マタイの福音書 2022.11.11
○
イエスの誕生
(マタイ1:24)
「見よ,処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
(訳すと,
神は私たちとともにおられる,
という意味である。)」
イエスの父のヨセフに,
「主の天使が夢に現れて言った」
ものです。
「インマヌエル」とはヘブル語で,
「神は私たちとともにおられる」
という意味であり,
神が人間に臨在している
ということです。
○
博士たちの訪問
(マタイ2:6)
「ユダの地,ベツレヘム。
あなたはユダを治める者たちの中で,
決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを
治める支配者が,
あなたから出るのだから。」
ヘロデ王は,
紀元前40年 ー紀元4年に
ローマの上院から
ユダヤ地方を治める王でした。
博士たちは,
ペルシャか南アラビヤの地方
(現在のイラン)から来ました。
異邦人である博士たちが
イエス・キリストの誕生を祝したのは,
全人類を救う王であることを
示しています。
○
イエスの洗礼
(マタイ3:16)
「イエスは洗礼を受けると,
すぐ水の中から上がられた。
そのとき,
天がイエスに向かって開いた。
イエスは,
神の霊が鳩のように
御自分の上に降って来るのを
御覧になった。」
イエスが洗礼を受けたことは,
不思議なことです。
洗礼には,回心の意味があるからです。
回心とは,罪を悔い,
新しく生きることです。
イエスの洗礼は,イエスが人となり
人の罪を背負ったことです。
十字架による救いの初めです。
○
4人の漁師
(マタイ4:19口語訳)
「イエスは彼らに言われた,
『わたしについてきなさい。
あなたがたを,
人間をとる漁師にしてあげよう』」。
この漁師が,
特別優秀とは思われません。
漁師の一人のペテロは,
イエスが十字架にかかるとき,
逃げました。
神は,
優秀な人を救ったわけではありません。
救いは,一方的な神の選びによります。
○
敵を愛しなさい
(マタイ5:43,44)
「『自分の隣人を愛し,
自分の敵を憎め』
と言われたのを,
あなたがたは聞いています。
しかし,
わたしはあなたがたに言います。
自分の敵を愛し,
迫害する者のために祈りなさい。」
「敵を愛する」ためには.
敵を執り成し祈ることによります。
祈りによって,敵の代理人となります。
キリストは,この愛に満ちていました。
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空の鳥を見よ
(マタイ6:26)
「空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず,刈り入れもせず,
倉に納めることもしません。
けれども,
あなたがたの天の父がこれを
養っていてくださるのです。
あなたがたは,鳥よりも,
もっとすぐれたものでは
ありませんか。」
神は鳥を養ってくださいます。
神はわたしたちを鳥より
優れたものにしてくださっています。
神は私たちを愛し,
養ってくださっています。
○
求めなさい
(マタイ7:7)
「求めなさい。
そうすれば与えられます。
捜しなさい。
そうすれば見つかります。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。」
人にできないことも,
神にはできます。
私たちは神に求め続けたいものです。
求める者が与えられるとは,
祈りは答えられることです。
神の御心による祈りは,
聖霊の働きによって成し遂げられます。
○
神によるいやし
(マタイ8:16口語訳)
「夕暮になると,
人々は悪霊につかれた者を大ぜい,
みもとに連れてきたので,
イエスはみ言葉をもって
霊どもを追い出し,
病人をことごとくおいやしになった。」
マタイ8章では病人のいやし,
悪霊につかれた人のいやし,
嵐をしずめる奇跡を述べています。
神はイエスの命の犠牲を通して,
罪に対して赦しを,
死に対して復活と永遠の命を,
病気に対してはいやしを
備えられました。
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マタイの召命
(マタイ9:9)
「イエスは,
そこを去って道を通りながら,
収税所にすわっている
マタイという人をご覧になって,
『わたしについて来なさい』
と言われた。
すると彼は立ち上がって,
イエスに従った。」
マタイは,
イエスのことばに従いました。
イエスのことばは,
イエスご自身です。
受け入れる者には,
救いが与えられます。
つづいて,イエスはつぎのように言います。
(マタイ9:9-13)
「イエスはこれを聞いて言われた。
『医者を必要とするのは
丈夫な者ではなく,
病人です。
『わたしはあわれみは好むが,
いけにえは好まない』とは
どういう意味か,
行って学んで来なさい。
わたしは正しい人を招くためではなく,
罪人を招くために来たのです。』」
