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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

中神田十三ヶ町連合 司町一丁目町会

2015-05-10 14:37:44 | 宮入順

 

【町会の特徴】

司町一丁目町会は、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷、製本などの職人たちが多く住む町でした。特に建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てることができた言われるほどです。また、商店も大きな店ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。

 

明治に入ると、「三河町二丁目、皆川町、蝋燭町等」に再編されました。

さらに関東大震災後に4つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。

 

司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。

 

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。

 

町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司町一丁目町会」として存続しています。今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会です。

 

町会の該当区域は内神田一丁目9〜11・16〜18番地及び内神田二丁目10〜12・15番地となっています。

 

【神輿の特徴】

司町一丁目町会の神輿は、昭和31年、宮本重義の手により作られました。大きさは台輪寸法2尺2寸です。蕨手の所に、銀の龍をあしらった優美な神輿です。

担ぎ手からは「楽しく担げる神輿です」と言われるような、町会と同じように人情味溢れる神輿です。また、数年前には子ども神輿と山車を修復しました。特に山車は昭和9年の大祭に皇太子殿下ご生誕を記念して作られて以来の大修復となりました。

 

 


中神田十三ヶ町連合 多町一丁目町会

2015-05-10 14:17:03 | 宮入順

【町会の特徴】

多町一丁目は江戸時代には、神田堅大工町と呼ばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、と言われています。

また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋でもありました。

町火消しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で作ったものであり、「いろは四十七組」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたと言われています。

 

町会の道路下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されています。

この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。

 

町会の該当区域は内神田三丁目7・12〜14・17・18・22・23番地となっています。

【神輿の特徴】

多町一丁目町会の神輿は昭和27年、宮本重義の作品です。大きさは2尺あり、白木造りとなっています。

熱気と興奮の宮入巡行は必見です。

 

 


中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会

2015-05-10 13:54:57 | 宮入順

 

【町会の特徴】

多町二丁目は神田の中でも古い町のひとつとで、徳川家康が江戸に幕府を開いた直後の慶長11年の起立と伝えられていますので、今年で410年を迎えます。

 

また江戸幕府の御用を預かる青物市場の中心地として栄えていたことでも有名です。

この市場は昭和3年に秋葉原に移転するまで約270年の間、続いていました。

 

当初は、一、二丁目に分かれていましたが、昭和8年の住居表示変更で合併されて、全てが多町二丁目になりました。

 

昔の多町二丁目は「鍾馗」の山車人形を持っている町会としても有名でした。この人形は神田祭に出される人形の中でも一番大きくて、約4メートルの高さがあり、神田名物の一つに数えられるほどでした。

 

【神輿の特徴】

多町二丁目町会の現在の神輿は、昭和54年に新しく作り直されました。

大きさは3尺になり、胴が締り、大きな作りとなっています。

昔の神輿は大正9年に製作したもので、関東大震災前の貴重な神輿として、現在は東京国立博物館に現存、保管されています。 

 
 
 
 

将門塚保存会神輿 大手・丸の内町会

2015-05-10 13:44:09 | 宮入順

 

【町会の特徴】

江戸時代、この界隈は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷が立ち並んでいました。

また、この地には神田明神の創祀の場所である、「将門塚」がありました。

 

ここ丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治23年(1890)になります。

陸軍が一帯を三菱社に払い下げて以後、三菱社が大規模な再開発をしました。

地域内の道路整備を行い、続々と洋風の建築物を建てていきました。

赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったと言われています。

 

さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。

第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げたのです。

 

このような歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一三丁目という町名が誕生してからのことです。

そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。

 

当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。

 

当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。

 

【神輿の特徴】

平将門公を思わせる勇壮な姿を、とくと御覧下さい。

この神輿は、史蹟将門塚保存会の参与法人会員を務め、大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡の保存・伝統文化の継承による町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟将門塚保存会に寄贈された神輿です。

一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」で台輪35寸の大神輿です。

当町会内で働く男女、総勢1250名の担ぎ手により宮入りします。

日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝の担ぎで魅せます!

 

 


神田中央連合 錦連合(錦二神輿・錦三神輿)

2015-05-10 13:29:55 | 宮入順

【町会の特徴】

錦連合は「錦町二丁目町会、錦町三丁目町会、錦町三丁目第一町会、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。

 

 「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色」または「二色小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町」と改められました。

 

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。

 

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「東京外国語大学」や「学習院」、「共立女子大学」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

 

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目135番地となっています。

 

【神輿の特徴】

錦連合は毎回、900~1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。宮入の熱気もさる事ながら、午後2時頃から予定されています、神田中央連合の駿河台下交差点での神輿振りも必見です。