京大観世会blog

観世会のゆかいな日常です。

ここ数年の歩み⑤ 2021年4月~11月

2022-03-07 19:57:01 | Weblog
〇2021年4月 新歓

1月半ばから出ていた緊急事態宣言が2月末で解除されたことで、3月から大学の規制も緩和されboxが使えるようになりました。
(この頃、緊急事態宣言の発出に応じて活動場所の学生集会所box(部室)は閉鎖されていました。)
2020年4月からオンライン形式に限定されてきた新歓も、限定的ではあれ2021年4月から1年ぶりに対面方式が可能になりました。

昨年思い通りに新歓できなかった分、今期こそは!と意気込んだ2021年新歓。
4月中旬まではある程度例年通りに進みました。
のべ10数名の新入生が興味をもってくださり、稽古見学や観能ツアー(一緒に能の公演を見に行く)に来てくれました。
さあ、これからさらに魅力を伝えていこうと思った矢先の4月22日。
3回目の緊急事態宣言発出前日に学生集会所は再び閉鎖され、活動自体できなくなってしまいました。

結果、新歓期の新入部員は0。
2年前に18人いた部員も、7人までに減っていました。




〇2021年7月3日 三大学合同発表会@大江能楽堂

一方で、明るい話題もありました。
昨年度は中止を余儀なくされた三大学合同発表会を開催できたのです!
コロナ禍始まって以来、他団体との交流は固く禁じられていたので、他大学さんとの合同舞台はこれが初めてでした。

合同ハイキングや、後席(舞台後の宴会)など親睦を深める行事の開催は叶いませんでしたが、
まずは共に舞台をできたということで、大きな一歩だったと思います。




〇2021年9月4日~7日 夏合宿@千鳥荘

夏合宿も何とか復活できました。
合宿とは言っても、感染リスクを最小限にするため、一人一部屋・黙食・宴会禁止を徹底して行ったので本当に修行みたいな感じでしたね💦
例年夏合宿はちょっと遠出をして宿泊するところですが、時勢を鑑み、滋賀県大津市和邇浜の千鳥荘での開催となりました。

普段の稽古では月に4回ある師匠稽古のほかは学生同士で教えあうという形をとっていますが、
合宿では経験を積んだOBの皆さんにも指導していただけるので、非常に鍛えられます。
普段の稽古で緩んだ心を引き締める良い機会です。

また今回は3日目に師匠がお越しくださいました。
夏合宿の師匠稽古では能装束を持ってきてくださり、観世能で能を舞うシテ(主役)は本番に近い装束を着て稽古することができます。
これも時間にゆとりのある合宿ならではのありがたい稽古です。

「同じ釜の飯を食う」という言葉もある通り、一定期間同じところで生活すると不思議と一体感が出るもので、
やはり合宿でしか得られないものがあります。
今後も何とか合宿は続けていきたいですね。




〇2021年9月19日 京都大学観世会90周年記念 諧声会自演会@京都観世会館

2021年は京都大学観世会が設立されて90周年のメモリアルイヤーでした。
観世会のOB会である諧声会では、10年ごとのメモリアルイヤーに記念の自演会とプロの能公演、そして祝賀会を開催されています。
今回はコロナ禍ということで祝賀会は見送られましたが、諧声会自演会と能公演(観世会を指導していただいている片山伸吾師の能《求塚》他)が行われ、現役部員も自演会に出演させていただきました。




〇2021年11月19日 第26回京都大学観世能

どんな舞台であれ、観客の存在というのは非常に大きなものがあります。
舞台上で何かをしたとき、受け止めてくれる観客がいてもらえるかどうかで、演技演奏の質は変わってくると思います。
ましてや能は舞台上と観客が双方向のやり取りをする中で成立する性格を持ちます。

2020年、観世能開催を模索したとき、無観客であれば開催できる可能性がありました。
しかし我々が考え、提示した能の形というものを受け取っていただけるお客様があっての観世能。
無観客という選択肢はあり得ないと思い、中止せざるを得ませんでした。
予定していた能《鵺》はある程度稽古を進めていましたので翌年に持ち越しとなり、秋の稽古会で素謡、新年会で袴半能の形で出すことで理解を深めていきました。

2021年になっても感染拡大状況は悪化する一方でしたが、
関係者のみならOKだということで、大学からの許可を得て何とか有観客で開催することができました。

何のために能をするのか、能をすることで何を伝えたいのか。これほど考え続けた日々はありません。
1時間半の演目のために1年半を稽古に費やすことをあほらしく思うことも時にはありました。
そんな時支えてくれたのも《鵺》という曲でした。

《鵺》は夜な夜な帝を苦しめた「鵺」という怪物が、殺され流れ着いた浜辺で尚も成仏できず苦しむさまを描いた曲です。
シテは冒頭このように謡います。
「悲しきかなや身は籠鳥 心を知れば盲亀の浮木 ただ闇中に埋もれ木の さらば埋もれも果てずして亡心何に残るらん
 浮き沈む 涙の波のうつほ舟 こがれて堪えぬ古を 偲び果つべき隙ぞなき」
(わが身はこの世に留め置かれ自由が利かない。必死で救いを求めても得られない。昔が懐かしくて仕方ないが、苦しみ多くゆっくり思い出すこともできない)といった感じでしょうか。
コロナ禍に生きる人々には誰しもこういう「不自由さ」「思い通りにいかなかったこと」「やりたくてもできなかったこと」があると思い、これほど時代に合った曲を表現できる喜びというのが、1年半《鵺》へのやる気を維持してくれました。

折しも当日は部分月食の日。食の最大のころに鵺を上演するという趣向に図らずもなってしまいました。
鵺の直前に会場に来られた方は、ちょうど東の空に月食中の月を見ながらいらっしゃったようで、鵺へのイメージが膨らんだとのこと。
天に助けていただけたのかもしれません。

舞の出来としてはお世辞にも褒められたものではありませんでしたが、長く同じ曲に取り組み考え続けたことで、見えてきたことがあるように思います。
それを今後の糧にすべく、精進していきます。


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