ミニマリスト、アンチ

2014-01-24 20:04:03 | 日記
ミニマリスト なるものが流行っているようだ。私は彼らが薄気味悪い。
かく言う私も、物はあまり持っていない。寝袋で寝ているし、部屋には机と椅子と本棚くらいしかない。これには必然がある。私はやがてこの部屋を去り、ひょっとすると仕事のために家のない生活を送らねばならないかもしれないからだ。物はなるべく少なくしておくことが必要だ。


ミニマリスト的な部屋の初見は、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる、綾波レイの部屋だったと思う。
「綾波の部屋は本当にコンクリート打ちっぱなしなのか?」
なんて内容のブログを書く人もいるくらいだから、彼女の部屋が気になる人もいるいのだろうか。
他に物が無い部屋といえば、修道士の部屋だろう。確かに、物がない部屋には惹かれるものがある。落ちついた感情、冷静、ミステリアス、諦観、瞑想、超然、そして悟り。禁欲という言葉が似合うミニマリストや綾波レイ、修道士の部屋には、驚くほど物がないけれど、ミニマリストと修道士の部屋には決定的な違いがある。


禁欲は英語でasceticismと言うが、これはギリシャ語のアスケーシスに由来する。修道院たちは物を捨てまくることが大事なのではなく、ある1つの物事を追求するために他のあらゆるものを棄てて行くのだ。彼らにとっては神だった。プロスポーツ選手を禁欲的だと言うことがあるが、これも筋肉の動きを追求するために衣食住を含めたあらゆるものが1点に収斂する、アスケーシスなのである。


一方で自称ミニマリストたちはどうか。彼らが1点に向かっているとは思えないのである。成人として一点に向かうものは今の世の中ではふつう「仕事」と呼ばれるが、仕事のために物が少ない生活をしているようにも思えない。往々にして、彼らは自分の生活に洗練を見ている。部屋の画像や洋服の画像をウェブサイトにさらすのは、この洗練の自意識が大きいように思う。彼らが好むものはゲームや漫画である。結局彼らは1点に向かわない、カラッポのお洒落を気取る恰好の悪い人々なんじゃないか、と思う。修道士のミニマリズムは、やがて神へと収斂する「凝縮」を意味するが、ミニマリストのミニマリズムはただ欲望を押さえこむ「縮小」を意味している。ミニマリストが流行ったり、草食系なんて言葉が流行るというのは、何か危機的なものを感じる。オリジナルのないコピーをボードリヤールはシュミラークルと呼んだが、このいい例がミニマリストなのだろうか。

10/24

2013-10-19 12:27:40 | 日記
四福音書のマグダラのマリアに共通しているのは、彼女がイエスの死のそばにいたということである。七つの悪霊から解放された彼女の表情を思い浮かべることは難しい。しかし、何より彼女の行動が、その苦しみと喜びを表している。とくに、ヨハネ福音書の、マリアとイエスが邂逅するシーンは劇的で、福音書中、最も私に訴えてくる。復活したイエスは園丁に見えるほど、何ら光輝に溢れてはいなかった。なのにマグダラのマリアの名を呼ぶと同時に、飽和する光のイメージが私を襲う。これは、マグダラのマリアに差した光に他ならないのではないか。20.11、マグダラのマリアは泣いていた、この涙は女らしい感傷的な涙ではない。彼女は声も出さずに泣いていただろう。イエスの絶叫で結ばれた彼の十字架での死を、そして埋葬を、マグダラのマリアははっきりと見ていた。それでも、朝早く、彼女はイエスの墓所へと歩いてゆく。ガリラヤからエルサレムまでの道のりを歩いて来たように。けれど今、彼女のうつろな瞳からは静かに涙が流れている。
モローの「ゴルゴタの丘のマグダラのマリア」ーーこの製作年不詳の木版に描かれた光景は、ヨハネ福音書のイエスのマリアの邂逅に相応しい。マリアが一人、ゴルゴタの丘に登ったという記述は四福音書中には見られない。だが、モローのマリアは、その日の夕暮れ、人気のないゴルゴタに登る。彼女は足を投げ出し、荒れた大地に座り込んでいる。復活を暗示する微光?ーー確かにそれは光だろう。けれども、彼女はなんとも言えない不思議な表情をしている。それはイエスから離れている彼女自身の内的な何かであり、復活の暗示などを思わせない正体だ。彼女は十字架から少し離れて座っている。その姿は悲惨に暮れているのでもないし、呆然としているというのも違う。イエスの血痕に触れようともせず、なのに彼女はイエスととても近いように感じられる。彼女は何も見ていない。イエスとの昔を懐かしんでいるような静けさがこの絵に溢れている。けれども、無惨に死んでいくイエスと、それを前に見守ることしかできかなった無力、これを前にしてもこれほどの静けさ、幸福のようなものを感じさせるのは何故か。それがイエスとマリアの関係なのだろうか。四福音書の記述は抜きに、この絵のマリアは泣いていないのだ。やがてこのマリアも、朝日のなか復活したイエスと邂逅するのだろうか。書きながら私にはどうも違うように思われて来た。ここに描かれているマグダラのマリアは、娼婦でも、悪霊に憑かれた女でもなく、ただイエスを愛した、イエスの弟子であり、友であり、女であり、そのどれでもあり、どれでもなく、何とも言いあらわせないものであり、それがイエスがマリアに与え残したものなのだろうか。ただ、この油彩画は不思議と私の心を打ち、マグダラのマリアに強く私の心を向かわせる。マグダラのマリアは聖書から出て1人の愛すべき女になる。

