薄っすら雪をかぶった建物と郵便配達人。まるで古い映画の1コマみたいな風景だ。これは僕が大学生活を送った寮の玄関。いつもこういうふうに開けっ放しだった。用心が悪いように思うが、こんな貧乏学生のねぐらにはコソ泥も入ってこない。昼間は学校へ行かずにゴロゴロしている寮生がいっぱいいるし、夜には麻雀や酒やなんかで、たいてい誰かは起きている。鍵なんて掛けなくてもセキュリティは万全だ。(笑)
思誠寮は旧制松本高等学校の寮として大正時代に建設され、その後大きな改築などは施されず、僕らが暮らした時代にまで至る。まあ、歴史的建造物のようなものである。
廊下に置かれた太鼓は「召し太鼓」と呼ばれ、寮生に集合を掛けるとき打ち鳴らされる。普段は食事の支度が出来た合図として炊事夫さんが叩くので、「飯太鼓」とも表記した。比較的豪華なメニューの時には派手な太鼓の音が鳴り響き、粗食の時には申し訳なさそうな感じで控えめに叩かれた。太鼓の横を走っているのは、腹を空かせて食堂へ急ぐ寮生の姿と思われる。
古いのは建物ばかりでなく、もちろん寮生気質というものも脈々と受け継がれていた。それは確かに古臭いことには違いないが、一般に想像されるように規律や上下関係を重んじるというものではなく、むしろ自由奔放な性質のものだった。そもそも、この寮のカラーは大正デモクラシーの時代に形作られているのだ。旧制時代には北杜夫氏がこの寮に居住し、その頃の様子は「どくとるマンボウ青春記」に著されている。
寮生たちは朴歯の高下駄を履き、黒いマントをまとい、太鼓を打ち鳴らして古い寮歌をがなり立てた。コンパのフィナーレには「ストーム」と称して、赤ふん一丁で列をなし、水を掛け合いながら寮の廊下を練り歩いた。
昭和五十年代にして、こうしたバンカラ学生群が生存していたという事実は、何も知らずに入寮してきた新入生たちを大いに驚かせた。僕にとってそれは、シーラカンスの発見にも匹敵するものだった。僕はその化石生物的学生たちの本拠地に身を置きながらも、いま一つ熱し切れない中途半端な状況で、独自の軟派学生生活を展開していた。僕と同類の現代風学生も少なからず存在したが、硬派・軟派の両者はおおむね良好な棲み分け関係を築きながら、寮での生活を共有した。方法論やスタイルの違いこそあっても、学生生活を思い切りエンジョイしようという点では共通していたのである。
(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます