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朝の光(聖書の言葉)

空の鳥 7  受難・十字架   H,K  2024.7.8


受難・十字架




イエス,エルサレムに入る


(マタイ21:7)

「ろばと子ろばを引いて来て,
その上に服をかけると,
イエスはそれにお乗りになった。」


イエス・キリストは,

エルサレムに,
ろばに乗って入ります。

馬ではなく,ろばに乗ってでした。

それは,戦いではなく,
平和のために
エルサレムに入ることの
決意でした。

旧約聖書のゼカリヤが,
予言した通りでした。


(ゼカリヤ9:9)

「娘シオンよ,
大いに踊れ。
娘エルサレムよ,
歓呼の声をあげよ。
見よ,
あなたの王が来る。
彼は神に従い,
勝利を与えられた者,
高ぶることなく,
ろばに乗って来る。
雌ろばの子である
ろばに乗って。」


エルサレムの群衆は,
イエス・キリストを
「主の名によって来られる方」
として,
受け入れるのです。


(マタイ21:9)

「そして群衆は,
イエスの前を行く者も
後に従う者も叫んだ。
『ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に,
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。』」



☆彡


(マタイ21:1-11)

 一行がエルサレムに近づいて,
オリーブ山沿いの
ベトファゲに来たとき,
イエスは二人の弟子を
使いに出そうとして,言われた。
「向こうの村へ行きなさい。
するとすぐ,
ろばがつないであり,
一緒に子ろばのいるのが見つかる。
それをほどいて,
わたしのところに引いて来なさい。
もし,だれかが何か言ったら,
『主がお入り用なのです』
と言いなさい。
すぐ渡してくれる。」
それは,
預言者を通して言われていたことが
実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ,お前の王が
お前のところにおいでになる,
柔和な方で,ろばに乗り,
荷を負うろばの子,子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って,
イエスが命じられたとおりにし,
ろばと子ろばを引いて来て,
その上に服をかけると,
イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き,
また,ほかの人々は
木の枝を切って道に敷いた。
そして群衆は,
イエスの前を行く者も
後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に,
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると,
都中の者が,
「いったい,これはどういう人だ」
と言って騒いだ。
そこで群衆は,
「この方は,
ガリラヤのナザレから出た
預言者イエスだ」と言った。





主の晩餐


(マタイ26:26-30)

「一同が食事をしているとき,
イエスはパンを取り,
賛美の祈りを唱えて,それを裂き,
弟子たちに与えながら言われた。
『取って食べなさい。
これはわたしの体である。』
また,杯を取り,
感謝の祈りを唱え,
彼らに渡して言われた。
『皆,この杯から飲みなさい。
これは,罪が赦されるように,
多くの人のために
流されるわたしの血,
契約の血である。
言っておくが,
わたしの父の国であなたがたと共に
新たに飲むその日まで,
今後ぶどうの実から作ったものを
飲むことは決してあるまい。』
一同は賛美の歌をうたってから,
オリーブ山へ出かけた。」


この主の晩餐は,
過越しの食事の後行われました。

イエス・キリストは
主の晩餐によって,
十字架の死をあらかじめ,
弟子たちに教えました。

この食事は,
イエス・キリストが
十字架にかかり,

肉体が裂かれ,
血を流すことをあらわしています。

パンをイエスの体として食べ,
ぶどう酒をイエスの血として
飲むことによって,

イエス・キリストを受け入れ,
信じることを現します。

そして,
この聖餐式においてパンを食べる
ことによって
主とひとつとなります。


ぶどう酒を飲むことにおいて
信じる者の罪を赦すという
契約を結びます。

そして,
イエスの十字架の業を思い起こし,
イエスが再び来られることを
待ち望みます。

教会での聖餐式は,
このときに制定されたものです。

わたしたちは,
悔い改めと信仰を確かめ,
この聖餐式に教会の牧師,
兄弟姉妹と共に
与(あずか)るのです。

この聖餐式を受けることによって,
イエス・キリストの十字架を
思い起こします。

そして,
主が再び来ることを待ち望みます。

そして,
天国でのイエス・キリストと共に
行われる聖餐式を待つのです。
(マタイ26:29)



