8/27

2013-08-26 03:23:53 | 日記
学生時代の頃、とても肌の荒れたある女の子が好きだった。
綺麗な栗色のワンレンをしていて、細かい花柄のネイビーのワンピースや、スキニーパンツにパンプスを履き、黒い革のトートバッグなんかを肩にかけている、そんななりをしていた子だった。身長は女の子にしては高く、健康的に肉が付きつつもすらりとした、都会的なスタイルである。顔が少し大きめだった。彼女の肌は荒れていた。近くでまじまじ見た事はないからはっきり分かるわけではないが、顔全体に細やかなニキビがあって、多分色素沈着とかも起こしていたと思う。陥没しているのではなく、ぼこぼこしている様子だ。目鼻立ちははっきりしていて、もう少し顔が小さかったらモデルにだってなれそうな顔立ちだと思われた。それでも、私が今まで見て来た女の子の誰よりも、肌は荒れていた。私は教室の一番後ろの席だったけれど、遠くからでも彼女の肌荒れは分かった。
彼女は一番前の席にいつも座っていた。授業中の彼女の気迫は、クラスの中で誰よりもはっきりとその背中に現れていた。ペンを持つ手に力が入り、俯きながら目は見開かれ、ノートや教師に向けられていた。優秀そうではあった、成績なんて知らなかった、そんなことより何よりも、その熱心な姿勢に好感が持たれることは間違いなかった。
言うまでもなく、私は彼女が気になっていた。話したことも目があったこともなかったけれど、彼女は魅力的だった。何より、彼女の顔が好きだった。私にとって彼女はとてもセクシーな女性だった。理由はなかった。

授業中、一番後ろの席の私は、熱心にノートを取る先頭の彼女を見つめながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。彼女はどんな気持ちで毎朝鏡に向かい化粧をしてくるのだろうか、と。私は馬鹿だったのだ。彼女は少し、変わっているのではないかと信じていたのだから。彼女は目の病気なのでも自己イメージが狂っているのでも鋼の心臓を持っているのでもない。この世にたった1人に過ぎない人間であり、さらにはまだ女の子だった。平等に現実を生きている数十億いる人間の1人だった。そして、可愛らしい美やら、母なるものやら、孤独(not solitude but loneliness)、虚栄心や、嫉妬、そんなものを抱える1人の女の子だった。

数年後も、私はたまに彼女のことを思い出したりした。そして、彼女を好きなのは、ひょっとしたら自分が彼女を優越しているからではないかと思い至った。彼女は当時の私にとっては大人っぽく魅力的だったが、彼女の荒れた肌に触れたり、口づけすることを妄想していた健全な思春期男子の私は、そのとき彼女が可愛く思えたのだ。その愛らしさは、勝者の余裕なくしては生まれ得ないだろうということを薄々感づいてきたのだ。彼女のような聡明な女性なら、私のような卑怯な男とつき合うかもしれないとなれば、なんとなくそれを嗅ぎ付けて、去って行くに違いない。そんなことを考えた。

彼女は今でも私の中で魅力的な女性の1人だ。思春期も過ぎた今、肌にも美しく紅を差し、亜麻色に染め上げた髪をなびかせて異様に高いヒールを履き、華々しく着飾って、匿名的な美人の1人として雑踏に紛れ込んでいるのかもしれない。あるいは、相変わらずキツい現実を受け止めながら颯爽と歩き続けているのかもしれない。どちらにせよ彼女は美しい。このような薄汚い手で彼女のことをタイプされるのを、遺憾にも思う。かくして美しい彼女は、私の美しくはないけれどガラスの破片みたいな思い出となって、煙草をふかす時などに思い出されてゆくだろう。

8/20

2013-08-20 02:34:51 | 日記
突然現れた雲によって、その日の夕暮れは複雑な色をしていた。雨の匂いが、焼けつくアスファルトの上で膨れ上がった。黒い西の空では雷が鳴った。そのうちに夕立がやってきた。人々の期待を裏切って、夕立は暑さを洗い落とすことはなく、むしろ暑さに飲み込まれてしまった。厚い湿り気が皮膚を圧迫した。夕立は間をあけて思い出したように降り、日が落ちてなおも続いていた。黒い傘を差して、駅から家までを歩いた。傘の柄が掌に感じられた。よく注意すると、肩には鞄の重さがあり、足や胴には服の感触があった。現実感はただ接触だけに支えられ得るか?否、そこには承認が必要になるはずっだった。…人気のない林道の木々の、隆盛を表す茂った葉には街灯が埋れ、潰れた光を放った。傘の縁からは、白く光る水のしずくが過去のように輝き落ちた。