○
一羽の雀
(マタイ10:29-31)
「二羽の雀は
「二羽の雀は
一アサリオンで売っているでしょう。
しかし,そんな雀の一羽でも,
あなたがたの父のお許しなしには
地に落ちることはありません。
また,あなたがたの頭の毛さえも,
みな数えられています。
だから恐れることはありません。
あなたがたは,
たくさんの雀よりも
しかし,そんな雀の一羽でも,
あなたがたの父のお許しなしには
地に落ちることはありません。
また,あなたがたの頭の毛さえも,
みな数えられています。
だから恐れることはありません。
あなたがたは,
たくさんの雀よりも
すぐれた者です。」
イエスは弟子たちに
「人々を恐れてはならない」
と教えました。
神は,わたしたちを
憐れんでくださいます。
神の憐(あわ)れみは,
イエス・キリストにあらわされた,
神の無条件の恵みです。
○
重荷を負うて苦労している者
マタイ11:28ー30(口語訳)
「すべて重荷を負うて
苦労している者は,
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは
柔和で心のへりくだった者であるから,
わたしのくびきを負うて,
わたしに学びなさい。
そうすれば,
あなたがたの魂に
休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく,
わたしの荷は軽いからである。」
ユダヤ教の律法主義の重荷に
「疲れた」人々に
イエスは
安息に招くことが出来ます。
「くびき」は
本来荷を負いやすく
するためのものですが,
パリサイ人は多くの規定を生み出して,
律法のくびきを重荷にしました。
イエスのくびきが
「負いやす」いのは,
イエスが柔和で
へりくだっているからです。
○
悪霊どもを追い出す
(マタイ12:28)
「わたしが神の御霊によって
悪霊どもを追い出しているのなら,
もう神の国は
あなたがたのところに
来ているのです。」
悪霊は,神の霊によって追い出されました。
イエスの言葉によって追い出されました。
イエスの働きは聖霊によるものでした。
イエス自身の言葉には,
聖霊が働いています。
○
からし種のたとえ
(マタイ13:31,32)
「イエスは,
また別のたとえを彼らに示して言われた。
『天の御国は,
からし種のようなものです。
それを取って,畑に蒔くと,
どんな種よりも小さいのですが,
生長すると,どの野菜よりも大きくなり,
空の鳥が来て,
その枝に巣を作るほどの木になります。』」
パレスチナのからしは
小さい種ですが,
3,4メートルの木に成長します。
ここでは「からし種」は,
「天の御国」(天国)をあらわしています。
天の国である「からし種」が
わたしたちの心に入るなら,
天の国は大きく成長します。
天の国は,からし種のように命があります。
命のあるものは,成長します。
天の国も成長します。
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5千人に食べ物を与える
(マタイ14:19-21)
「そしてイエスは,
群衆に命じて草の上にすわらせ,
五つのパンと二匹の魚を取り,
天を見上げて,それらを祝福し,
パンを裂いて
それを弟子たちに与えられたので,
弟子たちは群衆に配った。
人々はみな,食べて満腹した。
そして,
パン切れの余りを取り集めると,
十二のかごにいっぱいあった。」
ユダヤ人は,
第2のモーセであるメシア(キリスト)は,
モーセがしたことを
みな行うと信じていました。
この奇蹟は,
天からのマナが再び降りさせた
イエスこそが
真のキリストであることを示しました。
イエスのこの動作は,
聖餐式の動作に似ています。
イエスの十字架と復活を暗示しています。
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カナンの女の信仰
(マタイ15:27,28)
「女は言った。
『主よ。そのとおりです。
ただ,小犬でも主人の食卓から落ちる
パンくずはいただきます。』
そのとき,
イエスは彼女に答えて言われた。
『ああ,あなたの信仰はりっぱです。
その願いどおりになるように。』
すると,彼女の娘はその時から直った。」
キリストの救いは
全人類のものであるけれども,
ユダヤ人に福音を聞く
優先権がります。
この女(カナンの女)の,
謙遜によって,
イエス・キリストは
彼女の信仰をほめました。
そして,その娘を直しました。
カナンの女は
イエスにウイットで答ました。
わたしたちにも,
イエスと交わることを求められています。
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生ける神の御子キリスト
(マタイ16:15,16)
「イエスは彼らに言われた。
『あなたがたは,
わたしをだれだと言いますか。』
シモン・ペテロが答えて言った。
『あなたは,
生ける神の御子キリストです。』」
(マタイ16:18)