♪ 「染(し)みも咎(とが)も」 

(新聖歌49)

染(し)みも咎(とが)も
汚(けが)れも無き     
小羊  我が主は  
屠(ほふ)られしや

2.
此(こ)は我が為  
十字の上に
釘(くぎ)もて裂(さ)かれし  
御身体(みからだ)なり

3.
此(こ)は我が為  
呪(のろ)い受けて
流させ給いし  
君が血なり

4.
此(こ)は我が為  
与え給う
命の糧(かて)なり  
飲み物なり

5.
懐(なつ)かしくも  
見失(みう)せし主は
間もなく再び  
来たり給わん

6.
その時まで  
十字架を負わん
救いの恵みを  
喜びつつ


※咎(とが): 
咎めなければならない行為。
過(あやま)ち。






ゲッセマネ


(マタイ26:39)

「少し進んで行って,
うつ伏せになり,
祈って言われた。
『父よ,できることなら,
この杯をわたしから
過ぎ去らせてください。
しかし,
わたしの願いどおりではなく,
御心のままに。』」


ゲッセマネは,
オリーブ山の近くにありました。

ここでの「杯」は,
苦しみを象徴しています。

イエスは,
ご自身が十字架につけられることが
近くなり,

この苦しみを逃れられるように,
神に祈ります。

「御心のままに」と,
ご自身が十字架につけられることを
受け入れます。


イエス・キリストが
十字架にかけられ,
わたしたちの罪が赦されることは,
揺らぐことのない
神の計画だったのです。



☆彡



(マタイ26:36-46)

「イエスは弟子たちと一緒に
ゲッセマネという所に来て,
『わたしが向こうへ行って
祈っている間,
ここに座っていなさい』
と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を
伴われたが,
そのとき,
悲しみもだえ始められた。
そして,彼らに言われた。
『わたしは死ぬばかりに悲しい。
ここを離れず,
わたしと共に目を覚ましていなさい。』
少し進んで行って,うつ伏せになり,
祈って言われた。
『父よ,できることなら,
この杯をわたしから
過ぎ去らせてください。
しかし,
わたしの願いどおりではなく,
御心のままに。』
それから,
弟子たちのところへ
戻って御覧になると,
彼らは眠っていたので,
ペトロに言われた。
『あなたがたはこのように,
わずか一時もわたしと共に
目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう,
目を覚まして祈っていなさい。
心は燃えても,肉体は弱い。』
更に,
二度目に向こうへ行って祈られた。
『父よ,
わたしが飲まないかぎり
この杯が過ぎ去らないのでしたら,
あなたの御心が
行われますように。』
再び戻って御覧になると,
弟子たちは眠っていた。
ひどく眠かったのである。
そこで,
彼らを離れ,また向こうへ行って,
三度目も同じ言葉で祈られた。
それから,
弟子たちのところに
戻って来て言われた。
『あなたがたはまだ眠っている。
休んでいる。
時が近づいた。
人の子は罪人たちの手に
引き渡される。
立て,行こう。
見よ,
わたしを裏切る者が来た。』」



♪ 「栄えの冠(かむり)を」

(新聖歌105) 


1.

栄えの冠(かむり)を  
献(ささ)げ奉(まつ)らん
かつては茨(いばら)を  
被(かむ)りし主に

(くり返し)
ゲッセマネの汝(なれ)を  
カルバリの汝を
覚えて近づかん  
王なるイェスよ


2.

かつては葬(ほうむ)られ  
地に降(くだ)りて
甦(よみがえ)る朝を  
待ち給いぬ

(くり返し)


3.

