京都大学観世能パンフレット恒例企画でもある「師匠インタビュー」を今年はweb上でお届けする。
能を初めて見る人に向けた玄人ならではのメッセージや、今回の観世能《巴》にちなんだ、修羅や執心に関する興味深い考察が含まれている。途中、話が逸れていく部分もあるが、その辺りのライブ感も含めお楽しみください。
1,能を初めて見る人へ
――京都大学観世能では、初めて能を観る方の存在も意識して企画しているのですが、玄人目線から、能を初めて観る方に注目してほしいポイントを挙げるとすればどのようなものでしょうか。
片山伸吾師(以下、片山)「私がいつも初めて見る人に言うのは、分かるということを実感してくださいということをいつも推奨してます。だから分からないから能は面白くないんじゃなくて、いかに分からないかということを1回目は実感して欲しいというのをいつも僕は言ってるので、逆に言うたら分からないことに臆病にならないで欲しいってことを思います。初めて見る人に期待しすぎるというのは非常に難しい。いかに能が難しいかということを、やっぱり能ってわかりやすいもんなんだとか面白いんだとか言うふうなことを、理解してる人は言えるけれど、やっぱり理解できてない人に、それをいきなり説いたところで、すぐに面白いですねっていう反応が返ってくるということは、まずないと思ってます。だから自分がどんなわからないのかっていうことを理解した上で、次のステップに進んで欲しいなっていうのが、能に対する導入であってほしいと僕は思ってます。答えになっていないかもしれません。」
田茂井廣道師(以下、田茂井)「まあ伸吾先生と違う言い方やけど、自分の好きなとこをなんか見つけて欲しいなという。わからないならわからないなりに、あの面が面白いなとか、装束が綺麗だなとか、笛の音色とか鼓の音色が綺麗で楽しいなあとか、謡ってる人の声が大きい声で凄いなあとか、何でもいいから自分の好きなとこを見つけてほしい。逆に言うたら能はいろんな魅力の詰め合わせセットみたいなもんやから、何か響くものがあるんじゃないかと。だからそれこそ、何の説明も受けずに見るコンテンポラリーダンスよりは、絶対能の方が分かりやすいと思うので、何か興味を引くとか絶対あるはずなんで、自分の好きな所をまず見つけてほしい。そこを手がかりにとっかかりに能を見るようになってくれたら嬉しい。全くの初心者の人が一回観ただけで能は多分何もわからんし、そもそも理解するものでもないし。観たことない人は、大概観てもつまらないだろうなという勝手な先入観のもとに見てないことが多いと思うね。その先入観をちょっと置いといて観てほしいなという話。その上でなにがしかあなたの興味が、こう持って帰る部分が何か絶対あるはずだということが言いたい。日本の昔からある演劇だという捉え方だけじゃなく、音楽として捉えてもいいし、いろんなその要素、彫刻に興味がある人は能面が面白いやろうし、建築に興味がある人は能舞台が面白いやろし、音楽に興味がある人は能の囃子や謡が面白いやろし、絵画に興味ある人は扇子が面白いやろし。」
――ありがとうございます。その中でも特に、「今こそ」伝えたい能の面白さというものにはどんなものがあるでしょうか。
片山「リアルタイムにこう伝えたいというような物はあんまり意識したことがないけれども、全てはさっきも田茂井先生が要約して言わはったように、やっぱり攻めどころとしては、能っていうのはもう本当に360度どこからでも入れるものやと思ってるので、そういう自由さみたいなものを持ってる芸能であるということが、やっぱり一番伝えたいことなんじゃないかなと思います。ここを伝えたいとかって言うよりは本当に自分のフリーな頭で目で心で入って欲しいと言うかそういうような、ありそうでない珍しいジャンルなんだよ、というようなことを伝えたいかな。」
2,能《巴》の見どころについて ~能と修羅・執心~
――能《巴》についてよく言われるのは、修羅物(武士を主人公とする能のジャンル)の中で唯一女性が主人公だということですけども・・・
