
この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。「佐久【さく】」という名前は、佐久間平八【さくまへいはち】という材木商が住んでいたことから生まれました。江戸時代初期の慶長【けいちょう】年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。
江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しましたが、昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に戻ました。
一方、神田平河町【かんだひらかわちょう】も、防災と深いかかわりをもった町です。享保【きょうほう】12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】が火除地【ひよけち】に設けられました。そこに住んでいた人々のための代地【だいち】が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】代地と呼ばれました。その後、明治2年に神田平河町【かんだひらかわちょう】 、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町【かんだひらかわちょう】と改名しました。
町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。
当町会の神輿は昭和27年に後藤直光【ごとう なおみつ】により製作されました。今年新たに修復されての宮入です。
御注目下さい。