担(にな)い進みゆかん  
主の十字架を
苦(にが)き杯(さかずき)も  
など避(さ)くべき

(くり返し) 


4.

主に見(まみ)ゆる朝  
手の傷跡(あと)
仰(あお)ぎ見て忍(しの)ばん  
主のカルバリ  

(くり返し) 







死刑の判決を受ける


(ルカ23:20,21)

「ピラトは
イエスを釈放しようと思って,
改めて呼びかけた。
しかし人々は,
『十字架につけろ,
十字架につけろ』
と叫び続けた。」


「祭司長たちと議員たちと民衆」
は,イエスを十字架につけます。

ここに,
人の罪の深さが現わされています。

この人たちは,
罪人のわたしたちの姿でもあるのです。

しかしまた,
イエス・キリストによる
神の愛もあらわされました。

神は罪人を
罰しなければなりませんが,

罪人の代わりに,
神のひとり子のイエス・キリストを
十字架につけて罰したのです。

そして,イエス・キリスト
とこの業(わざ)を信じる者は,
罪が赦されるのです。


十字架では,
神の愛と人の罪が
あらわれるところです。


♪ 「主の真理は荒磯の岩」 

(新聖歌 160番)

1.

主の真理(まこと)は
荒磯(ありそ)の岩
さかまく波にも などか動かん
くすしきかな あまつみ神
げに尊きかな とこしえの主 


2.

主のめぐみは 浜のまさご
その数いかでか 計りうべき
くすしきかな あまつみ神
げに尊きかな とこしえの主 


3.

うつりゆく世 さだめなき身
ただ主に頼りて 安きをぞえん
くすしきかな あまつみ神
げに尊きかな とこしえの主 


4.

つもれるつみ ふかきけがれ
ただ主を仰ぎて 救いをぞえん
くすしきかな あまつみ神
げに尊きかな とこしえの主 


☆彡


(ルカ23:13-25)

ピラトは,
祭司長たちと議員たちと
民衆とを呼び集めて,
言った。
「あなたたちは,
この男を民衆を惑わす者として
わたしのところに連れて来た。
わたしはあなたたちの前で
取り調べたが,
訴えているような犯罪は
この男には何も見つからなかった。
ヘロデとても同じであった。
それで,
我々のもとに
送り返してきたのだが,
この男は死刑に当たるようなことは
何もしていない。
だから,
鞭で懲らしめて釈放しよう。」
祭りの度ごとに,ピラトは,
囚人を一人彼らに
釈放してやらなければならなかった。
しかし,人々は一斉に,
「その男を殺せ。
バラバを釈放しろ」
と叫んだ。
このバラバは,
都に起こった暴動と殺人のかどで投
獄されていたのである。
ピラトは
イエスを釈放しようと思って,
改めて呼びかけた。
しかし人々は,
「十字架につけろ,
十字架につけろ」
と叫び続けた。
ピラトは三度目に言った。
「いったい,
どんな悪事を働いたと言うのか。
この男には死刑に当たる犯罪は
何も見つからなかった。
だから,
鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ところが人々は,
イエスを十字架につけるように
あくまでも大声で要求し続けた。
その声はますます強くなった。
そこで,
ピラトは彼らの要求を
いれる決定を下した。
そして,
暴動と殺人のかどで投獄されていた
バラバを要求どおりに釈放し,
イエスの方は彼らに引き渡して,
好きなようにさせた。






イエス,十字架につけられる


(ルカ23:33)

「『されこうべ』
と呼ばれている所に来ると,
そこで人々は
イエスを十字架につけた。
犯罪人も,
一人は右に一人は左に,
十字架につけた。」


イエス・キリストは,

犯罪人と一緒に

十字架につけられました。

旧約聖書のイザヤの

預言するとおりでした。


(イザヤ53:12)

「それゆえ,
わたしは多くの人を
彼の取り分とし,
彼は戦利品として
おびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち,
死んで,罪人のひとりに
数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い,
背いた者のために
執り成しをしたのは,
この人であった。」



♪ 「君もそこにいたのか」

(新聖歌113)   


1.

