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 ♪♪♪ H.Tokuda

思誠寮の思い出(5)

2017-01-30 23:07:41 | 思誠寮の思い出


 寮生の野蛮な行動はストームに限られたことではない。「寮雨」もそのひとつと言うべきだろう。こちらの方は僕も常習者だった。
 寮雨というのは、二階の窓から立ち小便をすることだ。一階の便所まで足を運ぶのが面倒ということから始まった習慣だと思われるが、一度やってみるとこれが大変気分のよいもので、とりわけ晴れた夜、星空を仰ぎながら寮雨を降らせることは、たまらない快感だった。このため、一階に住んでいるのに、わざわざ二階まで上がってきて寮雨を行なう者もあったくらいだ。
 また冬の日、雪の積もった地面をめがけてしっとりと寮雨を降らせることにも、非常に感慨深いものがあった。自分の体内から排泄された小便が、一筋の放物線を描いて真っ白な雪の中にじょろじょろと落ちていく。雪はわずかに湯気を立てながら円錐状に融かされ、その周囲がじわじわと黄色に染められていく。こうした漠然たる快感は、人間の持つ本能に由来するものではないかとも思う。
 寮雨は通常、二階の廊下の窓から行なわれた。室内の窓からやると、階下に住む寮生が臭い思いをしなければならないからだ。ストームでは平気で他人に迷惑をかけるくせに、こういう変なところで紳士協定のようなものが成り立っている。なかには、寮雨を始める前に、わざわざ大声で宣告をする者もあった。「南寮〇号ヤマザキ、寮雨!」それからじょろじょろだ。言うまでもなく、こういう声はたいてい南寮の方から聞こえてきた。
 廊下の窓の下には、適当な間隔でビールのケースや何かが置かれていて、その上に立って寮雨をする。寮雨に使われる窓の下では、窒素成分が豊富なためか、雑草の生育がきわだって旺盛だった。酔っぱらって寮雨をしている途中に、二階の窓から転落した人もいるらしい。幸い大きな怪我はなかったそうだが、想像するとおぞましい光景だ。

 軟派学生の僕にしても、思誠寮の生活は楽しいものに違いなかった。高校生時代、アナキストたちのコミューン生活に興味を抱いたことがあったが、考えてみれば寮で行なわれていた共同生活の様式は、そういったものとたいして違わなかったのではないかと思う。例えば、誰かがテレビを手に入れると皆がその部屋に集まり、誰かが買ってきた週刊誌は1ヶ月くらいかけて寮内のあちらこちらを巡回した。誰かがパチンコで稼いできたあぶく銭は麻雀の勝敗によって寮内で再配分され、多くの金銭を集めた者は、食料品や電化製品などの物品を購入することでその恩恵を皆にフィードバックした。
 あるいは、それはアナキズムというよりも、原始共産社会に近いものだと考えた方がよいのかもしれない。そこには煩わしい思想信条やイデオロギーといったことはまったく関与していない。ただ日々の生活のために様々な物を共有しあっているだけだ。
 レコードやマンガ本などは、どれが誰の所有物なのかまるでわからなかった。ある部屋に設置されていたオーディオセットは、アンプとスピーカーとプレイヤーとカセットデッキの所有者が全部別々だった。誰一人として、独力で音を鳴らすことができない。自転車についても、駐輪場に置いてあるものを皆が適当に乗って行ったから、朝寝坊をすると廃品同然のオンボロ車しか残っていないというありさまだった。

 こうした共有関係は、いつ誰が決めたというわけでもなく、ごく自然のうちに維持されていた。さらに言えば、机や布団などのあらゆる付属品を含め、部屋そのものが全体の共有物であったと考えることもできる。寮は原則的に二人部屋だったが、一人がガールフレンドを連れ込んできた場合などは、同室者は気を利かせて(と言うか、いるにいられず)、他の部屋へと避難した。テレビや麻雀卓などが置いてある部屋はいつも大勢の溜り場となっていたが、例えばその部屋の住人が静かに眠りたいと思ったようなときには、どこか空いている部屋を見つけて一夜の寝床とした。その布団の主が部屋に帰ってきたときには、「あっ、誰か寝てる」と言って、また別の寝床を捜しまわる始末だ。
 僕が中学生の頃に買ったChakiのギターはどこかへ行ってしまい、代わりに誰の物だか分からないギターが今も手元にある。そういえば、就職活動に着て行くスーツを何人かで共有している人々もいたなぁ。何とも不思議な世界である。
(続く)

