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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

岩本町・東神田地区連合 神田東紺町会

2015-05-10 11:01:50 | 宮入順

 

【町会の特徴】

江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。

このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。

 

明治2年(1869)にこれらの町が合併して「東紺屋町」となりました。

「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。

 

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。

その後、昭和40年の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となりました。

 

竹内町会長を中心に、非常に仲良くまとまった町会です。宮入の中心は青年部(総勢28名)と温かく見守ってくれる役員の方々!忘れちゃいけないのが何と言っても縁の下の力持ちの婦人部の方々!!東紺で一番盛り上がる日。それは今日の宮入です!!

 

組頭の建てた自慢の御仮屋も見に来てください。

 

当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1〜4番地となっています。

 

【神輿の特徴】

神田東紺町会の神輿は浅子周慶により造られました。

大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。

そして、なんといっても青年部の、五分田柄東紺の扇子、首にかけた掛け守り、そして頭に巻いた東紺の手拭、等に注目して御覧下さい。

町会の仲の良さは神田一!仲の良い担ぎっぷりを是非ご覧下さい!


日本橋一の部地区連合 室町一丁目会

2015-05-10 10:50:01 | 宮入順

 

【町会の特徴】

室町一丁目は、昭和7年に、「旧室町一丁目・二丁目」等の町が合併して、室町一丁目となりました。

日本橋魚河岸、呉服屋、両替店が栄え、現在にまで至り、老舗となっている店も多く、商業・金融の中心地となっています。

宝町一丁目内にある「三越」は、延宝元年(1673)に越後屋号で旧本町一丁目に店を出し、「店前現銀無掛値」の看板を掲げ、現金による正札販売商法と、切り売り商法の新商法によって今日になすまでとなりました。 

明治37年「三井の越後屋」を二字につめて「三越」と改めたと言われています。 

遠方のため神社への宮入は行っていなせんでしたが、平成17年より、町会長を中心とした日本橋会の皆様の協力によって宮入ができるようになりました。

 

町会の該当区域は、日本橋室町一丁目全域となっています。

 

【神輿の特徴】

総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。大神輿は昭和13年、後藤 直光作です。

大きさは2尺8寸、平屋台、三方胴羽目です。

扇木や厚手の鋳物、彫金で細工され、木彫を施さない神輿です。

鳳凰の翼が大きく、首が長いことも特徴の一つです。

 

宮入の後、境内右側にある水神の山車の前で、魚河岸会の皆様へあいさつのみこし振りを行うのでそちらもご注目ください。


外神田町会連合 宮本町会

2015-05-10 10:37:23 | 宮入順

【町会の特徴】

宮本町は、明治2年(1869)に神田明神門前町となった後、明治5年(1872)には境内などの社地を編入して、神田宮本町となりました。

江戸総鎮守のお膝元で生活することを誇りとする住民の心意気が形になった名前です。

 

宮本町には、明治10年(1877)創業、開花三十六席にも選ばれた「開花楼」がありました。

ここは海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人、粋人が集う場所として知られ、東京名所図会など、多くの書物に残されています。

また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店や古書市、見本市等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。

 

明治の国分学者、福羽美静が開花楼の全盛を詠んだ詩を紹介します。

「にぎわしき花の都のその花を見れば心もまた開けつつ」

 

町会の該当区域は、外神田二丁目16〜19番地、71号・4号の一部となっています。

 

【神輿の特徴】

宮本町会の神輿は、子供神輿として出します。

本年中は神輿を使用して宮入いたします。

昭和35年、宮惣の製作によるものです。迫力があり、熱気あふれる、力強い担ぎっぷりにご注目下さい。

 

外神田地区連合 神田同朋町会

2015-05-10 10:31:25 | 宮入順

【町会の特徴】

同朋町会は、明暦の大火以前までは寺地でしたが、明暦の大火(1657)後に寺地を外に移し、幕府同朋衆の屋敷としました。

 

「同朋」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務、茶事を務めた僧体の小史のことを言います。

 

江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣・刀剣の上げ下げ・茶弁当の世話をし、将軍外出の際には、長刀を持って従っていました。

 

平成83月に新調した浅草の宮本卯之助商店作の御神輿で同年5月の神田明神例大祭に参加しました。

 

町会の該当区域は、外神田二丁目10〜15番地、6丁目12番地及び3番地3478号となっています。

 

【神輿の特徴】

神田同朋町会の神輿は平成8年に新しく作り直しました。

宮本卯之助の作品です。

美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情になっています。


外神田地区連合 外神田五丁目栄町会

2015-05-10 10:20:38 | 宮入順

 

【町会の特徴】

外神田五丁目栄町はかつて、神田栄町と呼ばれ、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、この一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷だった記録が残っています。

 

この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。

明治2年(186912月、神田相生町から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。

そこで明治新政府は、神田竹町、神田平河町、神田松永町などに、防火のための火除地を設置し、鎮火神社(秋葉神社)を建立しました。

それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町となりました。

「栄」という名前は、新たに繁栄するように、との願いから付けられたと言います。

 

明治44年(1911)、町名は神田を取り、栄町と改称しますが、昭和22年に、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。

そして昭和39年、住居表示の実施で神田亀住町や神田元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。

 

町会の該当区域は、外神田五丁目16番地となっています。

 

【神輿の特徴】

外神田五丁目栄町会の神輿は昭和54年製作のものです。

 

皆さまの心に強く迫る宮入りをします。