田茂井「これに関してはものすごく違和感があって・・・。そもそも《巴》という曲を修羅物と決めたのは誰?そもそも修羅物って何?便宜的な分類として修羅物というものがあるんやろうけども、修羅者の中で唯一女性という言い方は、すごく片手落ちな気がするんです。さっき言ったように女性であり武者であるというキャラクターが珍しいという言い方は正しいけども、修羅物の中で唯一女性が主人公と言い方は違和感があるんです。逆に問題提起したいねんけど、《巴》って曲は修羅物というよりは執心物やと思うんですよ、ある意味。《玉鬘》とか《浮舟》に近い曲だと思うんですよ。たまたま長刀持って出てきて、たまたま戦う場面がちょっとあるだけで、その例えば修羅物と言われる《屋島》って曲を考えた時に、あれはもうどストライクに戦いを正面に据えている。〈惜しむは名のため、惜しまぬは一命〉って言うじゃないですか。名を汚されるぐらいなら死んだ方がマシやというのが武士の生き様ですよね。あと、修羅道における戦いとかがめっちゃ真正面から描かれてるよね。《屋島》とか《清経》《経正》にしてもそうですよ。戦う理由がちゃんとある。でも《巴》の執心って、義仲の供が出来なかったっていうことでしょ。戦うその武士としての執心じゃなくて、人間としての執心、女としての執心やと思うんですよ。その辺はいわゆる修羅物とは言えないんじゃなかろうかと私は前から思ってまして。だからその修羅物の中で唯一女性が主人公と言い方は一番嫌い。そういう言い方をしてほしくないなと思ってます。確かに番組に組んだら《巴》は多分2番目に来るんでしょう、特に仕舞の曲で選んだりしたら2番目に持ってくのが一番しっくりくる。わかった上で言ってるんですけどね。江戸時代に作った便宜的な分類にあまり引っ張られたくはないなと。」
片山「基本的には、もう今田茂井先生が仰った通りやと思うけども、まあ場面としてね、この人がたまたま戦に関わらざるを得なかった部分の中で、そういう要素がちょっとかすってくるから、そういうジャンルの名前が出てくるんであって、やっぱり恋焦がれてっていうとこらへんの雰囲気の方がクローズアップされるべき事やと思うし。若干話が戻るけれども、《巴》に限らず人物設定だけでも史実に基づいたものがあるっていう曲と、全く一般の人が知らないお話であったりとか、或いはほんまに一から創られたような創り話を初めての人に理解してくれていう曲とでは、もうそれこそ見方っていうのとか、或いは近寄り方みたいなものは随分違うんじゃないかと思うし、そういう意味では《巴》のような前者の曲の方が入りやすいのは間違いがないと思います。能《巴》で描かれているこの巴御前は、一般的に歴史で言われてる巴御前の一応延長線上に創られてるなとは思うけれども、こういうキャラクターがどういう人なのかとかいうことを想像しながらでも話を自分の好きに見ていくと、全く触れたこともないようなキャラクターの話よりもとっつきやすいんじゃないかなとは思う。」
――ありがとうございます。先生が仰ったような、修羅物って何なんだろうっていうのは、解説とかいろいろ考えてたりする時にありました。よく唯一の女修羅だと言われていて、巴御前という女性について、どうやってそのキャラクターを考えるのがいいのかなと思って女性と戦の関係性をちょっと考えていたのですが、そもそも分類として、曲を書いた人が修羅物と思って書いたわけでもないということを聞いて、なるほどと思いました。
田茂井「曲の内容として、修羅物という言葉を使われるとすごく違和感があるというのはさっき言った通りなんですけど、じゃあ実際稽古する上で長刀を振り回すってことで言うたら、これはもう《船弁慶》とか《熊坂》と同じ使い方をするわけだから、そういう部分においては修羅物なんやで、その稽古する分類としてはな。その部分においては。修羅物としての《巴》というのも、半分はそういう意味なんだろうなと。若い時の《巴》やることになって稽古してた時に自分でも考えたし、先輩や先生からも言われたことは《船弁慶》とか《熊坂》みたいに思いっきり長刀を振り回すというのが男っぽいとするならば、《巴》はやっぱりどこか女でないといかん。女らしくありつつ、シャープにキレよく長刀を使うというようなことを意識していたのを思い出した。それは例えば《山姥》でもそうやね。強く舞うけどどっかやっぱり女性なんや、《山姥》はな。その辺は《錦木》とか舞ってるのと《山姥》舞ってるのはやっぱり違うと思う。その辺の微妙な表現の仕方の違いというのは意識した方がいいなと思っているところであります。」