強い風が吹く。暑さは風に包まれて皮膚の上に、多くない痕跡を残して滑ってゆく。太陽は光を飽和させ、自動車の忙しく行き交う街並みに怠惰の色を含ませた。街路樹の百日紅は弾けたように花をつけ風に洗われた。その白い花の房が揺れる様に、私は何処にいるのか分からなくなった。なおも風は吹き、白い花の欠片を吹き飛ばした。そこで、私は水の底にいたいと思っていたことが分かった。かつて真冬の夜更け、何もかもが死んだ世界で、誰も未だ足を踏み入れていない固い雪の上に寝そべって、金色のぼやけた月だけが、揺らぐように輝いていた時のように。私はあの時も、水の底にいた。白い百日紅の海藻が水流に揺れる温度のない海底に、私はなおも暮らし続けている。

暑さに耐性のない私は、なるべく冷房の効いた室内で夏を越すことにしていた。8/17日、私はもう夏がいつ終わるかと待ち望むことにも飽きて煩雑な日常にかえってしまっていた。約束の時間まで電車の中で本を読んだ。下車する駅を越えてもなお本を読み耽った。そろそろ引き返すべきだと思い5つ先の駅で降り、反対側のホームに向かった。午後のこの時間、ホームには誰もいなかった。私はホームの端に置いてあるベンチまで歩いて、そこに腰を落ち着けまた本を読み始めようと思った。ふと目を上げると、遠い街はぼんやりと霞んで、いかにも退屈で美しい夏のひと時だった。緑の濃い森が風にざわめいた。開きかけの本を置いて、私はその景色に目を細めた。次の電車がやってくるまで、私はこの美しさに一人で浸り続けた。その後家に帰って、寝転がって本を読んでいたら眠ってしまい、目を覚ますと夜であった。寝ぼけた頭でじっとしていると、耳に虫の声が届いた。起き上がって窓を開けると、暑さはなくなっていた。次の日には、空が高くなり、光が薄くなって、秋になっていた。

8/8

2013-08-08 13:52:23 | 日記
よくよく注意してみると、嫌いなものは、本当は好きなものであることが多い。テレビゲームで人を殺すことに慄然とした当時の私は、このことに気づくと、何か脱力にもにた重みを感じた。信仰なき菜食主義者は流行り廃りと関わらずこれからも一定数存続するだろう。欧米の浅薄な健康主義と別なところに、その源泉は見出せる。すなわち、穢れなきものへの憧れ、ひいて同一化、というおごり。植物を食して排泄することは君たちの感受性に微塵の激痛も与えないのか、という疑問への回答の如何はさておき、彼らが傲慢であるのに疑いはない。肉を引きちぎり血を滴らせることは、自らを獣に貶める謙譲を意味するのだ。かといって、非菜食主義者であっても、どこかのだれかが喉をかっ捌いて殺した牛やら豚やらを、手を汚さずに食っているのであって、五十歩百歩ではあるけれども。いかにも、自らに堪え難いものを認めることは、存外に時間のかかることである。例えば、私は変態だ!ということを真顔で(自分自身に)言えるようになるには、人は性が目覚めてから数年、あるいは数十年要することさえあるようにも思われるのである。あるいは、それを客観的に把握するつまり言語化するには、それなりに時間がかかるらしい。
『異邦人』を初めて読んだのが数年前、最近カミュ全集を買って『表と裏』『結婚』あたりのエッセイを読んでいるのだけれど、どうにも好きになれないように感じていたら、これはカミュに対する怨恨が少なからずあるらしいと思い至った。太陽の子、という表現が出てくるけど、私はもはや決して太陽の子ではないからである。太陽の強烈な光に陶酔するような時間は、思い返せば私は幼少期でおしまいなのだ。今の私の表現はカミュに則ったものであるけれど、太陽の子に対する羨望がにじみ出ている。もう私は金輪際、太陽の中で健康な肉体をむき出しにし、褐色の若い女に見とれるようなことはないだろうし、海水を口から吹き上げて太陽のヴェールに笑うこともないだろう。私が思い描くのは、フリードリヒの「海辺の修道士」的生活だ。……北の海は孤独で、そこに立つ人間をも孤独に抱き込む。彼は灰色に滲んだ海と対峙する。水は冷たく人を拒むが、それは生命の源である母なる海だ。かつての母は彼を拒む。彼は漂白してこの海辺に辿り着いたのだ。そして、今やっと、彼の孤独が大いなる自然に与えられていたことを知り、孤独にかき抱かれた彼は淡色の安堵と承認を納得する。降り出した雪が、無音のままに深い潮の水に溶け込む。そのゆっくりした速度と同じくして、彼は自分の存在の輪郭を、降る雪の間隙に溶け込ませてゆくのだ。……
いかにも、私は太陽に焼き尽くされた大地ですべっこい拳銃を手に取ることを望むのであり、自然と無言で対峙する北で、数学的迷走に耽りながらじっと沈思することを望むのである。

