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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

殉死の六人+

2010-03-07 20:00:00 | 片倉小十郎を知りたい
命日と殉死の話を書いたらちょっとおセンチ(懐かし語)になったので、景綱を追いかけた6人のお名前でも書いてみたいと思います。
(センチメンタルとセンチメートルはカタカナで書くと似てるね。元はsentimental と centimeter だから似てないけどね。殉死と全く関係ないね。)

『片倉代々記』より 殉死の者六人
 還忠道節士 石田八郎兵衛常信
 魏霊道阿士 制野下総高義
 常悦法喜士 山村六右衛門矩義
 道漢宗節士 氏家藤左衛門直通
 玄峯道孤士 作間予惣右衛門義直
 梅漢芳林士 岡和田太郎左衛門昌真


『白石城主片倉氏と家臣の系譜』の記事から抜き書きすると。

石田八郎兵衛常信 一番座一 十月二十一日(初七日ですね)に殉死。十七日に政宗公から殉死禁止の令が出た後なんですが、生前の小十郎と殉死の約束をしているから、と決行。ちゃんと殉死者に入れてもらえてよかった。
制野下総高義 一番座一 清野改め制野。十月十四日殉死。石田さんと氏家さんと3人で一緒に小十郎から下屋敷を賜った話が3人共の記録に書いてあって、3人ともすごく名誉で嬉しかったんだなー、と。
山村六右衛門矩義 一番座四 大坂夏の陣に武頭として出陣。やはり殉死の約束をしていて、小十郎の容態が重篤なのを見て出陣を辞退するのだが「強いて申し付けられ」大坂へ。五月六日誉田町において殿(しんがり)役をし、敵と戦って討死。でも景綱との約束通り、殉死者として扱われています。
氏家藤左衛門直通 一番座一 天正年中より小十郎に仕える。大坂冬の陣には参加したけど、夏の陣には行かず。つまり、重綱が政宗と一緒に夏の陣に出発したのが4月頃だから、もうその頃には小十郎はいついなくなってもおかしくない状態だったのね……
作間予惣右衛門義直 一番座四 佐久間とも。やはり夏の陣不参加。「傑山様へ殉死の御契約申上置」とあり、息子の惣助盛直が出陣して五月六日の戦いで首を上げています。余談ですが、寛永十三年に盛直の弟が仙台屋敷で口論の上刃傷沙汰を起こして切腹、盛直も改易の憂き目にあっています。でも盛直の息子の直春を、景長が初め微禄(御助扶持一斗五舛)で改めて召出し、その後加増しています。花も実もある…ってヤツでしょうか。
岡和田太郎左衛門昌真 一番座二 元・相馬浪人。夏の陣で岡和田掃部という御不断組の者が首を一つ上げたとの記録があり、これが太郎左衛門のことかどうかがハッキリしないそうな。というのも、殉死の折、太郎左衛門には男子がなく、重綱が猪狩源右衛門昌国を岡和田家の養子にして家を存続させてあげているので、夏の陣で働ける岡和田さんは太郎左衛門のことか?と。でも飯田さんの『伊達政宗と片倉小十郎』では、岡和田老人、大坂から凱旋の重綱を出迎えてるし、殉死の際八十二歳だった、とある。そりゃー記録見つけた人も首かしげるわなー。


『白石城主片倉氏と家臣の系譜』全596ページ。まだ全然読めてないんですが(上記のような、索引から名前でひいてピンポイントで数人分しか読んでない…)、この6人の他にもまだ殉死希望者がいたみたいです。たまたまチラリと見つけた中にも1人。

須田弥平左衛門良邦 一番座一 彼も冬の陣は参加していますが夏の陣には「殉死の御契約申上候えば、御病体と存じ上げながら大坂へ罷り登り候儀不本意に存じ奉り、御供御免下されたき」旨願い出たところ、重綱から、その気持ちは嬉しいけど大坂参加組に老巧の者が不足なので一緒に来て欲しいと頼まれています。(これから深読みすると、古くからの部下が景綱心配で大坂行きたくない組ばっかりだったってことかしら。)結局良邦は五月六日の戦いで流れ弾に当り討死してしまいますが、殉死扱いにはなっていません。でも、系譜に記録として書き残されていますし、弟も既に討死して息子もいなかった良邦の跡目を大和田伊予常元の長男・良持に婿養子として継がせているのは景綱です。
殉死として扱ってあげるのと、殉死ではない、名誉の討死だとして扱い普通に家を存続させてあげるのとでは、どちらが幸せだったのでしょうか。今の時代を生きる者にはその感覚はわかるべくもありませんが、きっと景綱は良邦とその娘たちにとって一番幸せな道を選んであげたのだろうと思いたいです。

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