10/16

2013-10-16 22:08:59 | 日記
私はいつも青を求めてきた。
音楽を聞くことは青を見るために他ならなかったし、絵画や写真は青であれば内容に関わらず好むところとなった。
部屋に1人でいるとき、私は青となっている。ゴルトベルクの第25変奏、リストのコンソレーション第3番、ショパンのノクターン8番、モーツァルトのピアノソナタ12のアダージョ……太陽が沈み、月も未だ輝かない短いひと時……昼と夜の狭間、あっという間に闇に呑まれてしまう、静かで少し悲しい青。
私は青となりたい。しかし一番優れているのは緑だ。緑がなければ世界はなんとも味気ないと言ったのはサンテグジュペリだったか。星の王子様のようなクソ小説を書く男でも、優れたことは言うものだ。緑となるには、黄色が必要だ。黄色……笑顔に隠されたかなしみ。意地は悪くないが優しくもない色。か細い強かさ。
青と青が混ざっても、いっそう青は深まるだけだろう。青は沈黙、黄色は歌声、緑は談話。ああ、青に還りたい。いつでも、青は私の還る色だ。青と混じって美しい色になるのは、黄色くらいだろう。白は色なのだろうか。白を見たことがない。
海をまだ見ぬ人にとって、青は空でしかないのだろうか。けれど、海を見て「青い」と感じることはないように思う。青いのは、水中だ。溺れたこともないのになぜ水中を知っているのか。また水辺だ。水辺は辿りつくした。けれど、青の美しいのは潤いがあるためでもある。台風の日、空は灰色だったが、世界は青だった。それは雨の水気のために他ならない。

ああ、これって「薄明」と言うのか。おお、ヘルダーリン!けれど私の言う青は薄明とも違う気がする。もっと亀裂的だ。太陽は完全に失われているし、闇も未だ来ない。明るくないし、暗くない。モーツァルトのような美しい矛盾。

9/29

2013-09-29 00:48:13 | 日記
何かがあると思っている。
繋いだ手、視線、表情、些細な日常の出来事、一緒の布団に入ること、結婚、増えていった記憶、全幅の信頼ーーどこにあるのかはわからない。それが強烈なものだということは分かっている。芥川の言う紫の火花を求めているのだと思う。それをものに求めるのか、肉に求めるのか、魂にもとめるのか、感情にもとめるのか、多様ではあるが、肉にもとめることはとっつきやすく、またその手応えも群を抜く。お手軽なのである。のみならず、相手が女性であるからたちが悪い。かつてそれは母であり、妹でもあったろう。永遠の他者。かといって男性を選べば、一層手続きは煩雑になり、また自ら苛む。母親は影のこととねの如く。女性をおいて火花に歩み寄るには、特殊な魂の修練がいる。彼は人からは孤立する。しかし、それは彼に何ら問題ではない。

