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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

須田町一丁目南部町会

2005-05-15 13:32:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 須田町一丁目南部町会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していました。江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があった、といわれています。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。

 「須田町一丁目」(南部)は震災復興計画によって、「通り新石町、小柳町西一部、須田町一丁目南一部」が合併し、昭和8年に誕生しました。 
 
 かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭」という寄席がありました。この寄席は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席の一つでした。名人と言われた三代目小さんの告別式もここで執り行われました。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16~34番地までの偶数番地となっています。


須田町中部町会

2005-05-15 13:16:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 続きまして、中神田十三ヶ町連合の宮入りです。最初の町会は須田町中部町会です。

 須田町中部町会は「神田青物市場」発祥の地として有名です。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸(かまくらがし)から荷揚げされた青物が、15,000坪(約4万9500㎡)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。

  「須田町一丁目」(中部)は、昭和8年に関東大震災後の土地区画整理事業によって「連雀町大部、差柄木町大部、旧多町二丁目北一部、雉子町北半分」が合併して出来ました。
 
 「連雀町」は江戸時代の初期には既に町場化していたと言います。連尺とは、行商人が商品を背負う道具の事を言います。これを作る家が多く、また、行商人の家の戸口に連尺が目立ったので「連尺町」となりました。そののち、「連雀町」としたと言われています。

 「差柄木町」は江戸幕府の研ぎ師、差柄木彌太郎の拝領地だったので、その名前を取って「差柄木町」としました。

  江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北に、平成2年には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町です。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目2~14番地までの偶数番地となっています。


大手・丸の内町会

2005-05-15 12:59:00 | 神輿(大手町・丸の内地区)

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 大手町・丸の内地区の宮入りへと続いていきます。大手・丸の内町会単独での宮入りです。

 江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。江戸の中心地として発展し、数々の大名屋敷が立ち並んでいました。また、かつて、この地には神田明神の創祀の場所である、「将門塚」がありました。

 この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治23年(1890年)になります。陸軍が一帯を三菱社に払い下げ、以後、三菱社は大規模な再開発をし、地域内の道路整備を行い、続々と洋風の建築物を建てていきました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」といわれるようになりました。

 さらに大正3年(1914年)には東京駅も完成しました。第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げました。

 こういった歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。

 当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。

 当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。


錦連合

2005-05-15 12:45:00 | 神輿(神田中央連合)

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 神田中央連合の最後の宮入りとなりました。最後を飾るのは錦連合です。

 錦連合は「神田錦町二丁目町会、錦町三丁目町会、錦町三丁目第一町会、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。

 「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色(いっしき) 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色(にしき) 」または「二色(にしき)小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町」と改められました。

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(いぎりすほうりつがっこう)(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「外國語学校(現東京外国語大学) 」や「学習院」、「宮川保全共立女子職業学校(現共立女子大学)」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。


小川町連合

2005-05-15 12:38:00 | 神輿(神田中央連合)

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 23番目の宮入りとなります。小川町連合です。

 小川町連合は「小川町一丁目南部町会、小川町二丁目南部町会、小川町三丁目西町会、小川町北部一丁目町会、小川町北部二丁目町会、小川町北三町会」の6つの町会の連合となっています。

 江戸時代の初め、この地は、鷹狩(たかがり)に使う鷹の飼育を行う鷹匠(たかじょう)が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていましたが、元禄(げんろく)6年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉(つなよし)が「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を施行、鷹狩を禁止したためである、といわれています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。

 これらの町会には簿記学速記学速成教授所のほか、英語、漢学、数学などを教える研精義塾(けんせいぎじゅく)、裁縫(さいほう)を教える裁縫正鵠(せいこく)女学校、東京物理学校など、数多くの学校がありました。東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石(なつめそうせき)の小説『坊っちゃん』の主人公が学んだ学校です。

 江戸時代には、 小川町北三町会に軍備の充実を目的として洋式訓練所、「歩兵屯所」 (ほへいとんしょ)が組織されました。  

 明治以降、この周辺には学校が多かったため駿河台(するがだい)や神保町(じんぼうちょう)などとともに学生街として栄えていましたが、昭和30年代ごろから学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が数多く出店し、スポーツ店街としても賑(にぎ)わっています。

 町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。