goo blog サービス終了のお知らせ 

Quelque chose?

医療と向き合いながら、毎日少しずつ何かを。

「ブラフマンの埋葬」

2019-07-15 | 本・映画・テレビ
小川洋子「ブラフマンの埋葬」(講談社文庫)を読んだ。

小川洋子作品を読むのは久しぶり。
この小さな文庫本は、たしか出張先の駅の書店で買って、新幹線の中で最初だけ読んで、これは丁寧に読むべき作品だとすぐに気づいたものの、作品と向き合う時間が取れずにそのままになっていたものだ。

書き出しから強い印象を受ける。
ブラフマン、というのは、「僕」が夏の初めに出会う小さな生き物に、碑文彫刻師が(と言っていいのだろうか)つけた名前である。
「僕」や「碑文彫刻師」は、<創作者の家>というところにいる。「僕」はそこの住み込みの管理人で、碑文彫刻師はその一角の工房で、墓碑や石棺をつくる仕事をしている。

この物語は、この、どこかにありそうだけれどもどこにもない<創作者の家>、およびその「家」が位置する、山と川と海に囲まれた「村」を舞台に、「ブラフマン」および彼をめぐる人々とを描いた作品である。
「ブラフマン」は最初、子犬のように思えるのだが、読んでいると実は違うらしいということに気づかされる。「僕」や「碑文彫刻師」、そしてその他登場する、それぞれに個性や仕事を持った人々も、この不思議な小さな生き物をそれぞれのスタイルで受け入れ、ブラフマンが泉の周りを駆け回るのとともに夏の季節は巡っていく。

風がそよぎ渡り、音楽や詩が聞こえてくる<創作者の家>。
しかし、作品のベースには、モティーフとして「死」や「石・石棺」が重層低音のように響いている。語り手である「僕」がどんな人物なのかは読者には明かされない。ただ、「僕」は「死」を思わせる写真を手にし、過ぎ去った時間、手の届かない存在を思いながら、目の前にいる小さな生き物と心を通わせる。
碑文彫刻師も、この物語になくてはならない、重石のような存在であることが最後のシーンで確かめられる。いろいろな糸がつむぎ合わされて、少しずつの事件が季節を一気に進めていく。読者の心も森の中へと送られていくようなラストである。

小川洋子作品の言葉は丁寧に練られていて、シンプルにして深い。
この作品に関しては、行間やフォントの使い分けも絶妙である。

"川面は太陽を浴び、水ではなく光が流れていくようだった。"

この一節を読んだだけで、この「村」の夏の陽光が、閉じた目に降り注いでくるような気がする。

夏、不思議で上質な短編を読みたい方におすすめ。
第32回泉鏡花賞受賞作。


 

湊かなえ「ポイズンドーター・ホーリーマザー」

2019-07-06 | 本・映画・テレビ
ずっと積ん読になっていた、湊かなえ著「ポイズンドーター・ホーリーマザー」 (光文社文庫) を読んだ。
湊かなえの短編集で、人と人、特に家族のなかでの関係性を、密度の濃い文体で裏から暴き出すように描き出す。

全体のトーンはどちらかと言えば重く、誰かが死んだり殺されたりする場面も多々ある、いわゆる「イヤミス」だ。
ではあるが、
読み進むにつれ、どの話もそうそうありえない設定であるのに、なぜか自分が通ってきた道を思わず振り返りたくなるような普遍性が感じられて、一気に読んでしまう、と思う。

タイトルには「ホーリーマザー(聖母)」とあるけれども、この本を読み解くキーワードの一つは「毒親」である。ネタバレになるので詳細は書かないけれども、我が子を支配するとは、あるいは愛するとはどういうことであるのか、人への思いというのはどのように届けたらよいのか、そんなことを考えさせられる。

「善意と正しさの掛け違いが、眼前の光景を鮮やかに反転させる」(本書カバーのコピーより)。

WOWOWで連続ドラマ化されているらしいけれども、私は観ていない(というか観られない)。ではあるが、WOWOWのHPで予告編やキャストを見ることはできる。
どの登場人物も難役だと思うが、ホーリーマザーは寺島しのぶなのか。
なるほど。

加入している方で興味があれば、怖いもの見たさでぜひ!

 
 



「ミッドナイト・イン・パリ」

2019-05-11 | 本・映画・テレビ
ウディ・アレン監督の映画、「ミッドナイト・イン・パリ」。ようやく観た。
 
監督の分身的な主人公、アメリカ人の脚本家ギルが、婚約者とその両親とともにパリでバカンスを過ごすうち、真夜中に突然、「古き良き時代」のパリへタイムスリップして…という作品である。
 
観ている我々も、ギルと一緒にパリを、そしてタイムスリップを経験するのだ。
まだ、911やシャルリ・エブドなどは起こっていないパリ。どこを歩いても魅力的なその風景にはやはり憧れるし、またセーヌ河畔をあてもなく歩いてみたいと思うが、
そんな中でもし訳がわからないまま、目の前にヘミングウェイやピカソ、ロートレックが現れたら⁇
 
映画を観ていると我々も彼らに出会うのである。あの、「昔の写真で見たことのあるパリのサロン」で、あるいは「マキシム」で、である!
 
