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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その4 黒崎教会堂(長崎市)

2018-05-04 | 教会・天主堂を訪ねて
長崎の外海(そとめ、現在は長崎市西出津町)には既に紹介した、出津と大野の二つの天主堂があります。そして、出津天主堂に近接した上黒崎郷に、この黒崎天主堂があるのです。
この外海の地は、古くより隠れ切支丹が多く住んだ場所で、大浦天主堂のブチジャン神父は、浦上切支丹発見のその年、慶応元年9月黒崎を訪れ、信徒発見に努め、100軒もの切支丹に洗礼を施したと言われます。
明治30年、ド・ロ神父が土地を購入、天主堂建設を計画しますが、資金難で遅遅として進まず、神父は思いを残して逝去、後任の神父と大工、川原忠蔵に委ねられることになります。計画以来23年、大正9年(1920)竣工、コンバス司教により献堂。
平面は三廊式で、奥行きが非常に長く、建築面積も紐差天主堂に次ぐ広さ。主要部分が煉瓦である天主堂としては最後のもの。(関東大震災での被害に鑑み、この後煉瓦造天主堂は見られなくなります。)内部立面は単層、リブ・ヴォールト天井、円形アーチ窓、床は板敷き。全体としてロマネスク様式と言われます。
小高い天主堂への道を上りきると、優しく手を広げた聖母マリアが迎えてくれます。この地の強い風を配慮して、緩く採られた屋根勾配が作り出す正面の煉瓦壁と白い十字架のコントラストも美しい。内部に入ると、黒っぽい柱、アーチの木と白い漆喰の調和の見事さが強く印象に残ります。

山が海岸まで迫り、耕作地の乏しいこの地。畑や海で働く人の耳に、朝に夕に届く天主堂のアンジェラスの鐘の音が限りない慰めをもたらしていることは、想像に難くありません。天主堂の前の石に座って丘陵をふり仰ぎ、広がる海を見、そう思わせられました。

ここは、また遠藤周作の小説「沈黙」の舞台のモデルともなった場所といいます。遠藤周作文学館の前にある石碑には、こう刻まれているのです。
「人間がこんなに哀しいのに   主よ   海があまりに碧いのです」
 (2008年2月)


















































    

西海の教会堂を訪ねて その3 大浦天主堂、神ノ島教会堂、出津教会堂、大野教会堂(以上長崎市)

2018-05-03 | 教会・天主堂を訪ねて
長崎の天主堂と言えば大浦天主堂を欠かすことはできないでしょう。長崎湾をまわって神ノ島へ、そして西海を見渡すあの外海(そとめ)の丘へと・・そこにある二つの教会堂を併せて紹介します。

大浦天守堂

長崎の大浦天主堂、おそらくわが国で最も広く知られる天主堂でしょう。正式の名称は、「日本26聖殉教者聖堂」。
1596年、土佐に漂着したスペイン船の乗組員が、キリスト教の伝道により領土が拡張した、と誇ったことに憤慨した豊臣秀吉が神父を含む外国人6名、日本人20名のキリスト教徒の処刑を命じたと伝えられます。その処刑の地「西坂の丘」に向けて建てられたのが、この聖堂であるといいます。
明治の前、元治2年(1865)、フランス人ブチジャン神父により献堂。創建当時は、居留地のフランス人のための聖堂とされ、フランス寺と呼ばれました。

献堂式より一月ほどのち、フランス寺を訪れた子供連れの15人ほどの一団があった。それは、浦上の農民たちであった。代々秘かに信仰を守り続け、最後の 伴天連が日本を去るときの予言「七代後に再び渡来する・・」を確認しに来たの だった。一人の農婦は、ブチジャン神父の耳もとで「ワレラノムネ、アナタノムネ トオナジ」と囁き、「サンタ・マリアの御像はどこに?」と問うたという。
250年の時間を経た奇跡は、成し遂げられたのである。このことは、長崎周辺の潜伏キリシタンへ伝えられ、またブチジャン神父の喜びは横浜の教区長への手紙となり、歴史に刻まれることになる。


天主堂は、明治12年の大改修により、拡張され現在の姿となった。また昭和20年の原爆により甚大な被害を受け、昭和22年から5年を費やし、大修復工事が行われています。
現存する最古の天主堂。明治期建築で唯一の国宝に指定。(2008年2月)




























神ノ島教会堂、岬のマリア像

西海から長崎湾に入る入口、高台に純白の聖堂が見えます。神ノ島天主堂です。神ノ島は、その名が示すように昔は島でしたが、埋め立てが進み、昭和24年頃に地続きとなりました。

天主堂の塔が、白い灯台のように見え、その向こうに長崎湾があり、通る船が見えます。
この天主堂は、明治25年着任したジュラン神父が私財を投入、自ら設計し、明治30年(1897)献堂したと伝えます。長崎市内では、大浦天主堂に次ぐ古いもので、煉瓦造の天主堂としても最初期のものです。

