長崎の外海(そとめ、現在は長崎市西出津町)には既に紹介した、出津と大野の二つの天主堂があります。そして、出津天主堂に近接した上黒崎郷に、この黒崎天主堂があるのです。
この外海の地は、古くより隠れ切支丹が多く住んだ場所で、大浦天主堂のブチジャン神父は、浦上切支丹発見のその年、慶応元年9月黒崎を訪れ、信徒発見に努め、100軒もの切支丹に洗礼を施したと言われます。
明治30年、ド・ロ神父が土地を購入、天主堂建設を計画しますが、資金難で遅遅として進まず、神父は思いを残して逝去、後任の神父と大工、川原忠蔵に委ねられることになります。計画以来23年、大正9年(1920)竣工、コンバス司教により献堂。
平面は三廊式で、奥行きが非常に長く、建築面積も紐差天主堂に次ぐ広さ。主要部分が煉瓦である天主堂としては最後のもの。(関東大震災での被害に鑑み、この後煉瓦造天主堂は見られなくなります。)内部立面は単層、リブ・ヴォールト天井、円形アーチ窓、床は板敷き。全体としてロマネスク様式と言われます。
小高い天主堂への道を上りきると、優しく手を広げた聖母マリアが迎えてくれます。この地の強い風を配慮して、緩く採られた屋根勾配が作り出す正面の煉瓦壁と白い十字架のコントラストも美しい。内部に入ると、黒っぽい柱、アーチの木と白い漆喰の調和の見事さが強く印象に残ります。
山が海岸まで迫り、耕作地の乏しいこの地。畑や海で働く人の耳に、朝に夕に届く天主堂のアンジェラスの鐘の音が限りない慰めをもたらしていることは、想像に難くありません。天主堂の前の石に座って丘陵をふり仰ぎ、広がる海を見、そう思わせられました。
ここは、また遠藤周作の小説「沈黙」の舞台のモデルともなった場所といいます。遠藤周作文学館の前にある石碑には、こう刻まれているのです。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
(2008年2月)








この外海の地は、古くより隠れ切支丹が多く住んだ場所で、大浦天主堂のブチジャン神父は、浦上切支丹発見のその年、慶応元年9月黒崎を訪れ、信徒発見に努め、100軒もの切支丹に洗礼を施したと言われます。
明治30年、ド・ロ神父が土地を購入、天主堂建設を計画しますが、資金難で遅遅として進まず、神父は思いを残して逝去、後任の神父と大工、川原忠蔵に委ねられることになります。計画以来23年、大正9年(1920)竣工、コンバス司教により献堂。
平面は三廊式で、奥行きが非常に長く、建築面積も紐差天主堂に次ぐ広さ。主要部分が煉瓦である天主堂としては最後のもの。(関東大震災での被害に鑑み、この後煉瓦造天主堂は見られなくなります。)内部立面は単層、リブ・ヴォールト天井、円形アーチ窓、床は板敷き。全体としてロマネスク様式と言われます。
小高い天主堂への道を上りきると、優しく手を広げた聖母マリアが迎えてくれます。この地の強い風を配慮して、緩く採られた屋根勾配が作り出す正面の煉瓦壁と白い十字架のコントラストも美しい。内部に入ると、黒っぽい柱、アーチの木と白い漆喰の調和の見事さが強く印象に残ります。
山が海岸まで迫り、耕作地の乏しいこの地。畑や海で働く人の耳に、朝に夕に届く天主堂のアンジェラスの鐘の音が限りない慰めをもたらしていることは、想像に難くありません。天主堂の前の石に座って丘陵をふり仰ぎ、広がる海を見、そう思わせられました。
ここは、また遠藤周作の小説「沈黙」の舞台のモデルともなった場所といいます。遠藤周作文学館の前にある石碑には、こう刻まれているのです。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
(2008年2月)