思誠寮の思い出(4)

2017-01-30 22:58:42 | 思誠寮の思い出


 寮の建物は南、中、北の三棟に分かれ、寮生のタイプもそれぞれの棟ごとに特徴があった。半年に一回部屋替えが行われ、個人の希望が尊重されるから、同類同士が集まって住むことになる。
 大酒を飲んで夜中に暴れまわるような、いわゆるバンカラ学生は南寮に結集し、非常にむさ苦しい居住空間を形成していた。北寮生は常に南寮に対して対抗意識を持っていたが、南寮生ほど野蛮ではなく、スポーツマンタイプの熱血派が多かった。日頃のエネルギーでは明らかに南寮が優っていたが、いざ球技の試合や駅伝なんかをやると、北寮のほうが強かった。南寮生は「前哨戦」と称するコンパで酔いつぶれてしまい、本番では力を出せないままに終わってしまうのだ。
 僕が入ったのは中寮で、南寮とは対照的に軟弱な学生が多かった。もちろん中寮生のなかにも酒を飲んで騒ぎまわる学生は何人かいたが、それはあくまでも個人的行動の範囲を超えない。中寮全体としては、南寮、北寮に比べると、はるかにおとなしかった。酒や山登りよりも音楽やマンガを愛好する者が多く、文学談義などを好み、服装のセンスも比較的まともだ。つまりは、普通の学生にもっとも近い人種と考えればよい。部屋にガールフレンドを連れて来たりするのも、たいていは中寮生に限られていた。
 中寮生のこうした体質は、南北寮生から軟弱者と非難された。最初中寮に入った新入生の中でも、こういうムードに批判的な硬派諸君は、半年後の部屋替えで南寮か北寮へ移っていった。逆に南寮からは、その伝統的体質になじまない人々が中寮へ亡命してきた。こうして各寮のカラーはますます濃厚なものとなっていくのである。
 僕は最初から中寮に入り、寮を出るまでずっとそこをねぐらとした。新入生の部屋割については、寮委員が集まり、入寮願書に記載された内容などを参考に決めていたのだが、趣味:ギター、愛読書:谷川俊太郎の詩集、寮生活への希望:プライバシーの尊重、などと書かれたものを中寮に配属するのは、まあ誰が考えても妥当なところだろう。

 時おり部屋の外を嵐のような行列が通り抜けていった。酔っ払いの大群が寮歌を歌いながら裸で寮中の廊下を練り歩き、各部屋の扉を蹴飛ばしたり、バケツで互いの体に水をかけあったりしているのだ。これは「ストーム」と呼ばれる伝統行事で、南寮コンパのフィナーレでは必ず行なわれた。ストームが過ぎ去った後には、廊下中が水浸しになり、窓ガラスが何枚も割れ、ケガ人が出ることも珍しくなかった。たまに中寮でも小集団によるストームが行なわれることはあったが、南寮の廊下を通過するときには、「おい、元気がないぞ!」「もっとしっかりやれ!」などとヤジを飛ばされるのが落ちだった。

 写真は寮祭でのファイヤーストームの光景。さすがに野外なので全裸ではなく、みな赤フンを締めている。
「デカンショ~、デカンショ~で半年暮らす。ヨイヨイ! あとの半年は寝て暮らす。ヨーイ、ヨーイ、デカンショ~」こんな歌を歌いながら延々と踊り続ける。「デカンショ」とはデカルト、カント、ショーペンハウエルを一緒にして縮めたものだとの説もあるが、定かではない。
(続く)

思誠寮の思い出(3)

