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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

岩本町・東神田地区連合 神田東紺町会

2013-05-12 11:46:50 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 神田東紺町会の宮入です。

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江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。
このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目 、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷 、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。

明治2年(1869)にこれらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。
その後、昭和40年の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町 、神田大和町 、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となりました。

竹内町会長を中心に、非常に仲良くまとまった町会です。宮入の中心は青年部(総勢28名)と温かく見守ってくれる役員の方々!忘れちゃいけないのが何と言っても縁の下の力持ちの婦人部の方々!!東紺で一番盛り上がる日。それは今日の宮入です!!

組頭の建てた自慢の御仮屋も見に来てください。

当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1~4番地となっています。

【神輿の特徴】

神田東紺町会の神輿は浅子 周慶により造られました。
大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。
そして、なんといっても青年部の ”帯”、五分田柄 東紺の”扇子”、首にかけた”掛け守り”、そして頭に巻いた”東紺の手拭”、等に注目して御覧下さい。
町会の仲の良さは神田一!仲の良い担ぎっぷりを是非ご覧下さい!


岩本町・東神田地区連合 神田松枝町会

2013-05-12 11:40:38 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

岩本町・東神田地区連合 神田松枝町会の宮入です。

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昭和40年代のはじめまで、この界隈は神田松枝町と呼ばれていました。
名前の由来は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女の名に由来するという説があります。

旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池がありました。

桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていました。
「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前です。

景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていました。

その一人である伊東玄朴ら蘭方医達が、安政5年(1858)、種痘館を設立しました。

このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点であると言われています。

町会の該当区域は、岩本町二丁目5~7番地、10~12番地となっています。

【神輿の特徴】

神田松枝町会は神輿とともに、山車にも御注目下さい。
山車は唯一宮入りする羽衣の山車です。
昭和13年に製作された極彩色の神輿とともに75年振りに新調された能衣装をつけ、宮入りする姿をぜひご期待下さい。
なお、人形の面も近年若き能面作家により新調された作品です。


日本橋一の部地区連合 室町一丁目会

2013-05-12 11:24:54 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

日本橋一の部地区連合 室町一丁目会の宮入です。

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室町一丁目は、昭和7年に、「旧室町一丁目・二丁目」等の町が合併して、室町一丁目となりました。

日本橋魚河岸、呉服屋、両替店が栄え、現在にまで至り、老舗となっている店も多く、商業・金融の中心地となっています。

宝町一丁目内にある「三越」は、延宝元年(1673)に越後屋号で旧本町一丁目に店を出し、「店前現銀無掛値 」の看板を掲げ、現金による正札販売商法と、切り売り商法の新商法によって今日になすまでとなりました。

明治37年「三井の越後屋」を二字につめて「三越」と改めたと言われています。

町会の該当区域は、日本橋室町一丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。大神輿は昭和13年、後藤 直光作です。
大きさは2尺8寸、平屋台、三方胴羽目です。
扇木や厚手の鋳物、彫金で細工され、木彫を施さない神輿です。
鳳凰の翼が大きく、首が長いことも特徴の一つです。


外神田地区連合 外神田五丁目元佐久町会

2013-05-12 11:12:02 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

外神田地区連合 外神田五丁目元佐久町会の宮入です。

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元佐久町も栄町と同じように小笠原藩邸でした。

明治3年に秋葉原の火除け地となる際に、神田佐久間町一丁目及び神田柳屋敷の代地として小笠原家屋敷跡に移転してきました。

この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。
「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するために付けられました。

明治44年(1911)に、元佐久間町と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。

町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。

【神輿の特徴】

外神田五丁目元佐久町会の神輿は昭和5年に宮惣の手により生まれたものです。歴史ある神輿とともに、宮入れします。


外神田地区連合 外神田四丁目松富会

2013-05-12 11:05:29 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

外神田地区連合 外神田四丁目松富会の宮入です。

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江戸時代の外神田四丁目周辺には武家屋敷以外に、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目」、「松下町三丁目」、「永富町三丁目」と呼ばれる町屋がありました。

明治2年(1869)、これら三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。

この名前は、松下町【まつしたちょう】と永富町【ながとみちょう】から一文字ずつ取ってつくられたものです。

町の真ん中を走る現在の中央通りにあたる道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに通る道でもありました。

特に毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成道と呼ばれるようになりました。
因みに、将軍御成の当日は、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです。

昭和40年頃までは町内には稲倉魂命を祀る三社稲荷がありました。
御利益が多い神社で、講武所の芸者の参詣は頻繁にあったと言われています。

町会の該当区域は外神田四丁目6~13番地となっています。

【神輿の特徴】

外神田四丁目松富会の神輿は、昭和53年に宮本 重義の手により作られました。迫力のある宮入を是非ご注目下さい。