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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

中神田十三ヶ町連合 淡路町一丁目町会

2013-05-12 14:39:14 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 淡路町一丁目町会の宮入です。

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江戸時代の初め、この地には「西福寺」「西念寺」という、将軍家と関係が深い寺院が、観音坂【かんのんざか】を下りきったあたりに位置していました。

西福寺は慶長3年(1598)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。

神田淡路町一丁目と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。
この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」に由来しています。

当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。

町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。

【神輿の特徴】

淡路町一丁目町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義により作られました。小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。


中神田十三ヶ町連合 須田町中部町会

2013-05-12 14:34:10 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 須田町中部町会の宮入です。

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須田町中部町会は「神田青物市場」発祥の地として有名です。

水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、15,000坪(約4万9500㎡)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。

江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北に、平成2年には大田区へと移転しました。
それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。

須田町は江戸から続く、活気あふれる商いの伝統が今だに息づく町です。

町会の該当区域は須田町一丁目2~14番地までの偶数番地となっています。

【神輿の特徴】

須田町中部町会の神輿は元祖女神輿です。
昭和52年から女性のみの女神輿を続けてきました。
女性ならではのきらびやかな神輿担ぎをどうぞ、御覧下さい。


中神田十三ヶ町連合 司一町会

2013-05-12 14:29:26 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 司一町会の宮入です。

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司一町会は、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。
時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷、製本などの職人たちが多く住む町でした。
特に建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てることができた言われるほどです。
また、商店も大きな店ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。

明治に入ると、「三河町二丁目、皆川町、蝋燭町等」に再編されました。
さらに関東大震災後に4つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。

司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司【の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。

町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司一町会」として存続しています。
今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会です。

町会の該当区域は内神田一丁目9~11・16~18番地及び内神田二丁目10~12・15番地となっています。

【神輿の特徴】

司一町会の神輿は、昭和31年、宮本重義の手により作られました。
大きさは台輪寸法2尺2寸です。
蕨手の所に、銀の龍をあしらった優美な神輿です。
担ぎ手からは「楽しく担げる神輿です」と言われるような、町会と同じように人情味溢れる神輿です。
また、数年前には子ども神輿と山車を修復しました。
特に山車は昭和9年の大祭に皇太子殿下ご生誕を記念して作られて以来の大修復となりました。


将門塚保存会神輿 大手・丸の内町会

2013-05-12 14:06:19 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

将門塚保存会神輿 大手・丸の内町会の宮入です。

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江戸時代、この界隈は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷が立ち並んでいました。
また、この地には神田明神の創祀の場所である、「将門塚【」がありました。

ここ丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治23年(1890)になります。
陸軍が一帯を三菱社に払い下げて以後、三菱社が大規模な再開発をしました。

地域内の道路整備を行い、続々と洋風の建築物を建てていきました。
赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったと言われています。

さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。
第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げたのです。

このような歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一~三丁目という町名が誕生してからのことです。
そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。

当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。

当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。

【神輿の特徴】

平将門公を思わせる勇壮な姿を、とくと御覧下さい。
この神輿は、史蹟将門塚保存会の参与法人会員を務め、大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡の保存・伝統文化の継承による町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟将門塚保存会に寄贈された神輿です。
一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」で台輪3尺5寸の大神輿です。
当町会内で働く男女、総勢1250名の担ぎ手により宮入りします。
日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝の担ぎで魅せます!


神田中央連合 小川町

2013-05-12 14:03:26 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田中央連合 小川町の宮入です。

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小川町は小川町三丁目西町会、小川町北部一丁目町会、小川町北部二丁目町会、小川町北三町会の4つの町会の連合となっています。

戦前小川町全地域は一つの町会であったが、靖国通りを境に北部と南部の二つに分離され、その後昭和22年に小川町北部町会が四町会に分割され、今の状態になりました。

小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからとも言われています。

江戸城を築いた室町時代の武将、太田 道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。

明治時代、小川町には西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。
また、町内で生まれ過ごした昭和期の小説家、永井 龍男を輩出した街です。

町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。

【神輿の特徴】

当初、小川町には、子ども神輿と中神輿、そして太鼓の山車があり、子どもの数も多く、とても活気に満ちていました。
やがて、子ども達が大きくなってくると大きな神輿が欲しくなり、有志が集まり趣意書を作り、毎月の定額積み立てを続け、昭和61年3月に2尺5寸の大神輿を調製しました。
それ以来、祭の度に町会員やその知人が多数集まり、賑やかに楽しくお神輿を担いでいます。