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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神保町一丁目町会

2005-05-15 12:30:00 | 神輿(神田中央連合)

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 続いて、神保町一丁目町会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町(おもてじんぼうちょう)、裏神保町(うらじんぼうちょう)などの町が誕生したのは、明治5年(1872年)のことです。裏神保町は、大正11年(1922年)に通神保町(とおりじんぼうちょう)と改称したのち、表神保町、表猿楽町(おもてさるがくちょう)などとともに、昭和9年、神保町一丁目(じんぼうちょういっちょうめ)となりました。さらに昭和23年、神田区と麹町区(こうじまちく)が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 
 町名の由来は、元禄(げんろく)年間(1688~1704)のころ、旗本(はたもと)の神保長治(じんぼうながはる)が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路(じんぼうこうじ)」と呼ばれるようになったためといわれています。

 神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に「神田すずらん通り」が走っています。
この通りの名前は街路灯がスズラン式に変わったことから名付けられました。街路灯が変わった理由は、現在の賑わいからは考えられないことですが、明治20年頃のこの辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町」と呼ばれたくらいに、人通りのない恐い道であり、暗く、恐い道を少しでも明るくしようとしたものだと言われています。現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
 
 町会の該当区域は、神保町一丁目1~71番地までの奇数番地となっています。


猿楽町町会

2005-05-15 12:20:00 | 神輿(神田中央連合)

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 続きまして、神田中央連合の宮入りとなります。一番目の町会は猿楽町町会です。

 猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。

 今でいう「能楽」は、江戸時代には「猿楽(さるがく)として、武士達に親しまれていました。「猿楽」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世(かんぜ)座家元、観世太夫(かんぜだゆう)や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町(かんだじんぼうちょう)一~二丁目から西神田(にしかんだ)一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という町名が生まれた、といわれています。

 他にも、文学では、夏目漱石が青春時代にこの地で下宿をしていました。芥川龍之介も府立三中時代の恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたと言われています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町に設立され、日本の音楽文化近代化に、多大な影響をもたらしました。
 
 町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。
 


岩本町一丁目町会

2005-05-15 11:58:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 岩本町・東神田地区連合の最後の宮入りとなりました。岩本町一丁目町会です。

 岩本町一丁目(いわもとちょういっちょうめ)は、かつて東福田町(ひがしふくだちょう)、材木町(ざいもくちょう)、東今川町(ひがしいまがわちょう)、亀井町(かめいちょう)の四つの町に分かれていました。
 
 これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。「竜閑川」は終戦後に三度(みたび)埋められて現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央区の区境となっています。

 町の北側を通る「金物通り」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。

 町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。


岩本町二丁目東紺町会

2005-05-15 11:45:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 続きまして、岩本町二丁目東紺町会の宮入りです。

 江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目(かんだこんやちょうさんちょうめ)、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷(ほんしろがねちょうかいしょやしき)、神田佐柄木町(かんださえきちょう)代地、永富町二丁目(ながとみちょうにちょうめ)代地といった町々でした。

 明治2年(1869年)、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。

 「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染(あいぞめ)職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。

 昭和22年(1947年)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。その後、昭和40年(1965年)の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町(かんだまつえだちょう)、神田大和町(かんだやまとちょう)、神田東松下町(かんだひがしまつしたちょう)の一部、神田元岩井町(かんだもといわいちょう)の一部と合併して、岩本町二丁目(いわもとちょうにちょうめ)となりました。

 当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1~4番地となっています。


東神田豊島町会

2005-05-15 11:37:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 東神田豊島町会が宮入りしてまいりました。

 東神田豊島町は、かつて豊島町(としまちょう)と呼ばれていました。

 豊島という町名の由来は、町奉行が「この一帯が属している豊島郡には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という町名があってもいいだろう」として名付けられた、といわれています。

 江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁(びくによこちょう)」や、髪油として美男葛(びなんかずら)の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁(かつらよこちょう)」と呼ばれた通りもありました。そのほか、銘茶屋、菓子屋、水油仲買等がありました。

 明治になると、旅館、砂糖商等が集まり、大変賑わっていました。その賑わいが現在にも続いていて、大変活気のある町会となっています。

 当町会の該当区域は、東神田1丁目~5番地、12~17番地、東神田二丁目8~10番地となっています。