君もそこに居たのか  
主が十字架に付くとき
ああ・・ 
何だか心が震(ふる)える  
震える  震える
君もそこに居たのか


2.

君も聞いていたのか  
釘(くぎ)を打ち込む音を
ああ・・ 
何だか心が震える  
震える  震える
君も聞いていたのか


3.

君も眺(なが)めてたのか  
血潮(ちしお)が流れるのを
ああ・・ 
何だか心が震(ふる)える  
震える  震える
君も眺めてたのか


4.

君も気が付いたのか  
突然日が陰(かげ)るのを
ああ・・ 何だか心が震える  
震える  震える
君も気が付いたのか


5.

君も墓に行ったのか  
主をば葬(ほうむ)る為に
ああ・・ 何だか心が震える  
震える  震える
君も墓に行ったのか







身代わりの十字架


(1ペテロ2:24)

「そして,
十字架にかかって,
自らその身にわたしたちの罪を
担ってくださいました。
わたしたちが,
罪に対して死んで,
義によって
生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって,
あなたがたはいやされました。」


イエス・キリストの
弟子のペテロの言葉です。

罪人のあるわたしたちが,
十字架につけられるべきでした。

イエス・キリストが
わたしたちの罪の身代わりとして,
十字架にかかりました。

ですから,
信じるわたしたちは罪に死に,
イエス・キリストの義によって
生きるのです。

そして,イエス・キリストの
十字架の業によって,

わたしたちの霊,こころ,
体はいやされるのです。



(ガラテヤ2:19-21)

「私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が
肉にあって生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」






恵みと信仰による 

(エペソ2:8,9)

「あなたがたの救われたのは,
実に,恵みにより,
信仰によるのである。
それは,
あなたがた自身から
出たものではなく,
神の賜物である。
決して行いによるのではない。
それは,
だれも誇ることが
ないためなのである。」


わたしたちが
良いことをしたのでもなく,
清いからでもなく,

神の一方的な恵みと,
イエス・キリストへの信仰によって,
救われます。




パラダイス


(ルカ23:42,43)口語訳

「(犯罪人の一人が)言った,
『イエスよ,
あなたが御国の権威をもって
おいでになる時には,
わたしを思い出してください』。
イエスは言われた,
『よく言っておくが,
あなたはきょう,
わたしと一緒に
パラダイスにいるであろう』」。


イエスが十字架につけられたとき,

犯罪人の一人に

次のように言っています。


「パラダイス」とは,
エデンの園であり,
神の国であり,天国です。

イエスを頼り信じたこの犯罪人は,
業によらず,神の恵みと,

信仰によって救われたのです。



♪ 「カルバリ山の十字架」

(新聖歌112)  


1.

カルバリ山の十字架に付きて 
イエスは尊き血潮を流し
救いの道を開き給えり 
カルバリの十字架 
我が為なり

(くり返し) 
ああ十字架 ああ十字架
カルバリの十字架 我が為なり


2.

かくも妙なる愛を知りては 
身も魂(たましい)もことごと捧げ
ただ哀れみに縋(すが)る他なし 
カルバリの十字架 我が為なり
(くり返し) 


3.