――先ほど田茂井先生が《巴》は執心物なんじゃないかと仰っていましたが、能における執心というのはどのようなものなんでしょうか。ここまで話題が《巴》についてのみになってしまっているので、もしよろしければ、先生の能楽師としての個人的な執心などもお聞かせ願えないでしょうか。
田茂井「巴の執心じゃなくて我々の執心が聞きたかったの?(笑)《巴》という作品についてちょっと思うことがあって、今の設問に多分合わないだろうけど一つ言わせていただくと、あの時代の出来事っていうのは何が正しいか何が史実か何が正解か分からないですけど、いろんな能の台本の元になった先行する話に書かれているものを総合すると、義仲は矢に射られて死んでるんですよね。だから自害はしていない。この間の大河ドラマでもそういう表現で死んでましたよね。であるのにもかかわらず、《巴》の中では自害したことになっている。これは明らかな原作の改編ですよね。でも何故そんなことをしたかというと、本を作る側の人、或いはそれを観るお客さんの側から、木曽義仲も幸せに死なせてやってよ、みたいな願望があって、義仲がちゃんと自害出来ました、という本を敢えて書いたのではないか。たまにドラマとかでもありますやん、本当は違うけどいい結末にして終わらしてる話とか。それが能の場合、《兼平》と《巴》はほぼ同じ本のネタを使ってるのに結末が違う訳ですよね。《兼平》は木曽義仲が矢で射られて死んだことになってて、一方で《巴》は自害を見届けて形見を持って帰ったという話に書かれていて。そもそも同じ木曽義仲が死ぬときに、かたや今井兼平しかいない、かたや巴御前しかいないってありえへんわけで。まぁ敢えて《巴》という曲はそういう作り方をしているのは、ちょっと面白いとこかなという気はしてるんです。で、《巴》を観て分かることは、能を信じるなということ。能の話を元に歴史を理解したら話がややこしくなるので、あくまでフィクションとして観なあかんよって話は、一言付け添えたい。」
片山「今の田茂井さんの話の延長は、能だけでなく芝居でもフィクションのものというのは非常に多いわけであって、特に例えば安宅の関の場面にしても大河ドラマで何回も取り上げられているけれども、やっぱり脚本家・演出家の違いによって安宅の関の処理の仕方っていうのは全然変わってきてるわけね。一般的に、勧進帳を読んで、それで富樫がこれは気づいてるのか気付いてないのかっていうことすらがまず二分される話であるけれども、まあ、これに関しては今一番能の《安宅》なんかが一番ストレートな表現だろうと思うけれども、僕が昔観た、水曜にNHKで時代劇やってた時のがあって・・・」
田茂井「中村吉右衛門さんの武蔵坊弁慶ですか?」
片山「うん。で、児玉清さんが富樫やってたやつ。あれは結局、弁慶がもうこれは無理だと思ったから、富樫に全てのことを話すわけ。ただその上で、我々は頼朝公に対して全くやましい気持ちはありません、っていうことを言うた上で、それを分かったって言って見逃して逃がしてやるっていうシーン。僕、あの演出は初めて見たんだけれども、話の骨格が骨太であったら、どんな表現してもこの演出ええなって思ってしまえるものである、と思ってるわけね。義経の最後なんて、例えば立ち往生で死んだという話もあれば、ジンギスカンになったとかいう話もあるし、これだってもう本当にいろんな解釈の仕方があるわけであって。結局のところ100%の史実みたいなものがわからへんものっていうのは、なんとでも変えられるわけ。でもやっぱり、そこにはある程度の義経・頼朝の関係があってっていうような、最低限の史実に基づいて、そこに肉付けをして物語を面白くしていくっていうのがある。これが能だけでなく芝居の面白さなわけだから、それがいろんな形で描かれているということに、我々はやっぱ楽しむわけであって、逆に言えば能もその芝居の一つであるので、ご多分に漏れずにそういう演出を楽しんでくださいということと僕は思います。」
田茂井「だから今の大河ドラマでも、ものすごい新しい解釈して描いてるところ多いですよね。それは大河だからみんな論じるけども、能でも普通に行われていることであるってことですよね。」