何かとは何か。恍惚、愛、魂の疼き……どれも足りない。言葉の持つ欠陥のため、言い表せない何か。右手をあげてみよ。死んだ命令形。右手を動かすな。この死んだ命令形を以てしても、右手を動かすことができる。言葉を差し置いて流動する。何かは意思と近い。言葉をもって開拓することはできる。けれど、言葉という道具だけで開拓するには、アフリカは広く暗い。感情や、感覚。情熱、憧れ、Sehnsucht 私の言う何かは、こっちに近い。けれど、これは他社貢献の的には当たらない。私は全く孤独になる。無いも同じである。
しかし、波動。目の前を歩く人々が、無いのと同じように、波動は無い。ある、という思い込み、安心感に築かれる世界。ここに、精神を働かせて輪郭を多少はっきりさせたところで、私が呼吸し、命を殺して栄養を摂取し、排泄し、眠るという不可欠な単位は何ら変わらない。私は顕微鏡で日々を覗かない。やはり、欠陥を有するこの眼球でもって知覚するのだ。欠陥を有する、というのは言葉だから、対義が想定される。想定されてしまう。ここで、完全を連想することは可能だが、ここに惑わされるのはドクサだ。だから、何かを想定することも、ドクサではないのか。日々の感情の不足や間違いから、何か完全な感情があるという言語的誤解。いずれにせよ、女を抱くことはてっとり早い。しかし、熱のある言葉を交わし、耳のそばから、からだが疼くような躍動的な会話をすることの困難と同じく、女を抱くことに火花を求めることは艱難を極めるだろう。そこにはどうにもならない人の意識の上に、(あるいは下に、あるいはどこかに)我々の経験や知覚を超えた波動があるだろう。もはや我々は祈るしかない。あるいは、分相応という諦観を用いるしかない。しかし、私はこのような自己意識的な生臭い諦観を断固拒否する。

9/14

2013-09-14 22:20:05 | 日記
水のイメージに引きつけられていた(いる)。
水中の写真、水の中で光が差しているイメージ、あるいは水の底に落ちて行くイメージ、水にまつわるもの、ミレーのオフィーリア、トニ・フリッセルの水辺の女性。

高校時代に「新世紀エヴァンゲリオン」を見て、水のイメージはさらに衝撃的に焼き付いた。LCLという羊水に溶けるという一種の母体回帰を、1人の少年と1人の少女が拒絶して現実を生きて行くという、尻の青い物語を、キリスト教的衒学と斬新な手法で紡ぐ、駄作もいいところのアニメである。結末らしきものは無いといっていい、スタート地点で終わる空っぽの作品。これを見て人が躍動することはあるまい。この太宰の『人間失格』的香りが、私は大嫌いだけど、見ていた18歳の頃は、僕は人に愛されることに慣れてないだけだ、僕はここにいていいんだ!と何の能もないクズ人間の絶叫に、熱中したものだった。このアニメを恥ずかしさなく見る事ができる大人などいるのだろうか。結局キリスト教的謎掛けはうっちゃって、人類は18番目の使途だったのよ、他の使途は別の可能性だったの、なんじゃそりゃ、地上波では自己との対話に終始し劇場版まで引っ張って、結局マザーコンプレクスで終わってしまうのは、つまらないのである。

「原郷喪失感」という言葉が衝撃だったのだが、この言葉を出産や楽園喪失のアナロジーで考えるのはまことに面白くないのである。母親は最初の他人だろう、知覚の世界に依拠すれば母親は私を創世した神だろう、だからなんだということである。私なるもの以上(あるいは以下、あるいは以前、あるいは以後)を眼差さない(あるいは沈潜しない、あるいは遡らない、あるいは祈らない)極めて限定的な文脈しか鼓動しない。

羊水の成分は海水と酷似しているという。水辺の不快感について考えていたのだが、人様の風呂場やプールが気持ち悪く感じることがある。遥か昔、羊水という暖かい水に包まれていた人間は、その記憶をどこかに持っているのだろうか。で、羊水というのは暖かく、孤独な場所である。水辺の不快感には、人的他者性、温度的他者性が関係しているのではないか。水を抜いた風呂場とプールには人的、温度的他者性の両方が顕在している。孤独で完全である羊水的均衡を侵略する他者性の顕著ではないか。
私の生まれなどという、いまだに私なんか考えている。生きやすいものだ。そろそろ学生も終わる。_

汐留のモロー・ルオー展に行ってきた。昨日寝る前に、遠藤周作の本を読んでいたら、マグダラのマリアが出てきた。だから、行ってきた。残念ながら出現はなかった。私の目に、ゴルゴタの丘で血に汚れた十字架の下にひれ伏すマグダラのマリアの悲し気な空が焼き付いた。そして、パルクと死の天使は、私を打ちのめした。間近で見て分かったのは、この絵に救いはないということ。パルク、死の天使と彼女の股がる馬、山の峰、青い空、真っ赤な月、星、全てがかなしみの翠に濡れている。ただ、天使が携える大剣だけが、留まらず顧みない死を裁断していた。……