2017-01-30 22:53:05 | 思誠寮の思い出


 思誠寮に入ってまっ先に驚いたのは、上級生が僕の部屋へタバコを貰いにやって来たことだ。噂にたがわぬオンボロ寮で、まさに貧乏学生の溜り場みたいなものだったから、僕としてもちょっとやそっとのことでは驚かなかったと思う。その先輩が所望したのは普通のタバコではなく、灰皿に残された吸い殻、いわゆるシケモクというやつだったのだ。
「やあ、こんばんわ。シケモクない?」彼は部屋に入るなり言った。僕は最初、彼の意とするところがよくわからなかった。それで仕方なしに、黙ったまま軽く会釈をした。
「おおっ! あるじゃん、あるじゃん」彼は折りたたみ式テーブルの上の灰皿に目を落し、まるで金の延べ棒でも発見したような声を出した。
「突然じゃまして悪かったね。きみがタバコを吸ってたって聞いたもんだからさ」彼はそう言いながら、灰皿の中から何本かの吸い殻をつまみ出し、灰を丁寧に払いのけてから、テーブルの上に順序正しく並べた。僕は返すべき言葉がうまく見つからず、黙ったまま先輩の作業を眺めていた。
「これ貰って行っていいかな?」彼はテーブルの上に並べられた十本ほどのシケモクを手で示した。
「べつにいいですけど、・・・でも、タバコだったらこれをどうぞ」僕はシャツのポケットからセブンスターのパッケージを取りだして、先輩に差し出した。
「えっ、いいのか? 悪いねえ」彼はたいそう喜んだ様子でパッケージを受け取り、ひどく貧乏臭い手付きで一本のタバコを取り出した。僕は自慢のジッポーで先輩のタバコに火をつけ、それから自分もタバコをくわえた。
「俺は〇〇って言うんだ。またよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」僕は新入生らしく、あらたまって挨拶をした。でも、〇〇先輩の「よろしく頼む」というのは、またシケモクをくれという意味だったのだと思う。
 その後〇〇先輩とは親しくなったが、彼は定食屋へ入るとまだ食器が下げられてないテーブルに座り、前の客が残していったキャベツを食ったりラーメンの汁をすすったりした。一緒にいるだけでかなり恥ずかしい。

 寮生はみんな質素な生活をしていたが、その表情は妙に明るく、まるで貧乏生活を楽しんでいるといった感じだった。六畳の二人部屋、火災防止のためストーブは禁止され、電気コタツだけで信州の冬を越すという寒々しい生活。夜中に大鍋でインスタントラーメンを作り、大勢が寄ってたかって直接鍋に箸を突っ込んで食うという凄まじい食生活。
 当時は生活様式の高級化が急速に進み、バス・トイレ・冷暖房完備のマンションで暮らす学生も少なくなかった。都会派の学生たちは「ポパイ」や「ホットドッグ・プレス」といった雑誌を愛読し、最新のファッションに身を包んで、おしゃれなレストランなんかに出入りするようになった。思誠寮生たちは、そうした贅沢を敵とみなし、学生社会にまで浸透し始めたプチ・ブルジョア的な生活スタイルを嫌った。
 歴史から取り残された孤城を守り続けるがごとく、硬派寮生たちは古い寮歌を歌いながら一升瓶を回し飲みした。一方、軟派寮生はギターを弾いてフォークソングを歌ったり、「神田川」の歌詞みたいに洗面器を抱えて彼女と銭湯へ出掛けたりした。やっていることはずいぶん違うが、貧乏くさいという点では両者共通していたのである。
(続く)

思誠寮の思い出(2)

2017-01-30 22:44:09 | 思誠寮の思い出

 寮祭開催告知のため、情宣行動隊というものが編成された。高下駄にマント、法被など、こんなレトロな格好で寮歌を歌いながら街中を練り歩く。ここは松本城。当然ながら大量の酒が入っているので、勢い余って堀に落ちる者や自ら飛び込む者もあった。
 駅や大学、商店街などのポイントでは隊長が巻物を広げて、口上を述べる。いついつから寮祭を開催するので見に来てくれという内容なのだが、これが古文調でいかにも仰々しい。
 寮歌を歌う時にも、前口上があった。
   アルペンの風 颯々として
   吹き来たり吹き去る 信濃の高原に
   東に千山の雲を覆い
   西に万岳の雪をいただきて
   今 誠寮の歌 高らかに鳴るを聞き給え
   大信州大学 大思誠寮寮歌
   あゝ青春
   アイン ツバイ ドライ!
(解説)
・学校名、寮名にそれぞれ「大」が付いているのは、誇大妄想の表れと思われる。
・「あゝ青春」は寮歌の題名。
・「アイン ツバイ ドライ」は、ドイツ語で「1、2、3」の意味。4から先をドイツ語で言える寮生は数少ない。
 
