「東三条殿」
上の画像は、人々がいまだ竪穴式の掘っ立て小屋に住んでいた平安時代、都の位の高い貴族の住居として形態が確立された、「寝殿造り」の代表例となる「東三条殿」の俯瞰模型です。
中央正面に高床式の「正殿」(寝殿)が南を向いて建ち、東西の「対屋」(たいのや)、北側に「北対」(きたのたい)と呼ばれる一群の建物を「渡殿」(わたどの)で繋ぎ、さらに両翼に南の庭や池に向かって「渡殿」をせり出し、「釣殿」などを設けていました。
正殿(寝殿)内部のイメージは
こんな感じでしょうか。
「平家」を扱ったTVドラマなどでよく見かける光景です。
約400年続いた平安時代から鎌倉・室町時代へ、言い換えると貴族から武士の社会へと変遷を続けていく過程において、武家の住宅として「書院造り」という形態が確立してきます。
「寝殿造り」では床も板張りが主で、部屋の仕切りとして「簾」(すだれ)や「御簾」(みす)、「屏風」などが使用されましたが、「書院造り」になると、各部屋には畳が敷かれ、「襖」(ふすま)で仕切られるようになります。
「書院造り」の内部のイメージは
こんな感じだと思います。これは掛川城の御殿の座敷の画像です。
この画像では普通「床の間」側にある「書院」が、「床脇」側にあります。
この掛川城の御殿のように、床の間のある和室を「座敷」と言ったりしますが、これは現在でも床の間のある「本床」様式の和室の「定型」です。
この「床の間」にも、様々な形や役割があるのですが、話が長くなりますのでここでは省略します。
この「書院造り」は、当初は武家の生活の「主室」だったものが、次第に応接をする「客間」へと移り変わっていきます。
また、現在の戸建て住宅では、「床の間」、「床脇」、「出書院」の「定型」から、幾分省略して造られたりもします。
外観的には
こんな感じでしょうか。これは大分杵築藩家老、「大原邸」です。江戸期の「書院造り」です。
信長以降に商業が発達してくると、町屋にも武家にも勝るような立派な「書院造り」をもつものも現れてきます。
また、家屋全体から書院造りの格式を外し、風情や趣を感じるように洗練度を増していった「数寄屋」も現れてきます。
これは「数寄屋」建築として有名な「桂離宮」です。
全体では一般的な住宅と規模が違い過ぎますが、床の間、違い棚、縁側や濡れ縁など、細部については現在でも数寄屋建築の原型として参考にされています。
また「茶室」建築では一層その風情や趣を主眼とし、「定型」をくずしたものとなっています。
「茶室」もまた、様々な形態があるのですが、説明をするとなると・・・・とっても長くなるので止めます。
気が向けば書く・・・・かも。
以上から、現代の住宅には「書院造り」の影響はかなり色濃く受け継がれてきていますが、「寝殿造り」の影はあまり見受けられません。
もっとも「書院造り」そのものが「寝殿造り」の発展形でもあるのですが。
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(一部画像はネットより)