片山「《俊寛》の芝居っていうのも昔観たことがあって、平幹二朗さんと太地喜和子さんね。平幹二朗が俊寛やってて、で、実際に康頼と成経が先に帰るには帰るんだけど、こいつらが実は幕府の回しもんで、はじめから俊寛を嵌めるために派遣された奴だという風な設定で、それを気付いた俊寛が、どうやって島を一人抜け出したのかわからんけども京都へ戻ってきて復讐をする、という話があって面白かったんですよ。(笑)まあ、さっきの話に若干戻るけど、執心っていうのは、いわゆる能における執心物と言われるものもあるかもしれんけど、それ以外の能にしたって大体、何らかの形で不平不満を言うこと自体が、色気があることなんだろうと思うんだよね、《胡蝶》みたいな話でもそうやんか。どうのこうの頼むこと自体も、あれも一つの執心やと思うんだけどな。例えば初番目物なんかはそれからは若干縁遠いとは思うけれども、それでも神様にしたって、いわくありげに帰っていくっていうことは何か訴えたいところっていうのは絶対あると思ってるんで。もう能の作り自体がどっちかと言ったらそうそういうものになってんのちゃうかなとは思いますけどね。こういう恨みつらみの執心というのはとは違うかもしれんけども、骨格としたらそれに全部準ずるものになってるんじゃないかなと思う。」
――ありがとうございます。えっと、ちょっと話がそれたんですけど、この質問ちなみに元々はこ先生方の執心・・・
片山「(笑)まあそそのちょっとその個人的な執心っていうのは、その能という芸能を舞っている自分に対してのってこと?もうちょっとちゃんとうまくやりたいけど、うまくいかないなと思ってるのが常じゃないですか。」
田茂井「うちの子供なんか、今、凄い自己評価高いんですよ。もう無事舞台が終わったらああ上手にできたって喜んでる。けど、僕らの年齢になったら、今日は完璧にできたな、ええ舞台やったなと思うことはまずなくって、あそこがまずかったここがまずかった、あそこはちょっと間違えたとかもっとこうしたら良かったなとか絶えずあるんで、こんだけ稽古したらOKというゴールが全くなくて、なんかこう絶えず落ち着かないんですよね。で、一個終わってもすぐ次の目標がもうちゃんと設定されているから、今日のこれが終わったら明日、明日が終わったら明後日で、能のシテにしても役にしても、この大きい役が終わったら今度はこの役が待ってるとか言って、絶えずこう安住を許されない状態でずっと生きてきているので、やっぱりそれが執心なんじゃないですかね。能楽師である以上の職業的な性というか。また満足したらそこで終わりでしょうし。ああもう今日の能は完璧だったっていう考えになってしまったら、もうあかんやろし。」
片山「これ僕だけかもしれないけど、意外と、自分で今日はちょっとましやったかなと思う時に限って結構批評を受けたりすることがあったりするんですよ。これはプロアマ問わずに楽屋の内でも、一つ二つなんか言われるとか、あるいはあとから諧声会(京大観世会OB会)の人達に言われるとか、そういうことも含めてこっちのやった感触との感覚が違う時っていうのがあって、そういう時が一番気持ち悪いジレンマに陥ることはあるんですね。これはねある意味、人によって勿論ものの見方が違うっていうところもあるんだけれども、やっぱり自分は、その舞台に挑むまでの自分という主観が入った上での延長線上にその舞台があるっていうことで、他の人達はその過程の僕をずっと見てるわけでもないわけであって、言うたら切り取ったところだけを見はることのほうが圧倒的に多いので、そういう意味での流れからの見方っていうのが変わってくるのかなっていうのは、ちょっと思ったりはするけれども。もちろん、良かったかなという時に毎回否定されるわけでなくて、やっぱりほんまに今日は良かったよって言われることもあるわけであって、そういうときはやっぱり素直に嬉しいなと思うわけであって。だからさっきの田茂井さんのような話じゃないけれども、ずっと100%の満足をして終わることっていうのは、まずあり得ない訳なんですよ。だからそれを、次の舞台に、残りの足りなかったパーセンテージを改善したいなというふうな思いで挑む。だけども恐らくそこまでまた到達しないし、到達する部分があったとしたらマイナスになる部分もまた出てくるしっていうようなことの、要するに繰り返しになるのは仕方がない。100%にはならないけども、例えば80%から90%ぐらいまでの中で、1%ずつでもそういう満足度というか充実度みたいなものが増えていけるようにしたいなと思うし、80%だけは絶対割らないようにしようとなってくる。なってこないといけない年齢になっていることも間違いがないなと思ってます。」