「ではわたしもあなたに言います。
あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上に
わたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには
打ち勝てません。」
「イエス」とは,
「主は救いである」の意味です。
「神の御子」とは,
イエスが父なる神に関するものであり,
イエスの神性を現しています。
「キリスト」とは,
油注がれたものの意味で,
頭に油を注ぐことによって,
その人が特別な職務に
就くことを示しています。
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何度まで赦すべきか
(マタイ18:21)
「ペテロがみもとに来て言った。
『主よ。
兄弟が私に対して罪を犯した場合,
でしょうか。
七度まででしょうか。』」
このペテロの質問に
イエス・キリストが
答えます。
(マタイ18:22)
イエスは彼に言われた,
「わたしは七たびまでとは言わない。
七たびを七十倍するまでにしなさい。」
わたしたちは
イエス・キリストを信じることによって
すべての罪が赦されました。
ですから,わたしたちに罪を犯す者を
すべて赦すべきだと言います。
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らくだと針の穴
(マタイ19:23,24)
「それから,
イエスは弟子たちに言われた。
『まことに,
あなたがたに告げます。
金持ちが天の御国に
「それから,
イエスは弟子たちに言われた。
『まことに,
あなたがたに告げます。
金持ちが天の御国に
はいるのはむずかしいことです。
まことに,
あなたがたにもう一度,
告げます。
金持ちが神の国にはいるよりは,
らくだが針の穴を通るほうが
まことに,
あなたがたにもう一度,
告げます。
金持ちが神の国にはいるよりは,
らくだが針の穴を通るほうが
もっとやさしい。』」
「らくだ」は,
ユダヤ人の知っている
「らくだ」は,
ユダヤ人の知っている
最も大きな動物でした。
そして,「針の穴」は目に見えるもので
通りぬけのできる最も小さいものでした。
「金持ち」とは,傲慢な者のたとえです。
神の国に入れるのは謙虚な者だけです。
イエス・キリストは,
イエス・キリストに従がう者は,
一切を捨てるようにいます。
一切を捨てるようにいます。
一切捨てて従がう者には,
驚くべき祝福である永遠の命が
与えられます。
らくだはイエス,針の穴は信仰をあらわしています。
らくだはイエス,針の穴は信仰をあらわしています。
○
贖いの代価
(マタイ20:28)
「人の子が来たのが,
仕えられるためではなく,
かえって仕えるためであり,
また,多くの人のための,
贖いの代価として,
自分のいのちを与えるためであるのと
同じです。」
「贖いの代価」とは,
奴隷を自由の身にするために
支払われる身代金のことです。
罪の奴隷となっている人間を
解放して神の子とするために,
イエス・キリストはご自身のいのちを
父なる神に贖いの代価として
ささげました。
○
イエス・キリスト,エルサレムに入る
(マタイ21:7)
「ろばと子ろばを引いて来て,
その上に服をかけると,
イエスはそれにお乗りになった。」
イエス・キリストは,
エルサレムに,ろばに乗って入ります。
馬ではなく,ろばに乗ってでした。
それは,戦いではなく,
平和のためにエルサレムに
入ることの決意でした。
旧約聖書のゼカリヤが,
予言した通りでした。
(ゼカリヤ9:9)
「娘シオンよ,大いに踊れ。
娘エルサレムよ,歓呼の声をあげよ。
見よ,あなたの王が来る。
彼は神に従い,勝利を与えられた者,
高ぶることなく,ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。」
○
復活についての問答
(マタイ22:32)
「『わたしは,アブラハムの神,
イサクの神,ヤコブの神である』
とあります。
神は死んだ者の神ではありません。
生きている者の神です。」
イエス・キリストはエルサレムに入ると,
エルサレムにいるファリサイ派,
サドカイ派,律法学者たちから,
論争を仕掛けられます。
イエス・キリストは,
見事にお答えになります。
神を信じた者は,
永遠に生きているのです。
○
(マタイ23:27)
「わざわいだ。
偽善の律法学者,
パリサイ人。
おまえたちは白く塗った
墓のようなものです。
墓はその外側は美しく見えても,
内側は,死人の骨や,
あらゆる汚れたものがいっぱいです。」
イエスは偽善を嫌われました。
○
人の子の到来,再臨
(マタイ24:30)
「そのとき,
人の子のしるしが天に現れます。
すると,地上のあらゆる種族は,
悲しみながら,
人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて
天の雲に乗って来るのを見るのです。」
イエス・キリストの言葉です。
