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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

外神田地区連合 外神田四丁目田代会

2015-05-10 10:13:43 | 宮入順

 

【町会の特徴】

田代町は、江戸時代中頃までは武家屋敷でしたが、寛政5年(1793)の大火で神田川周辺にあった町が燃え、町の一部が火除地となりました。

 

翌年、その町に住んでいた人々が、御成道の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。

当初は「神代町」としましたが、あまりにも名前が立派すぎるので「神田代地」を省略して、「田代町」と改めました。

 

町内には花房稲荷が祀られています。

現在の社は戦火により消失してしまい、戦後に地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。

現在も4月にお祭りをしており、田代町の人々が大切に守っています。

 

町会の該当区域は外神田四丁目2〜6番地となっています。

 

【神輿の特徴】

外神田四丁目田代会の神輿は、昭和35年に生まれました。

他の神輿に比べ、引き締まっている作りです。

是非ご注目下さい。

 

 

外神田地区連合 神田五軒町々会

2015-05-10 10:03:41 | 宮入順

 

【町会の特徴】

「五軒町」の名前の由来は、江戸時代、この界隈に、上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷と、5つの大名屋敷が並んでいたことから名付けられました。

 

明治維新の時に政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、明治5年(1872)に、この地は神田五軒町と名付けられました。

その後、人家が立ち並ぶようになり、てんぷらの店や寄席などができ、町は賑わいました。

 

明治44年(1911)には、町名から神田が外され「五軒町」となりましたが、昭和22年に神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻りました。

そして、昭和39年、住居表示の実施に伴って外神田六丁目となりました。

 

町会の該当区域は、外神田六丁目3番地56号、4〜16番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

神田五軒町々会の神輿は、昭和52年に作られました。

屋根唐破風型白木造り総彫刻です。

重さ約300キロ、台座23寸(約70cm)、高さ68寸(約200cm・鳳凰を含む)、幅47寸(約150cm)、親棒の長さ16尺(約500cm)という大神輿です。

数年前、約30年振りに総仕上げ直しをし、美しく輝いた神輿へと生まれ変わりました。

担ぎ手総数は350名余りです。

 

 

 

外神田地区連合 神田旅籠町会

2015-05-10 09:54:36 | 宮入順

 

【町会の特徴】

神田旅籠町は、昌平橋の北側にあたり、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになりました。

「日光御成街道」は、江戸幕府の徳川将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。

こうした重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。

そして「旅籠」とは、江戸時代、旅人を宿泊させ食事を提供させることを生業とする家のことであり、旅籠屋の略でした。

旅籠という言葉自体はもともとは、旅の時に馬の飼料を入れる籠の意味が、旅人の食物雑品を入れる籠の意味になり、さらに転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋というようになりました。

 

また、この土地には有名な寺子屋の、「芳林堂」がありました。

芳林堂は、有馬藩士金子政成が安政4年(1857)に開業しました。

その後、火災にあって旅籠町に移ってきました。

芳林小学校(現在の昌平小学校)の名前も、この芳林堂に由来していると言われています。

現在この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。

 

町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5〜7号、3番地、4番地1〜8号、18〜23号、5〜9番地及び外神田三丁目11213番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

神田旅籠町会の神輿は昭和33年に南部屋五郎右衛門によって作られました。

平成17313日に神輿を、25寸から27寸へと大きくし、ますます迫力を増しました。

総勢300名の担ぎ手により、宮入りします。

 

 

 

外神田地区連合 外神田三丁目金澤会

2015-05-10 09:46:08 | 宮入順

 

【町会の特徴】

かつて金澤町と呼ばれていたこの地域は、神田明神下にあり、御成街道に沿った町屋でした。

1657年の明暦の大火以前は東本願寺の境内地でした。

その後は加賀金澤藩前田家の中屋敷となりました。

加賀藩は、藩主の居城が現在の金沢(石川県)にあったことから「金澤藩」ともいわれていました。

つまり、外神田三丁目に「金澤」という町名が伝わるのは、かつて加賀藩の藩邸があったからであると言われています。

 

前田家の上屋敷は、天和2年(1682)の火事で類焼し、幕府に没収されます。

その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金沢という町名はそのまま受け継がれていきました。

 

商人や職人の町として発展を続けた金澤町には、多種多様な店があったようで、文政7年(1824)に書かれた「江戸買物独案内」には、「やけど妙薬」で知られた田村万兵衛、「鼻紙袋」や「煙草入れ」を扱う津久田屋、瀬戸物問屋である玉川卯兵衛といった商人たちの名前が記載されています。

 

町会の該当区域は、外神田三丁目23411番地となっています。

【神輿の特徴】

外神田三丁目金澤会の神輿は昭和36年に宮本重義により作られました。美しい神輿、迫力の担ぎぶりをご堪能下さい。

 

 


外神田地区連合 外神田四丁目松富会

2015-05-10 09:42:58 | 宮入順

 

【町会の特徴】

江戸時代の外神田四丁目周辺には武家屋敷以外に、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目」、「松下町三丁目」、「永富町三丁目」と呼ばれる町屋がありました。

明治2年(1869)、これら三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。

この名前は、松下町と永富町から一文字ずつ取ってつくられたものです。

 

町の真ん中を走る現在の中央通りにあたる道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに通る道でもありました。

毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成と呼ばれるようになりました。


因みに、将軍御成の当日は、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです

昭和40年頃までは町内には稲倉魂命を祀る三社稲荷がありました。

御利益が多い神社で、講武所の芸者の参詣は頻繁にあったと言われています。

町会の該当区域は外神田四丁目6〜13番地となっています。 

 

【神輿の特徴】

外神田四丁目松富会の神輿は、昭和53年に宮本重義の手により作られました。迫力のある宮入を是非ご注目下さい。