――本日はありがとうございました。
能を初めて見る人に向けた玄人ならではのメッセージや、今回の観世能《巴》にちなんだ、修羅や執心に関する興味深い考察が含まれている。途中、話が逸れていく部分もあるが、その辺りのライブ感も含めお楽しみください。
1,能を初めて見る人へ
――京都大学観世能では、初めて能を観る方の存在も意識して企画しているのですが、玄人目線から、能を初めて観る方に注目してほしいポイントを挙げるとすればどのようなものでしょうか。
片山伸吾師(以下、片山)「私がいつも初めて見る人に言うのは、分かるということを実感してくださいということをいつも推奨してます。だから分からないから能は面白くないんじゃなくて、いかに分からないかということを1回目は実感して欲しいというのをいつも僕は言ってるので、逆に言うたら分からないことに臆病にならないで欲しいってことを思います。初めて見る人に期待しすぎるというのは非常に難しい。いかに能が難しいかということを、やっぱり能ってわかりやすいもんなんだとか面白いんだとか言うふうなことを、理解してる人は言えるけれど、やっぱり理解できてない人に、それをいきなり説いたところで、すぐに面白いですねっていう反応が返ってくるということは、まずないと思ってます。だから自分がどんなわからないのかっていうことを理解した上で、次のステップに進んで欲しいなっていうのが、能に対する導入であってほしいと僕は思ってます。答えになっていないかもしれません。」
田茂井廣道師(以下、田茂井)「まあ伸吾先生と違う言い方やけど、自分の好きなとこをなんか見つけて欲しいなという。わからないならわからないなりに、あの面が面白いなとか、装束が綺麗だなとか、笛の音色とか鼓の音色が綺麗で楽しいなあとか、謡ってる人の声が大きい声で凄いなあとか、何でもいいから自分の好きなとこを見つけてほしい。逆に言うたら能はいろんな魅力の詰め合わせセットみたいなもんやから、何か響くものがあるんじゃないかと。だからそれこそ、何の説明も受けずに見るコンテンポラリーダンスよりは、絶対能の方が分かりやすいと思うので、何か興味を引くとか絶対あるはずなんで、自分の好きな所をまず見つけてほしい。そこを手がかりにとっかかりに能を見るようになってくれたら嬉しい。全くの初心者の人が一回観ただけで能は多分何もわからんし、そもそも理解するものでもないし。観たことない人は、大概観てもつまらないだろうなという勝手な先入観のもとに見てないことが多いと思うね。その先入観をちょっと置いといて観てほしいなという話。その上でなにがしかあなたの興味が、こう持って帰る部分が何か絶対あるはずだということが言いたい。日本の昔からある演劇だという捉え方だけじゃなく、音楽として捉えてもいいし、いろんなその要素、彫刻に興味がある人は能面が面白いやろうし、建築に興味がある人は能舞台が面白いやろし、音楽に興味がある人は能の囃子や謡が面白いやろし、絵画に興味ある人は扇子が面白いやろし。」
――ありがとうございます。その中でも特に、「今こそ」伝えたい能の面白さというものにはどんなものがあるでしょうか。
片山「リアルタイムにこう伝えたいというような物はあんまり意識したことがないけれども、全てはさっきも田茂井先生が要約して言わはったように、やっぱり攻めどころとしては、能っていうのはもう本当に360度どこからでも入れるものやと思ってるので、そういう自由さみたいなものを持ってる芸能であるということが、やっぱり一番伝えたいことなんじゃないかなと思います。ここを伝えたいとかって言うよりは本当に自分のフリーな頭で目で心で入って欲しいと言うかそういうような、ありそうでない珍しいジャンルなんだよ、というようなことを伝えたいかな。」
2,能《巴》の見どころについて ~能と修羅・執心~
――能《巴》についてよく言われるのは、修羅物(武士を主人公とする能のジャンル)の中で唯一女性が主人公だということですけども・・・
