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思考の流れの書きとめ、詩、随筆、覚書(Weblog)
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宇宙に存在する一つの意識

2014-06-10 23:44:50 | Weblog
例えば私が宇宙に存在する一つの意識であったとしたら

子供を産むか産まないかなんていうことは考えていないであろう

つまり外からどう見られるかなんて考えていないだろうということ

例えば私が宇宙に存在する肉体を求める一つの意識であったなら、

この肉体を利用して何をしようと考えるだろう

宇宙に存在したであろう一つの意識について考えることは

自己の内なる声に耳を傾けることに似ている

意識に焦点を当ててみると、

やはりニーチェを読んだり、詩を書いたり、そういう、

考えを深め、創作活動をするということをしたいのだと思う

肉体に焦点を当ててみると、

好きな服を着る、いろいろな場所に行き、いろいろなものを見る

森林の香りをかぐ、好きな人に触れる

ということだろうか

しかしながら、意識とか精神とかいうものが

やっていると思っていることも実際は、肉体がなければ

うまく機能しないのかもしれない

なにせ、この文章を

書いているのは肉体であるということもできるのだから

永劫回帰に反対してみる

2014-05-29 21:27:16 | Weblog
この生は、その進んでいく先が全く知り得ないということ

予定や想定や希望や理想などの諸々があったとしても
予想外の出来事が起こるということ


まさに未知であるというところにしか救いはないのである




もしこの先の生が既に予定されていて
予定された通りにしか進んでいかないのだとしたら!
既に経験したことを繰り返すだけなのだとしたら!
記憶の中にあることだけをまた体感するだけなのだとしたら!



やはりそれは苦痛以外の何ものでもない





私はこの点に関しては決してニーチェ主義ではないのである




悪意のない罪から生まれる憎しみ

2014-04-24 10:02:34 | Weblog
夢によって思い出した あの憎しみ

いや、思い出したというより、再び体感したという方が近いだろうか



夢はまことに不思議なものである



この夢はおそらく、憎しみ抜けといっているのであろう

そう言っているのであろう






もしあの時、涙を流さなかったら
もしあの時、


などと考えずに





過去と現実、こうなった今を愛し、

彼を憎しみ抜けといっているのであろう




私は 彼を許すほど 偉大ではないのだから












悪意のない罪から生まれる憎しみ
悪意のない罪からしか、
永遠に持続可能な憎しみは、生まれないのかもしれない



十年

2014-04-23 22:57:49 | Weblog
ある哲学者が言っていた「10年」というのには
やはり意味があるのだろう


10年を越えるまではどう転ぶかわからない
そういうもんなんだろう


変な期待とか予想とか ないほうがいいんだろう




去る者追わず、来る者拒まずというような、

彼女のようなスタンスが良いのだろう









遅かれ早かれ きっとそういうことだったのだ

やらなくてよくなって

2014-02-12 01:50:09 | Weblog
本当はやらなくていいのに
やりたくないのにやらされて
本当はやらなくていいってことを
後から知って
あるいは10年後や100年後には変わって
やらなくてよくなって
やらないのが当たり前で
あるいは他の国では他の星では
そんなものはとっくにやらなくていいっていうか
やらせるなんてことはあってはいけないって
なっていたりして
それを知った時の憤りと安堵を
ただ受け止めて
これからはこうしていいんだって
こういうふうにするんだって
おもう
世界には少しずつ良くなっていっていることが
必ず、少しばかりある

2013-12-30 01:22:02 | Weblog
たとえうつ病が治ったとしても
うつ病であった時、つまりうつが絶頂だった時に考えていたこと、感じていたこと、私の思考が
最も正気だった気がしてならない
また、気がしてならないがゆえに、
うつが治ったとして、昔みたいに脳天気に生きられるわけもない
またひとつ、死に近づいた

他人から新しい思想なんてめったに頂けるものではない
そんなのもう考えつくしてleaveしたやつばかりである

死後30年以上経っても読まれる本

2013-10-30 16:14:15 | Weblog
私にはもう、思っていることを口に出すような情熱も、
どっちに進んでいくかわかんないけどとりあえず進むべき大まかな方向性も、
何もなくなって


私にはもう、何もできないのかもしれない


私が物なら、使えなくなった私を
誰かがほっといてくれるか、
誰かが捨ててくれるかするだろう。