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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

日本橋四の部地区連  東日本橋三丁目橘町会

2015-05-10 20:00:06 | 宮入順

 【町会の特徴】

東日本橋三丁目橘町会は古くは橘町と呼ばれた地域で、昭和46年の住居表示実施で現町名になりました。

江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺がありました。

この西本願寺別院は元和7年(16213月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、と呼ばれたと言います。

明暦の大火で、お堂の建物は延焼し跡形もなくなり、築地に移転復興しました。

 

その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683)の邸地移転に伴って、町地になりました。

西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町と付けたと言われています。

 

当町会は繊維関係の問屋が多く、今でも着物が似合う粋な旦那衆が町会を支えています。

町会の該当区域は、東日本橋三丁目全域となっています。 

【神輿の特徴】

東日本橋三丁目橘町会の神輿は、昭和42年に新たに町会有志にて寄贈されたものです。

紺に染め抜いた青伴天の青年部とグレーの伴天の一般担ぎ衆、総勢150名により宮入を行います。


江戸神社奉賛会

2015-05-10 19:20:05 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸神社奉賛会は旧神田市場の関係者で構成されています。

 

江戸神社は、江戸最古の神社で永く神田多町に青果市場があった江戸時代から市場関係者の間で守られてきた神社です。市場が秋葉原から平成元年に大田に移転してからも今日に続いています。

 

現在、神田神社の摂社として境内のお社にお神輿が祀られています。

  

【神輿の特徴】

当神社の神輿は「青果市場の神輿」、「神田市場の千貫神輿」と呼ばれ、約200人で担がれる大神輿です。

戦後昭和33年、当時の技術を結集して浅草小鳥町の鹿野喜平が製作しました。他に類を見ない金物関係は大阪造幣局にいた名錺師阿部長次郎が製作しました。神輿の静の美しさと、宮入時の動の華やかな姿を是非ご覧ください。

 


秋葉原東部地区連合 神田和泉町町会

2015-05-10 19:05:20 | 宮入順

【町会の特徴】

1657年(明暦3年)、大火の後に伊勢津藩の藤堂和泉守の大邸宅と出羽鶴岡藩の酒井左衛門尉をはじめとした幕府諸役人の武家屋敷が建ち並んだこの地は、町の大部分を占めた藤堂和泉守の邸にちなんで「和泉町」と名付けられました。1868年(明治元年)、東京医学所が置かれ、後に大学東校、東京医学校等に改称され、現在の東京大学医学部の発祥の地となりました。また、1909年(明治42年)現在の三井記念病院の前身である三井慈善病院が設立されました。広大な和泉公園は1975年(昭和50年)農林省東京食料事務所跡地を4年間に及ぶ住民運動により獲得し、地域の憩いの場として整備したものです。

 

【神輿の特徴】

神田和泉町町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。

その大きさたるや、25寸、重さは500キロにも達します!

当町会を愛して止まない担ぎ手350〜400人で宮入を行います。

必見ポイントは社殿前です。

前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。

是非ご堪能ください。

 


秋葉原東部地区連合 神田佐久二平河町会

2015-05-10 18:51:44 | 宮入順

【町会の特徴】

1744年(延享元年)、八代将軍吉宗の命で作られた天文台が置かれたこの地は、日本橋本材木町の材木商人であった佐久間平八が移住したことに由来。1727年(享保12年)、麹町平河町一丁目界隈が延焼した際、この焼け跡を山王日除地にし、その代替地として神田に与えられたのが神田平河町で、当時は「麹町平河町一丁目代地」といいました。1911年(明治44年)、神田佐久間町二丁目はいったん神田を取って、佐久間町二丁目と改称。同じく、神田平河町も平河町に改称しましたが、1947年(昭和22年)、昔ながらの神田佐久間町二丁目と神田平河町に名称を戻し、現在の神田佐久二平河町会となりました。

 

【神輿の特徴】

神田佐久二平河町会の神輿は昭和27年に名工、後藤 直光により製作され、一本彫りの繊細な彫刻が特徴であり、4年前に修復されました。是非ご注目ください。


秋葉原東部地区連合 神田佐久間町三丁目町会

2015-05-10 18:28:18 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸時代、秋田藩主佐竹右京大夫や、坂倉主計頭の大名屋敷があり、町人地と混在して活気ある町でした。町名は1744年(延享元年)来、日本橋本材木町の材木商人であった佐久間平八が移住したことに由来します。1868年の(明治元年)明治維新の後、坂倉家の屋敷が取り払われ、1902年(明治35年)、東京市立佐久間尋常小学校が開校しましたが、1931年(昭和6年)、総武線開通工事により校舎が取り払われ、佐久間公園になりました。1923年(大正12年)の関東大震災時、住民総出のバケツリレーで延焼を防ぎ町を守った伝説は有名。また、公園内にはラジオ体操会発祥の地を記した記念碑があります。

 

【神輿の特徴】

神田佐久間町三丁目町会の神輿は、昭和32年に後藤直光の手により生み落とされました。

豪快で、元気いっぱいの担ぎっぷり、ご注目ください!