田茂井「これに関してはものすごく違和感があって・・・。そもそも《巴》という曲を修羅物と決めたのは誰?そもそも修羅物って何?便宜的な分類として修羅物というものがあるんやろうけども、修羅者の中で唯一女性という言い方は、すごく片手落ちな気がするんです。さっき言ったように女性であり武者であるというキャラクターが珍しいという言い方は正しいけども、修羅物の中で唯一女性が主人公と言い方は違和感があるんです。逆に問題提起したいねんけど、《巴》って曲は修羅物というよりは執心物やと思うんですよ、ある意味。《玉鬘》とか《浮舟》に近い曲だと思うんですよ。たまたま長刀持って出てきて、たまたま戦う場面がちょっとあるだけで、その例えば修羅物と言われる《屋島》って曲を考えた時に、あれはもうどストライクに戦いを正面に据えている。〈惜しむは名のため、惜しまぬは一命〉って言うじゃないですか。名を汚されるぐらいなら死んだ方がマシやというのが武士の生き様ですよね。あと、修羅道における戦いとかがめっちゃ真正面から描かれてるよね。《屋島》とか《清経》《経正》にしてもそうですよ。戦う理由がちゃんとある。でも《巴》の執心って、義仲の供が出来なかったっていうことでしょ。戦うその武士としての執心じゃなくて、人間としての執心、女としての執心やと思うんですよ。その辺はいわゆる修羅物とは言えないんじゃなかろうかと私は前から思ってまして。だからその修羅物の中で唯一女性が主人公と言い方は一番嫌い。そういう言い方をしてほしくないなと思ってます。確かに番組に組んだら《巴》は多分2番目に来るんでしょう、特に仕舞の曲で選んだりしたら2番目に持ってくのが一番しっくりくる。わかった上で言ってるんですけどね。江戸時代に作った便宜的な分類にあまり引っ張られたくはないなと。」
片山「基本的には、もう今田茂井先生が仰った通りやと思うけども、まあ場面としてね、この人がたまたま戦に関わらざるを得なかった部分の中で、そういう要素がちょっとかすってくるから、そういうジャンルの名前が出てくるんであって、やっぱり恋焦がれてっていうとこらへんの雰囲気の方がクローズアップされるべき事やと思うし。若干話が戻るけれども、《巴》に限らず人物設定だけでも史実に基づいたものがあるっていう曲と、全く一般の人が知らないお話であったりとか、或いはほんまに一から創られたような創り話を初めての人に理解してくれていう曲とでは、もうそれこそ見方っていうのとか、或いは近寄り方みたいなものは随分違うんじゃないかと思うし、そういう意味では《巴》のような前者の曲の方が入りやすいのは間違いがないと思います。能《巴》で描かれているこの巴御前は、一般的に歴史で言われてる巴御前の一応延長線上に創られてるなとは思うけれども、こういうキャラクターがどういう人なのかとかいうことを想像しながらでも話を自分の好きに見ていくと、全く触れたこともないようなキャラクターの話よりもとっつきやすいんじゃないかなとは思う。」
――ありがとうございます。先生が仰ったような、修羅物って何なんだろうっていうのは、解説とかいろいろ考えてたりする時にありました。よく唯一の女修羅だと言われていて、巴御前という女性について、どうやってそのキャラクターを考えるのがいいのかなと思って女性と戦の関係性をちょっと考えていたのですが、そもそも分類として、曲を書いた人が修羅物と思って書いたわけでもないということを聞いて、なるほどと思いました。
田茂井「曲の内容として、修羅物という言葉を使われるとすごく違和感があるというのはさっき言った通りなんですけど、じゃあ実際稽古する上で長刀を振り回すってことで言うたら、これはもう《船弁慶》とか《熊坂》と同じ使い方をするわけだから、そういう部分においては修羅物なんやで、その稽古する分類としてはな。その部分においては。修羅物としての《巴》というのも、半分はそういう意味なんだろうなと。若い時の《巴》やることになって稽古してた時に自分でも考えたし、先輩や先生からも言われたことは《船弁慶》とか《熊坂》みたいに思いっきり長刀を振り回すというのが男っぽいとするならば、《巴》はやっぱりどこか女でないといかん。女らしくありつつ、シャープにキレよく長刀を使うというようなことを意識していたのを思い出した。それは例えば《山姥》でもそうやね。強く舞うけどどっかやっぱり女性なんや、《山姥》はな。その辺は《錦木》とか舞ってるのと《山姥》舞ってるのはやっぱり違うと思う。その辺の微妙な表現の仕方の違いというのは意識した方がいいなと思っているところであります。」
――先ほど田茂井先生が《巴》は執心物なんじゃないかと仰っていましたが、能における執心というのはどのようなものなんでしょうか。ここまで話題が《巴》についてのみになってしまっているので、もしよろしければ、先生の能楽師としての個人的な執心などもお聞かせ願えないでしょうか。
田茂井「巴の執心じゃなくて我々の執心が聞きたかったの?(笑)《巴》という作品についてちょっと思うことがあって、今の設問に多分合わないだろうけど一つ言わせていただくと、あの時代の出来事っていうのは何が正しいか何が史実か何が正解か分からないですけど、いろんな能の台本の元になった先行する話に書かれているものを総合すると、義仲は矢に射られて死んでるんですよね。だから自害はしていない。この間の大河ドラマでもそういう表現で死んでましたよね。であるのにもかかわらず、《巴》の中では自害したことになっている。これは明らかな原作の改編ですよね。でも何故そんなことをしたかというと、本を作る側の人、或いはそれを観るお客さんの側から、木曽義仲も幸せに死なせてやってよ、みたいな願望があって、義仲がちゃんと自害出来ました、という本を敢えて書いたのではないか。たまにドラマとかでもありますやん、本当は違うけどいい結末にして終わらしてる話とか。それが能の場合、《兼平》と《巴》はほぼ同じ本のネタを使ってるのに結末が違う訳ですよね。《兼平》は木曽義仲が矢で射られて死んだことになってて、一方で《巴》は自害を見届けて形見を持って帰ったという話に書かれていて。そもそも同じ木曽義仲が死ぬときに、かたや今井兼平しかいない、かたや巴御前しかいないってありえへんわけで。まぁ敢えて《巴》という曲はそういう作り方をしているのは、ちょっと面白いとこかなという気はしてるんです。で、《巴》を観て分かることは、能を信じるなということ。能の話を元に歴史を理解したら話がややこしくなるので、あくまでフィクションとして観なあかんよって話は、一言付け添えたい。」
片山「今の田茂井さんの話の延長は、能だけでなく芝居でもフィクションのものというのは非常に多いわけであって、特に例えば安宅の関の場面にしても大河ドラマで何回も取り上げられているけれども、やっぱり脚本家・演出家の違いによって安宅の関の処理の仕方っていうのは全然変わってきてるわけね。一般的に、勧進帳を読んで、それで富樫がこれは気づいてるのか気付いてないのかっていうことすらがまず二分される話であるけれども、まあ、これに関しては今一番能の《安宅》なんかが一番ストレートな表現だろうと思うけれども、僕が昔観た、水曜にNHKで時代劇やってた時のがあって・・・」
田茂井「中村吉右衛門さんの武蔵坊弁慶ですか?」
片山「うん。で、児玉清さんが富樫やってたやつ。あれは結局、弁慶がもうこれは無理だと思ったから、富樫に全てのことを話すわけ。ただその上で、我々は頼朝公に対して全くやましい気持ちはありません、っていうことを言うた上で、それを分かったって言って見逃して逃がしてやるっていうシーン。僕、あの演出は初めて見たんだけれども、話の骨格が骨太であったら、どんな表現してもこの演出ええなって思ってしまえるものである、と思ってるわけね。義経の最後なんて、例えば立ち往生で死んだという話もあれば、ジンギスカンになったとかいう話もあるし、これだってもう本当にいろんな解釈の仕方があるわけであって。結局のところ100%の史実みたいなものがわからへんものっていうのは、なんとでも変えられるわけ。でもやっぱり、そこにはある程度の義経・頼朝の関係があってっていうような、最低限の史実に基づいて、そこに肉付けをして物語を面白くしていくっていうのがある。これが能だけでなく芝居の面白さなわけだから、それがいろんな形で描かれているということに、我々はやっぱ楽しむわけであって、逆に言えば能もその芝居の一つであるので、ご多分に漏れずにそういう演出を楽しんでくださいということと僕は思います。」
田茂井「だから今の大河ドラマでも、ものすごい新しい解釈して描いてるところ多いですよね。それは大河だからみんな論じるけども、能でも普通に行われていることであるってことですよね。」