「人の子」とは,イエス・キリストが,
ご自身を指して言う言葉です。
イエス・キリストの再臨には,
神の栄光が現れます。
○
「最後の審判」
(マタイ25:31-33)
「人の子が,
その栄光を帯びて,
すべての御使いたちを伴って来るとき,
人の子はその栄光の位に着きます。
そして,
すべての国々の民が,
その御前に集められます。
彼は,
羊飼いが羊と山羊とを分けるように,
彼らをより分け,
羊を自分の右に,
山羊を左に置きます。」
「最後の審判」によって,
わたしたちのすべてが裁かれます。
悪い者は,捨て去られます。
そして,
イエスと結ばれた者が残ります。
イエスを信じ,義とされることが,
裁きで救われるただ一つの方法です。
死の後も,
永遠に残るものはこれだけです。
滅びの恐怖に打ち勝ち,
勝利の喜びに与かるただ一つのことです。
死の不安,
忘れ去られることの不安から逃れる,
ただ一つのことです。
それは,イエス・キリストを信じ
永遠のいのちを持つことです。
○
聖餐式
(マタイ26:26-30)
「また,彼らが食事をしているとき,
イエスはパンを取り,祝福して後,
これを裂き,弟子たちに与えて言われた。
『取って食べなさい。
これはわたしのからだです。』
また杯を取り,感謝をささげて後,
こう言って彼らにお与えになった。
『みな,この杯から飲みなさい。
これは,わたしの契約の血です。
罪を赦すために多くの人のために
流されるものです。
ただ,言っておきます。
わたしの父の御国で,
あなたがたと新しく飲むその日までは,
わたしはもはや,ぶどうの実で造った物を
飲むことはありません。』
そして,賛美の歌を歌ってから,
みなオリーブ山へ出かけて行った。」
イエス・キリストは十字架にかかる前,
弟子たちと共に食事をします。
そして,
パンとぶどう酒を弟子たちに与えて,
このように言われました。
イエスが命を与え,
私たちが受けます。
イエス・キリストご自身が,
聖餐式を定めました。
そして,今でも教会で守られています。
○
「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」
(マタイ27:46口語訳)
「そして三時ごろに,
イエスは大声で叫んで,
『エリ,エリ,レマ,サバクタニ』
と言われた。
それは『わが神,わが神,
どうしてわたしを
お見捨てになったのですか』
という意味である。」
イエス・キリストが
罪人の身代わりとして
罪の刑罰を受けました。
このあと,
「大声で叫んで,息を引き取られた」
(マタイ27:50)とあります。
ルカの福音書によると
イエスは,
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカ23:46)と言います。
ヨハネの福音書によると
イエスは
「完了した」(ヨハネ19:30)
と言います。
イエスの死は,死を克服する者の死であり,
贖いを成就した者の勝利の死でした。
(詩編22:1)
「わが神,わが神。
どうして,私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。」
(2コリント5:21)
「神は,罪を知らない方を,
私たちの代わりに罪とされました。
それは,私たちが,この方にあって,
神の義となるためです。」
(へブル12:2)
「信仰の創始者であり,
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
イエスは,
ご自分の前に置かれた喜びのゆえに,
はずかしめをものともせずに
十字架を忍び,
神の御座の右に着座されました。」
○
復活
(マタイ28:5,6)
「すると,御使いは女たちに言った。
『恐れてはいけません。
あなたがたが十字架につけられた
イエスを捜しているのを,
私は知っています。
ここにはおられません。
前から言っておられたように,
よみがえられたからです。
来て,納めてあった場所を
見てごらんなさい。』」
(マタイ28:6,7)
「ここにはおられません。
前から言っておられたように,
よみがえられたからです。
来て,納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って,
お弟子たちにこのことを知らせなさい。
イエスが死人の中からよみがえられたこと,
そして,
あなたがたより先にガリラヤに行かれ,
あなたがたは,
そこで,お会いできるということです。
では,これだけはお伝えしました。」
マグダラのマリヤは,
イエスの埋葬を見に行きます。
そこで,
天使からイエスが復活したことを
弟子たちに伝えるように聞きます。
マグダラのマリヤは,
大きな働きをします。
(マタイ28:10)口語訳
そのとき、イエスは彼らに言われた、
「恐れることはない。
行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、
そこでわたしに会えるであろう、
と告げなさい」。