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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

岩本町・東神田地区連合 岩本町三丁目町会

2013-05-12 12:51:49 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 岩本町三丁目町会の宮入です。

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は「旧岩本町と東龍閑町と東松下町の一部」が合併して、昭和8年に誕生しました。

江戸時代の初め、この界隈は沼地で、雁渊や笹原と呼ばれていました。

この地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。
江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。
さらに神田川の南側の柳原土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。

その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
明治14年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる古着の大市場が開設されます。
「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒を連ねていたといわれています。

その後は、戦前、戦後を通じ既製服の一大集散地となり、全国のデパートや小売店にはこの町から出荷された商品が並びました。

現在は数こそ少なくなってきましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いてきたのは繊維業者であり、岩本町は日本の繊維業界とともに発展してきた町です。 

町会の該当区域は、岩本町三丁目及び神田岩本町全域となっています。

【神輿の特徴】

岩本町三丁目町会の神輿は、東京浅草の当代一級の神輿師、宮本 重義 氏の第一号特注品です。
昭和28年5月に完成しました。台輪幅は2尺5寸、高さは7尺8寸になります。
作風は唐破風漆塗神社型、鳥居他、昇り龍、降り龍彫刻、極彩色仕様となっています。
豪華絢爛で神田明神氏子百八ヶ町でも最高の傑作となっていると自負しています。


岩本町・東神田地区連合 東神田豊島町会

2013-05-12 12:33:03 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 東神田豊島町会の宮入です。

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東神田豊島町は、かつて豊島町と呼ばれていました。

豊島という町名の由来は、町奉行が「この一帯が属している豊島郡には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という町名があってもいいだろう」として名付けられたという説があります。

江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁」や、髪油として美男葛の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁」と呼ばれた通りもありました。
そのほか、銘茶屋【めいちゃや】、菓子屋、水油【みずあぶら】仲買【なかがい】等がありました。

明治になると、旅館、砂糖商等が集まり、大変賑わっていました。
その賑わいが現在にも続いていて、大変活気のある町会となっています。

当町会の該当区域は、東神田一丁目6~11番地、東神田二丁目1~7番地、岩本町三丁目6番地8~13号、14号の一部、11番1・2・3号の一部となっています。

【神輿の特徴】

当町会の神輿は浅子 周慶によって造られました。
台座2尺9寸となっています。
濃緑色加工を施した渋めの大鳥(鳳凰)に特徴があります。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。


岩本町・東神田地区連合 岩本町一丁目町会

2013-05-12 12:07:57 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 岩本町一丁目町会の宮入です。

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岩本町一丁目は、かつて東福田町、材木町、東今川町、亀井町の4つの町に分かれていました。

これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。かつて町内を流れていた「竜閑川」は終戦後に三度埋められ、現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。
現在は千代田区と中央区の区境となっています。

町の北側を通る「金物通り」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。

町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

岩本町一丁目町会の神輿は昭和31年、市川行徳の神輿師、十四代浅子 周慶により造られました。
台輪寸法2尺3寸の大神輿で、黒漆塗りの屋根には神田明神の御神紋が光ります。
約300人の担ぎ手により宮入りを行います。
宮入後、秋葉原中央通り「おまつり広場」に参加します。


岩本町・東神田地区連合 神田大和町会

2013-05-12 12:01:35 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 神田大和町会の宮入です。

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この地が「大和町」と呼ばれるようになったのは、享保年間(1716~1736)の頃です。
内神田にあった大和町の人々が移ってきたため、大和町代地となりました。

幕末のころには、この町から隣の東竜閑町にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほどが軒【のき】をつらね、ずいぶん賑わっていたと言われています。

またここには、蝋燭や、べっこう細工、箪笥などをつくる職人も多く住んでいました。

明治2年(1869)、大和町代地は合併して、神田大和町となりました。

明治44年(1911)に町名は大和町と変わりますが、昭和22年、神田区と麹町区が合併し千代田区になると、ふたたび神田大和町に戻ります。

そして昭和40年、住居表示の実施により周辺の町の一部と合併して岩本町二丁目になりました。

町会の該当区域は、岩本町二丁目13~17番地、19番地となっています。

【神輿の特徴】

神田大和町会の神輿は、昭和13年に浅草、宮本 重義により作られました。
台座2尺、唐破風屋根、金梨地塗り、二重勾欄神輿。
屋根裏以下総白木造りで、塗り神輿に比べ、大変に凝った彫刻を数多く施しています。
戦災も乗り越え神田でも数少ない貴重な神輿です。
町内一丸となって宮入れを行います。