片山「《俊寛》の芝居っていうのも昔観たことがあって、平幹二朗さんと太地喜和子さんね。平幹二朗が俊寛やってて、で、実際に康頼と成経が先に帰るには帰るんだけど、こいつらが実は幕府の回しもんで、はじめから俊寛を嵌めるために派遣された奴だという風な設定で、それを気付いた俊寛が、どうやって島を一人抜け出したのかわからんけども京都へ戻ってきて復讐をする、という話があって面白かったんですよ。(笑)まあ、さっきの話に若干戻るけど、執心っていうのは、いわゆる能における執心物と言われるものもあるかもしれんけど、それ以外の能にしたって大体、何らかの形で不平不満を言うこと自体が、色気があることなんだろうと思うんだよね、《胡蝶》みたいな話でもそうやんか。どうのこうの頼むこと自体も、あれも一つの執心やと思うんだけどな。例えば初番目物なんかはそれからは若干縁遠いとは思うけれども、それでも神様にしたって、いわくありげに帰っていくっていうことは何か訴えたいところっていうのは絶対あると思ってるんで。もう能の作り自体がどっちかと言ったらそうそういうものになってんのちゃうかなとは思いますけどね。こういう恨みつらみの執心というのはとは違うかもしれんけども、骨格としたらそれに全部準ずるものになってるんじゃないかなと思う。」
――ありがとうございます。えっと、ちょっと話がそれたんですけど、この質問ちなみに元々はこ先生方の執心・・・
片山「(笑)まあそそのちょっとその個人的な執心っていうのは、その能という芸能を舞っている自分に対してのってこと?もうちょっとちゃんとうまくやりたいけど、うまくいかないなと思ってるのが常じゃないですか。」
田茂井「うちの子供なんか、今、凄い自己評価高いんですよ。もう無事舞台が終わったらああ上手にできたって喜んでる。けど、僕らの年齢になったら、今日は完璧にできたな、ええ舞台やったなと思うことはまずなくって、あそこがまずかったここがまずかった、あそこはちょっと間違えたとかもっとこうしたら良かったなとか絶えずあるんで、こんだけ稽古したらOKというゴールが全くなくて、なんかこう絶えず落ち着かないんですよね。で、一個終わってもすぐ次の目標がもうちゃんと設定されているから、今日のこれが終わったら明日、明日が終わったら明後日で、能のシテにしても役にしても、この大きい役が終わったら今度はこの役が待ってるとか言って、絶えずこう安住を許されない状態でずっと生きてきているので、やっぱりそれが執心なんじゃないですかね。能楽師である以上の職業的な性というか。また満足したらそこで終わりでしょうし。ああもう今日の能は完璧だったっていう考えになってしまったら、もうあかんやろし。」
片山「これ僕だけかもしれないけど、意外と、自分で今日はちょっとましやったかなと思う時に限って結構批評を受けたりすることがあったりするんですよ。これはプロアマ問わずに楽屋の内でも、一つ二つなんか言われるとか、あるいはあとから諧声会(京大観世会OB会)の人達に言われるとか、そういうことも含めてこっちのやった感触との感覚が違う時っていうのがあって、そういう時が一番気持ち悪いジレンマに陥ることはあるんですね。これはねある意味、人によって勿論ものの見方が違うっていうところもあるんだけれども、やっぱり自分は、その舞台に挑むまでの自分という主観が入った上での延長線上にその舞台があるっていうことで、他の人達はその過程の僕をずっと見てるわけでもないわけであって、言うたら切り取ったところだけを見はることのほうが圧倒的に多いので、そういう意味での流れからの見方っていうのが変わってくるのかなっていうのは、ちょっと思ったりはするけれども。もちろん、良かったかなという時に毎回否定されるわけでなくて、やっぱりほんまに今日は良かったよって言われることもあるわけであって、そういうときはやっぱり素直に嬉しいなと思うわけであって。だからさっきの田茂井さんのような話じゃないけれども、ずっと100%の満足をして終わることっていうのは、まずあり得ない訳なんですよ。だからそれを、次の舞台に、残りの足りなかったパーセンテージを改善したいなというふうな思いで挑む。だけども恐らくそこまでまた到達しないし、到達する部分があったとしたらマイナスになる部分もまた出てくるしっていうようなことの、要するに繰り返しになるのは仕方がない。100%にはならないけども、例えば80%から90%ぐらいまでの中で、1%ずつでもそういう満足度というか充実度みたいなものが増えていけるようにしたいなと思うし、80%だけは絶対割らないようにしようとなってくる。なってこないといけない年齢になっていることも間違いがないなと思ってます。」
――本日はありがとうございました。