イタリア人の彫刻家の手になり、昭和59年(1984)建てられたもの。毎年5月の 聖母月には盛大な聖母祭が行われるそうです。天主堂の前の岬に、長崎湾を通る船を見守るように立つマリア像があります。

































出津教会堂、大野教会堂

長崎の外海(そとめ、現在は長崎市西出津町)に、出津(しつ)天主堂、大野天主堂があります。それぞれ、明治15年(1882)、明治26年(1893)の献堂。ステンドグラス1枚持たない、誠に堅牢、簡素な天主堂です。設計者ド・ロ神父・・というより、この地では、歿後90年を経た今でも、親しみを込めて「ド・ロさま」と呼ばれる・・その人について、記しておかねばならない気がします。

フランス北部のノルマンディの裕福な家に生れた神父が、来日したのは明治元年のこと、27歳であった。明治6年、禁教令は廃止されたものの、切支丹に対する官、民双方からの弾圧と差別は、想像を絶するものであったという。そういう時代、神父は赴任地、外海において、聖職者としての務めの他に、教会、学校、受産院、工場などの建設、織物やパン、マカロニの製造、医療施設整備と救護活動、農業指導などに私財を投入し、自ら進んで身を置き活動した。その範囲の多彩さと行動力には、驚異としか、表現する言葉を持たないと語られる。
この地方で、多くの天主堂を建てた五島出身の建築業、鉄川与助に及ぼした心と技については別に記した。
ド・ロ神父の最後の仕事は、長崎大浦の司祭館の建設であった。工事現場での事故がもとで、74年の生涯を閉じることになる。遺体は小船で外海の出津に運ばれた。海辺のあちこちで、弔旗を持った人々の姿があった。「ド・ロさまが帰ってきた・・」人々は涙の中にあったという。


写真上より、出津天主堂(4枚)。入口、鐘塔、祭壇部分は、ド・ロ神父自身の手で、後に増築されたもの。出津天主堂のキリスト像。
大野天主堂(3枚)。玄武岩の小片を積重ね、石灰モルタルを目地材として用いた(通称、ド・ロ壁)九州に二つしかないという石造天主堂。出津の巡回教会として建設されたもの。

出津天主堂から丘陵を下る細い道を辿り、5分程、ド・ロ神父記念館があります。神父のコープなどとともに、農具、工具、織機などが陳列されています。ノルマンディの生家でもありましょうか、立派なフランス風の家のスケッチが目に残りました。見学をしていると、あのよく耳にする賛美歌のメロディーが聞こえてきます。この記念館を一人で守っておられるシスターが、ド・ロ神父が明治23年頃フランスから取り寄せたというオルガンを演奏してくださっているのです。


出津天主堂



















大野天主堂














信徒会館






西海の教会堂を訪ねて その2 田平天主堂(長崎県平戸市)、宝亀教会堂(平戸島)

2018-05-02 | 教会・天主堂を訪ねて
平戸の街から国道402号を南下し右折、間道に入ると、辺りの林や畑や海岸の崖を介して青い海が望めます。田平天主堂は、こんな日本ではないような・・想像のなかの南フランスの海の見える丘のような・・地にあるのです。
ここ瀬戸山一帯は、もとは広々とした原野でしたが、キリスト教の禁制が解けた後明治の中ごろ、西彼杵半島の出津・黒崎や黒島から移住してきた信徒たちによって開墾された地であると言います。
大正3年に着任した中田神父が、本格的な煉瓦造りの天主堂建設に情熱を燃やし、資金集めの苦労、それに加え海岸の崖崩れにより死者を出すなどの惨事を乗り越え、大正7年献堂。設計・施工は、鉄川与助。今村天主堂とこの田平天主堂で、鉄川与助の煉瓦造の天主堂はその頂点を迎えます。そして、鉄川として、最後の煉瓦造天主堂でもあるのです。
内部は、三廊式と呼ばれるもの、立体構成がアーケード、トリフォリウム(装飾帯)クリアストリー(高窓)からなる本格的な三層構成。木造のリブ・ヴオールト天井。内装の木部は、薄緑色。当初の色ガラス窓が撤去されたことを惜しむ声も多いようですが、それに代わって設置されたステンドグラスもまた美しいもの。
天主堂の海に面する正面に立つ、ルルドの聖母。その限りなく優しい表情にも心洗われます。
これほど美しい天主堂に会えることも、きっと得難いことでしょう。海峡を隔てた向こう、平戸島に夕日が沈む頃、天主堂は、真っ赤に燃えるようだといいます。 そういう時刻にも、またの出会いのあることを切望せざるにはおれません。

天主堂の中に、お参りする人の気持ちを書き綴るノートが、置かれていました。
息子に先立たれた、母と父の言葉がありました。この美しい天主堂に、息子と来れなかったことを悔いていたけれど、思いがけず、ここで息子と会うことができたこと。その喜びと、来年もまた、次の年も・・づっとここに会いにくるであろうことが、記されていました・・。(
2007年11月)














































































