだ。芸術家に為りたければ、他人から与えられる尊厳よりも、自分の芸術への敬意を大事にする事だ。
〈望玄Miharu=TogoKana日月緋路世汰炬呂拿月彌千彌冬月月衣雨のち苺秦語夏baobabbabyDebby東郷嘉奈意流花千波らんらんてぃらかなさん久泉 筆。〉
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