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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

司町二丁目町会

2005-05-15 14:23:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 司町二丁目町会の宮入りです。

 昭和10年に「三河町三丁目及び四丁目全部、佐柄木町(さえきちょう)、新銀町(しんしろがねちょう)西大部、雉子町(きじちょう)、関口町(せきぐちちょう) 」等を併せて「司町二丁目」としました。

 新銀町は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に横大工町と合併して「新銀町」になりました。

 関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎という人物が草創名主だったので、それに因んで名付けられた、といわれています。
 
 町会の守護神として、「真徳稲荷神社」が祀られており、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

 昭和22年、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となりました。その後、「神田」が無くなり、司町二丁目となり、現在に至っています。

 町会の該当区域は司町二丁目全域となっています。


淡路町二丁目町会

2005-05-15 14:15:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 淡路町二丁目町会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。永井信濃守(ながいしなののかみ)の屋敷が松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)の屋敷となり、のちに若狭小浜(わかさおばま)藩酒井家の上屋敷(かみやしき)となりました。

 明治5年(1872年)、ここに神田淡路町二丁目(かんだあわじちょうにちょうめ)という名前が正式に付けられました。町名の由来とされる淡路坂(あわじざか)は、鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があったため、といわれています。
 
 明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立(きょうりつ)学校(後の開成(かいせい)学園)が創設されました。ここでは正岡子規(まさおかしき)や南方熊楠(みなかたくまぐす)などが学びました。また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉(ひぐちいちよう)も住んでいました。

 淡路町は文化の町となり、その新進の気風は町並みにも表れていました。大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋(しょうへいばし)近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑(にぎ)わっていました。
 
 町会の該当区域は淡路町二丁目1~29番地までの奇数番地となっています。



内神田鎌倉町会

2005-05-15 13:59:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 さぁ、30番目の宮入りです。内神田鎌倉町会が宮入りしてまいりました。

 「鎌倉町」の付近は江戸城の築城工事の際、資材の荷揚げ場となっていました。多くの材木石材が相模の国(さがみのくに) (現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚場が「鎌倉河岸(かまくらがし) 」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町」と名付けられた、といわれています。
 
 また、鎌倉町は江戸最古の町の一つです。

 町内には古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。

 御宿稲荷神社は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀られている数少ない社の一つです。
家康がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠(ほこら)があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されたため、世に御宿稲荷神社の大神身と祀られるようになりました。

 出世不動尊は平安時代の僧、智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられ、一橋(ひとつばし)徳川家の表鬼門除け(おもてきもんよけ)として祀(まつ)られていたといわれます。明治以後は神田松下町(現鎌倉町の一部)の有志により守護され、現在は出世不動尊奉賛会がお守りをしています。
 
 町会の該当区域は内神田一丁目一番5~9・12・14号、5~8番及び内神田二丁目1~7、内神田三丁目1~4となっています。



神田鍛治三会町会

2005-05-15 13:50:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 神田鍛治三会町会が宮入りしてまいりました。

 昭和8年に「黒門町北の一部・上白壁町北の一部・鍋町北の大部分・鍛冶町北の一部・鍋町西横町の内の一部」が統合して「神田鍛冶町三丁目」となりました。
 
 この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)をつとめていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたため、といわれています。鋳物師とは、鍋(なべ)や釜(かま)をつくる職人のことです。ほかにも御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。

 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。紅(べに)や白粉(おしろい)などの化粧品、傘、菓子、釘や打物(うちもの)などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいました。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。

 この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
 
 町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19~21番地となっています。


司一町会

2005-05-15 13:40:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 司一町会の宮入りです。

 司町一町会は、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷、製本などの職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられた、といわれています。また商店も大きな店ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。

 明治に入ると、「三河町(みかわちょう)二丁目、皆川町(みながわちょう) 、蝋燭町(ろうそくちょう) 、旭町」に再編されました。さらに関東大震災後に四つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。
 
 司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司(ひらたもりたねぐうじ)の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。
 
 町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司一町会」として存続しています。今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会であることに変わりはありません。
 
 町会の該当区域は美土代町及び内神田一丁目9~11・16~18番地及び内神田二丁目10~12・15番地となっています。