同じ平戸地区にある宝亀教会堂を併せて紹介します。
平戸市宝亀町にある平戸で最も古い天主堂(正式には、カトリック宝亀教会)です。
明治18年頃、既にこの地に天主堂があったと言われていますが、今ある天主堂は、明治31年(1898)マタラ神父の指揮のもと、大工、柄本庄一により建設されたもの。
正面から見ると、全体がコンクリート造りのようにも見えますが、正面と玄関空間のみが煉瓦造、建物全体は木造なのです。
側面にバルコニー風の外廊下があり、扉を兼ねた色ガラス窓から出入りできるようになっています。
何処か、南欧の家を思わせる・・屋根は単層構成、平面は三廊式、内部立面は二層構造、天井はリブ・ヴォールト天井。内壁には花を型どった装飾が随所に施され、華やかで心安らぐ。尖頭アーチの窓、当初からと言われる色ガラスも控え目で美しいもの。
天主堂は、海岸から少し入った丘の上にあり、正面にキリスト像が立っています。ここより見渡せば、平戸の水道の島々と海の輝きが一面に拡がっているのが見えます。見事な海の情景です。

国道から天主堂に上る1kほどの道を歩いていると、軽自動車が追い越して行きました。
車内には老夫婦の姿。天主堂に着いて正面の扉に手を掛けたが、閉まっています。素朴で品の良い感じの年配の奥様が、横の扉の前でニッコリ、扉を開けて招いて下さる。
老夫婦は、田平天主堂のすぐ近くに住まれ、毎日のミサに通われているそうです。
「この教会も世界遺産の候補にあがっとると聞いて、今日は車でお参りに来たとです・・」
老夫婦の満ち足りた日々の生活が感じられるようで眩しい。
この水道を隔てた対岸に田平天主堂があります。丘の上から輝く海を眺めておられる老夫婦に遠くから会釈して、丘の道を下りました
。(2008年2月)

































西海の教会堂を訪ねて その1 今村天主堂(福岡県) 

2018-05-01 | 教会・天主堂を訪ねて
「西海の教会堂を訪ねて」の再録
最初は福岡県の今村天主堂から。

福岡県太刀洗町、筑後平野の只中、田園地帯に天主堂の双塔が聳えます。
正式には、大天使聖ミカエル今村カトリック教会。現在の信徒数は996人と言われます。
国内のレンガ造としては、唯一の双塔をもつ天主堂。大正2年の献堂。設計・施工は鉄川与助。
この地方にキリスト教の信仰が芽生えたのは、16世紀後半といわれ、その後の豊臣・徳川政権による厳しい禁令のなかで、少数の信者が秘かに信仰を守り続けたことは、奇跡といわれます。
明治6年の禁令解除後、明治12年、フランス人宣教師コール神父が着任します。現在の教会は、明治41年、本田神父により計画され、ドイツ等諸外国からの寄付や信徒達の労働奉仕により完成したものと伝えられます。

長崎県平戸、五島列島を中心に、この福岡県今村に及ぶ地域に多くの天主堂を建てた鉄川与助のことは、写真家雑賀雄二氏により記されています。
鉄川与助は、明治12年、五島列島の大工の棟梁の家に生れた。小学校を卒業の後、外国人神父の設計したいくつかの天主堂の建設に参画し、腕を磨き、27歳で、家業を相続、鉄川組を編成する。これより、組の棟梁として、雑賀氏の言う、「天主堂建築に憑かれた狂気」を纏い、多くの「光の建築」を建設して行くことになる。その間、長崎で出会ったフランス人ド・ロ神父の建築知識は、与助に大きな力を与えた。神父は与助を「てつ、てつ・・」と呼び、「てつ、悪いことをするなよ。悪い心を起こさなければ、きっといい建物を造ることができる・・」と言うのが常であったという。その言葉とともに、自らの知識の総てを与助に託したのであろう。そして、心と技術練磨の成果、与助の辿り着いた煉瓦造天主堂のピークが、今村天主堂であり、また後に紹介する田平天主堂なのである。
不思議と言えば、そうであるが、天主堂建設一筋の与助は、敬虔な仏教徒を守り、勧められてもカトリックに入信することがなかった。そのことが、信者の反対を呼んだこともあったが、与助の人柄と「鉄川でなければ、天主堂は建てきらん」と言わせる実績がそれを乗り越えさせたという。
晩年、横浜の末子の家に身を寄せた与助は、ある夜、「仏様がここに立っておられる」と言って何度も念仏を唱えたという。その1週間の後、与助は97歳の生涯を閉じた。枕元には、手がけた天主堂の写真が並べてあったという。

仏様に見守られて、天主堂を造った男、鉄川与助の話である。

広い筑後平野の田園を行くと、突然、二つの塔が聳えたつ赤レンガの天主堂が見えてきます。まるで、ヨ-ロッパの田園にでも、迷い込んだと思わせられる一瞬なのです。それは、それは見事な天主堂。設計・施工した鉄川与助のこと、以前から知ってはいました。でも、天主堂に憑かれ、誠の心血を注いだ日本人の造形物を目の当たりにするとその奇跡は、俄かには信じ難い気がしてくるのです。(2007年11月)