イエスよ血潮を我に注ぎて 
今より我を清き宮とし
永久(永遠)(とこしえ)までも
住まわせ給え 
カルバリの十字架 我が為なり
(くり返し) 






父よ,彼らをお赦しください


(ルカ23:34)

「イエスは言われた。
『父よ,彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか
知らないのです。』」


イエス・キリストは十字架の上で,
自分を迫害する者のために

「父よ,彼らをお赦しください。」
と祈ります。

まさに,イエスの愛の極まりが,
ここに現れています。


☆彡



(ルカ23:32-34)

新共同訳 


「ほかにも,二人の犯罪人が,
イエスと一緒に
死刑にされるために,
引かれて行った。
『されこうべ』と呼ばれている
所に来ると,
そこで人々は
イエスを十字架につけた。
犯罪人も,一人は右に一人は左に,
十字架につけた。
そのとき,イエスは言われた。
『父よ,彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか
知らないのです。』
人々はくじを引いて,
イエスの服を分け合った。」






イエスの死


(ヨハネ19:30)

「イエスは,
このぶどう酒を受けると,
『成し遂げられた』と言い,
頭を垂れて息を引き取られた。」


「成しとげられた」とは,
十字架によって,贖いのわざは,
完成したということです。

罪びとの身代わりとして,
イエス・キリストが十字架で,
死んでくださったのです。

人々の罪を,イエス・キリストが,
すべて負ったのです。

そして,神は,
わたしたちの罪を赦したのです。



☆彡


(ヨハネ19:28-30)

「この後,イエスは,
すべてのことが
今や成し遂げられたのを知り,
『渇く』と言われた。
こうして,聖書の言葉が実現した。
そこには,
酸いぶどう酒を満たした器が
置いてあった。
人々は,
このぶどう酒をいっぱい含ませた
海綿をヒソプに付け,
イエスの口もとに差し出した。
イエスは,
このぶどう酒を受けると,
『成し遂げられた』と言い,
頭を垂れて息を引き取られた。」





百人隊長の信仰


(マタイ27:54)

「百人隊長や一緒に
イエスの見張りを
していた人たちは,
地震やいろいろの出来事を見て,
非常に恐れ,
『本当に,
この人は神の子だった』
と言った。」


百卒長は,
イエスの十字架での死を見て,
イエスを神の子だと信じました。

百卒長は,イエスの生涯,
教えを深く知ったわけでは
ありませんでした。

しかし,
「イエス・キリストは神の子」
だと信じたのです。




イエスの死


(マタイ27:45-47) 

さて,昼の十二時に,
全地は暗くなり,
それが三時まで続いた。
三時ごろ,
イエスは大声で叫ばれた。
「エリ,エリ,
レマ,サバクタニ。」
これは,
「わが神,わが神,
なぜわたしを
お見捨てになったのですか」
という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには,
これを聞いて,
「この人はエリヤを呼んでいる」
と言う者もいた。
そのうちの一人が,
すぐに走り寄り,
海綿を取って
酸いぶどう酒を含ませ,
葦の棒に付けて,
イエスに飲ませようとした。
ほかの人々は,
「待て,
エリヤが彼を救いに来るかどうか,
見ていよう」
と言った。
しかし,
イエスは再び大声で叫び,
息を引き取られた。
そのとき,
神殿の垂れ幕が上から下まで
真っ二つに裂け,
地震が起こり,岩が裂け,
墓が開いて,
眠りについていた
多くの聖なる者たちの体が
生き返った。
そして,
イエスの復活の後,
墓から出て来て,
聖なる都に入り,
多くの人々に現れた。
百人隊長や一緒に
イエスの見張りを
していた人たちは,
地震やいろいろの出来事を見て,
非常に恐れ,
「本当に,この人は神の子だった」
と言った。
またそこでは,
大勢の婦人たちが
遠くから見守っていた。
この婦人たちは,
ガリラヤからイエスに従って来て
世話をしていた人々である。
その中には,マグダラのマリア,
ヤコブとヨセフの母マリア,
ゼベダイの子らの母がいた。






十字架の言葉


(1コリント1:18)

「十字架の言葉は,
滅んでいく者にとっては
愚かなものですが,
わたしたち救われる者には
神の力です。」


わたしたちは,
イエス・キリストの十字架の業,
十字架の言葉によって
救われるのです。

まさに,この百卒長は,
十字架の業によって救われました。






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