にしても似てる。
…って、もちろんウディ・アレンだって彼らに会ったことはない訳だが、出てくる登場人物って、きっと実際こうだったんだろうなーと思える作り。
ダリとかピカソとか、そうだろうなー。今だから巨匠だけど(いや当時もか)、直接会ったら、何この人!??っていうヒトもいたのだろうなあ。と思える。 
 
ラストは批評する人もいるようだけど、私はそんなに違和感を持たなかった。
ヒトは誰かと話して変わっていくのだ。思いのたけを、素直に誰かに話すことができたら、もうその人にとっての次の一歩が始まっている。
パリは、そこにいたいと思う人にとって、次の一歩を踏み出すための何かを与えてくれる街なのだろう。

この映画では、火事になっていないノートルダム寺院も見える。
非常事態で銃を持った軍人が目立ったり、道路で車が燃やされていたり、黄色いベストを着た人が多数集まっていたりするような、今、我々がしばしば目にするシーンは出てこない。

移りゆくパリの風景。この映画はいろいろな時点でその眺めをピン留めしてくれるような作品である。

 

"Brexit: The Uncivil War"

2019-03-31 | 本・映画・テレビ
"Brexit: The Uncivil War"を観た。
2016年のイギリスでのEU離脱を問う国民投票で、離脱派の運動を指揮したドミニク・カミングスを、あのベネディクト・カンバーバッチ様が演じた2019年のイギリスのテレビドラマである。
同意なき離脱が現実味を帯びてきたからか、スターチャンネルで、番組変更の上で無料放送として解放されているのを知り、急遽鑑賞することに。
 
観初めて・・・
 
 
あああっ、カンバーバッチ様の頭髪がーーーー!!!
 
 
・・というのは置いておくにしても、
 
なかなか示唆的なドラマだった。英国内では、表層的だなどとする批判もあるようだけれども、現在の混沌とした状況をふまえながらこのドラマを観れば、やはりどの立場に立っていても、Referendum当時、"知らされていなかったこと"があったのだろうかという思いが深まるように思う。
 
私は政治には疎いし英国に詳しいわけでもないし、Brexitについて何か言及できる立場にはもちろんまったくないけれども、ここで描かれているように、政治的な重大な決断が、何か"知らない間に起こっている人為的な誘導"によってなされることもあるのだろうかということは、他の(あるいは我が国の)例を挙げるまでもなく、我々も常に意識しておかなければならないのだなと改めて感じた。
 
背景としてベートーベンの「歓喜の歌」が流れるところは皮肉か。
ドラマ内でのキャンペーンが進むにつれて次第に英国内での分断が露わになるところでは、"The Divided Kingdum"という言葉を思い出されて少し慄然とする。
 
Brexitが今後どう着地するかはわからないけれど、Brexit後には、また別のドラマが作られるのだろうか。

たまっていた録画番組を観る・その2

2019-02-11 | 本・映画・テレビ
続いて
今年1月14日放送の、NHKスペシャル 「"冒険の共有" 栗城史多の見果てぬ夢」。

自撮りしながらの登山をネットで配信し続けて大きな話題と批判を呼びながら、35歳でエベレストで亡くなった「登山家」、栗城さんの記録だ。

栗城さんが活動を始めた頃について、「栗城さんの映像は、山を知らない多くの人の心をとらえていきます」というナレーション。
ネット中継される映像を通してしか「山」を知ることのない多くの人々が、彼の挑戦から「勇気」「元気」をもらったに違いない。

逆に、山を知る、いわゆる専門家という方々からは彼はいわば異端と捉えられていた。
そのやり方を「単独無酸素」と称することに厳しい批判も寄せられ、また一般からのアンチも多く、ネットが炎上状態となることもあった。

何度もエベレストに挑戦するも登頂ならず、4度目のエベレスト挑戦では重度の凍傷から9本の手指を失う。
その過程で、それまで応援し続けていたネットユーザーから次第に落胆や批判の声も上がり、「関心」が失われていった。

そして8回目のエベレスト挑戦。
彼本人が、「エベレストはこれで最後」と決めていたという。
彼の死の直前の映像が紹介され、この後に待ち受ける運命を思うと心が痛む。
しかし、指を失った身で、無謀と言われながらも最難関ルートでの挑戦に挑んだのは彼の選択だ。
最後、体調を崩して登頂を諦め下山する途中、栗城さんは滑落して命を落とした。

番組中、「私たちNHK」「私たちマスメディア」というフレーズが何度もでてくる。
求められているように、彼を駆り立てていたのではないかとも言われるマスメディアが自己検証を行う番組なのか、と、最初は思った。

しかし、数々の登山での登頂や失敗のつど、ネットから寄せられた数多くの応援や期待の言葉を見れば、
彼を追いやったのはマスメディアだけではなく、善意で彼を励ました無数の「我々」なのかと思える。

彼が生き、挑んでいたのは山そのものというよりも、「冒険の共有」、すなわちネットでの共感という、実体のない壁であったのだろう。

結局、番組中で、NHKやマスメディアについての自己批判にはほとんど触れられなかったように思う。


彼は、「登山家という重圧」から解放されるために、山に登っていたのだろうか。

ご冥福をお祈りいたします。

NHKスペシャル 「"冒険の共有" 栗城史多の見果てぬ夢」