 このような前口上をリーダー格の者が朗々と述べ、それからやっと歌が始まる。何とも仰々しい。
 まったく前時代的な光景だが、こういうのは一種のパフォーマンスであり、寮祭の内容は今様なものとなっていた。演劇や音楽会、演芸大会などが開かれ、各部屋ごとに模擬店を出した。僕は音楽会でギターやバンジョーを弾いてたし、女装コンテストなんて企画もあった(僕も出場したことがある)。模擬店ではハンバーガー、クレープ、カクテルなどを振る舞う者もあった。
 広島県出身の某君がカキ鍋を出すというので、期待して食べに行ったら、鍋の中で茹でられていたのは果物の柿だったという逸話もある。
 寮祭には一般学生やOBのほか、近所の住人がたくさん見に来られた。寮生がよく出入りする店の主からは、カンパと称して酒や金品が届けられた。松本の町には「学生を支援しよう」という有難い雰囲気があったが、これも旧制高等学校時代からの名残だと思う。
 夜中に大騒ぎしながら町を練り歩いたり、酔った勢いでバス停を担いで帰ってきたりしても、「学生さんのすることは仕方ないねぇ」と笑って許してもらえた。おそらく旧制松本高等学校の先輩たちは、もっとひどいことをしていたのだろう。
(続く)

思誠寮の思い出(1)

2017-01-30 22:20:59 | 思誠寮の思い出

 薄っすら雪をかぶった建物と郵便配達人。まるで古い映画の1コマみたいな風景だ。これは僕が大学生活を送った寮の玄関。いつもこういうふうに開けっ放しだった。用心が悪いように思うが、こんな貧乏学生のねぐらにはコソ泥も入ってこない。昼間は学校へ行かずにゴロゴロしている寮生がいっぱいいるし、夜には麻雀や酒やなんかで、たいてい誰かは起きている。鍵なんて掛けなくてもセキュリティは万全だ。(笑)

 思誠寮は旧制松本高等学校の寮として大正時代に建設され、その後大きな改築などは施されず、僕らが暮らした時代にまで至る。まあ、歴史的建造物のようなものである。
 廊下に置かれた太鼓は「召し太鼓」と呼ばれ、寮生に集合を掛けるとき打ち鳴らされる。普段は食事の支度が出来た合図として炊事夫さんが叩くので、「飯太鼓」とも表記した。比較的豪華なメニューの時には派手な太鼓の音が鳴り響き、粗食の時には申し訳なさそうな感じで控えめに叩かれた。太鼓の横を走っているのは、腹を空かせて食堂へ急ぐ寮生の姿と思われる。

 古いのは建物ばかりでなく、もちろん寮生気質というものも脈々と受け継がれていた。それは確かに古臭いことには違いないが、一般に想像されるように規律や上下関係を重んじるというものではなく、むしろ自由奔放な性質のものだった。そもそも、この寮のカラーは大正デモクラシーの時代に形作られているのだ。旧制時代には北杜夫氏がこの寮に居住し、その頃の様子は「どくとるマンボウ青春記」に著されている。
 寮生たちは朴歯の高下駄を履き、黒いマントをまとい、太鼓を打ち鳴らして古い寮歌をがなり立てた。コンパのフィナーレには「ストーム」と称して、赤ふん一丁で列をなし、水を掛け合いながら寮の廊下を練り歩いた。

 昭和五十年代にして、こうしたバンカラ学生群が生存していたという事実は、何も知らずに入寮してきた新入生たちを大いに驚かせた。僕にとってそれは、シーラカンスの発見にも匹敵するものだった。僕はその化石生物的学生たちの本拠地に身を置きながらも、いま一つ熱し切れない中途半端な状況で、独自の軟派学生生活を展開していた。僕と同類の現代風学生も少なからず存在したが、硬派・軟派の両者はおおむね良好な棲み分け関係を築きながら、寮での生活を共有した。方法論やスタイルの違いこそあっても、学生生活を思い切りエンジョイしようという点では共通していたのである。
(続く)