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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

外神田地区連合 外神田五丁目元佐久町会

2015-05-10 09:30:22 | 宮入順

 

【町会の特徴】

元佐久町も栄町と同じように小笠原藩邸でした。

明治3年に秋葉原の火除け地となる際に、神田佐久間町一丁目及び神田柳屋敷の代地として小笠原家屋敷跡に移転してきました。

 

この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。

「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するために付けられました。

 

明治44年(1911)に、元佐久間町と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。

 

町会の該当区域は、外神田五丁目25番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

外神田五丁目元佐久町会の神輿は昭和5年に宮惣の手により生まれたものです。歴史ある神輿とともに、宮入れします。

 

 

 


外神田地区連合 外神田一丁目万世橋町会

2015-05-10 09:22:56 | 宮入順

 

【町会の特徴】

外神田一丁目の一帯は、神田川に架かる橋の名に因んで万世橋と呼ばれています。

万世橋の名前は、明治6年(1873)、昌平橋よりもやや下流に架けられた「萬世橋」に由来します。

完成時は「よろずよばし」と命名されていましたが、いつしか「まんせいばし」という音読みが一般化しました。

また、万世橋は日本初の石橋でもあり、眼鏡橋と呼ばれたりもしています。

 

当時、武家地だった神田仲町と神田花房町は、享保年間(1716〜1736)に町屋となり、商人や職人が移り住むようになりました。

また、神田花田町は、明治2年(1869)、武家地だった花房町代地と須田町代地を合わせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。

地元の万世橋町会は、戦後、その3つの町にまたがって成立した町です。

昭和39年(1964)、これら3つの町は外神田一丁目に変わり、現在に至っています。

 

電気街として有名な秋葉原もこの万世橋地区内にあり、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う問屋や小売店がありました。

 

町会の該当地域は、JR秋葉原電気街口周辺の、外神田一丁目1番地8〜14号、2番地、4番地9〜17号、10〜17番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

外神田一丁目万世橋町会の御輿は、昭和35年、宮本重義の手によるものです。

神田祭においても、比較的大きな神輿となっています。ぜひご堪能ください。

総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。

 


外神田地区連合 神田末広町会

2015-05-10 09:13:53 | 宮入順

【町会の特徴】

末広町は、明治2年(1869)に「神田平永町・神田山本町・柳原岩井町・麹町平川町の各代地」七カ所を合併し、設立しました。

さらに十数件の武家地を吸収してその町域を大きくしました。

 

末広町と五軒町(現在の末広町交差点付近)にあった堀家の辻番所は、

御府内随一との評判でした。

辻番と言えば、川柳に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概、老人と決まっていました。

しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸の心得のあるものを厳選して選考し、

日々稽古を怠る事がなかったと言われています。

事件があれば六尺棒で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。

 

また、明治元年(1868)5月の新政府軍と彰義隊との戦い(上野戦争)の始まりは、

この辻番所前で開かれたものである、と言われています。

 

町会の該当区域は、外神田三丁目5〜10番地、及び14〜16番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

大正15年、神田名匠、「だし鉄」作の神輿です。

大きさは23寸です。

屋根金梨造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。

 
 

外神田地区連合 神臺会

2015-05-10 08:55:22 | 宮入順

【町会の特徴】

神臺会は神田神社の男坂下に位置します。
昭和39年に町名変更が実施されるまでは「台所町」と呼ばれていました。
明暦の大火(1657)までは日蓮宗の幸龍寺や曹洞宗の万隆寺の寺領でしたが、明暦の大火後、江戸幕府の火災対策の政策により、かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新政策に沿って、城内の御台所御賄方の武家屋敷として再建されました。
御台所町という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。 

さらに寛文12年(1672)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあり、町内に「町屋」が作られました。
以降、御台所町は町人の町として発展を遂げていきました。

神田明神に近いという事から、「神田明神下御台所町」と長い名前が付いていましたが、明治5年(1872)に「神田台所町」となりました。

「神臺会」の名称は明治27年(1894)、日清戦争の年に町名として始まりました。日露戦争戦勝記念の「石橋」山車には提灯が飾られており、上の提灯の文字は「神臺会」、下の提灯の文字は「臺所町」となっています。さらに、戦後すぐの昭和21年製の太鼓には「神臺会」の文字が彫られており、現在もこの名称を町会名として使用しています。今年で119年の歴史となります。

神臺会は、現在も神田明神のお膝元としての誇りを強く持っている町会です。

町会の該当区域は、外神田二丁目5番地1~12号に加え、7番地1号・4号を除く、6~9番地となっています。

 

【神輿の特徴】

外神田連合の一番神輿です。
神社拝殿、前石段を舞台に奉納舞を行います。
その直後、神台会の大小の神輿の宮入参拝を行います。
宮入後は外神田各町会の神酒所を神輿を担いで訪問し、交流を深めます。
その後、正午過ぎには秋葉原駅前中央通り「おまつり広場」へと場所を移し、外神田連合12基、岩本町東神田連合3基と大田市場大神輿と協力して、神輿天国を盛り上げていきます。