8/6

2013-08-06 01:44:22 | 日記
デカルトの『省察』(に限らず、哲学書)を読んでいると、暗い巨大な建築物の中をロウソク片手に彷徨っているような気分になる。手元の明かりを近づけてみれば、精緻な意匠の施された見事な模様が浮かび上がってくるが、あまりに大きいので、その見事な建築の全貌を見通すことは難しい。
巨大な建築。私は死んだらGeistの宮殿に昇ることを夢想するけれども、この宮殿という言葉には、規則性や法則性、理性や悟性が彷彿とされる。理性は人の専売特許では勿論ない。それは自然にしばしば見出される。人体の構造から、雪の結晶、電子の運動。

何か終わりがあると勘違いしていた。どうやら持続という概念が私に乏しい。ベルグソンを読む。

8/3

2013-08-03 18:10:02 | 日記
ジェイムスの『宗教的経験の諸相』 波動で買った本。タイトルや装丁を見て分かるほど私は達人ではないけれども、目次を読めばいい本かどうかの見当はつく。モーツァルトの弦楽四重奏のアルバムを買った。アルティスカルテットの演奏、500円。Allegroの速度はいいけれども、ダイナミクスに慣れない。と思ってネット上でスコアを見たら、(K516のスコアを売ってる楽器屋を見た事がない……)見事に指示記号に忠実だった。そりゃウィーンだものな、でもアマデウスカルテットやハイフェツの演奏に聞き慣れてるから、「ここはフォルテだろ」とか思ってしまう。この問題はそんなに簡単ではなく、それこそグールド抜きでは語れない。奏者とは一介の再生装置に過ぎないのか…かつて私も楽譜など無視して好きなように演奏していたことがあった。それがいかに曲の魅力を損ないおこがましいことであるかを悟ったのは、小林秀雄のK550を聞いたときだ。正にAllegro それもassaiでなければこれを表現する事はできない、と思った。コープマンやヴァントではてんで話しにならない、カラヤンでもまだ遅い、フルトヴェングラーやワルターのコロンビア録音でなければダメなのだ。トグネッティやアンソニー・コリンズのロンドンシンフォニアでなければダメなのだ。速い曲だけが好きなわけでもなく、グールドの’55ゴルトベルクの25番なんかは大好きだ。大久保喬樹はこれを痛ましい孤独の歌と呼ぶ。グールドの伝記だか研究所に孤独のアリアとかいう本があるけれど、全く読む気になれない。それこそ20世紀の文学や心理学がたっぷり注入した毒に参ってしまうようだ。でも大久保が孤独の歌、と書けば25番が大好きになるのだから不思議なものだ。気品や冷静さ、それこそsolitudeなのであり、lonelinessではないのだと書いてて思った。水平と垂直。

雨用の靴というのは全く難しい。まず私はスニーカーは履かないので、そこから困難になる。水に濡れるから木靴は腐ってだめになる。バイト先の床がタイルでコツコツと鳴り耳障りなので合成皮革でも踵が固いといけない。よってゴム底のブーツを選択した。まあ普段が革靴なので、雨の日は少し違う恰好をしたいのもあった。クレープソールは、まず夏場は履きたくないし汚れも目立ってくる。ソールは減るし何より滑る。雨用といってもアルバイトで週に3日は履くのだ。5000円以下は大抵合成ゴムのソールなはずなのだけれど、やはりこの値段になってくるとどうにも下品な靴ばかりになってくる。
そこで今目をつけているのが無印良品のデザートブーツ。ソールがどうやら合成だし、無印とだけあってなかなか形も上品である。