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2013-09-29 00:48:13 | 日記
何かがあると思っている。
繋いだ手、視線、表情、些細な日常の出来事、一緒の布団に入ること、結婚、増えていった記憶、全幅の信頼ーーどこにあるのかはわからない。それが強烈なものだということは分かっている。芥川の言う紫の火花を求めているのだと思う。それをものに求めるのか、肉に求めるのか、魂にもとめるのか、感情にもとめるのか、多様ではあるが、肉にもとめることはとっつきやすく、またその手応えも群を抜く。お手軽なのである。のみならず、相手が女性であるからたちが悪い。かつてそれは母であり、妹でもあったろう。永遠の他者。かといって男性を選べば、一層手続きは煩雑になり、また自ら苛む。母親は影のこととねの如く。女性をおいて火花に歩み寄るには、特殊な魂の修練がいる。彼は人からは孤立する。しかし、それは彼に何ら問題ではない。

何かとは何か。恍惚、愛、魂の疼き……どれも足りない。言葉の持つ欠陥のため、言い表せない何か。右手をあげてみよ。死んだ命令形。右手を動かすな。この死んだ命令形を以てしても、右手を動かすことができる。言葉を差し置いて流動する。何かは意思と近い。言葉をもって開拓することはできる。けれど、言葉という道具だけで開拓するには、アフリカは広く暗い。感情や、感覚。情熱、憧れ、Sehnsucht 私の言う何かは、こっちに近い。けれど、これは他社貢献の的には当たらない。私は全く孤独になる。無いも同じである。
しかし、波動。目の前を歩く人々が、無いのと同じように、波動は無い。ある、という思い込み、安心感に築かれる世界。ここに、精神を働かせて輪郭を多少はっきりさせたところで、私が呼吸し、命を殺して栄養を摂取し、排泄し、眠るという不可欠な単位は何ら変わらない。私は顕微鏡で日々を覗かない。やはり、欠陥を有するこの眼球でもって知覚するのだ。欠陥を有する、というのは言葉だから、対義が想定される。想定されてしまう。ここで、完全を連想することは可能だが、ここに惑わされるのはドクサだ。だから、何かを想定することも、ドクサではないのか。日々の感情の不足や間違いから、何か完全な感情があるという言語的誤解。いずれにせよ、女を抱くことはてっとり早い。しかし、熱のある言葉を交わし、耳のそばから、からだが疼くような躍動的な会話をすることの困難と同じく、女を抱くことに火花を求めることは艱難を極めるだろう。そこにはどうにもならない人の意識の上に、(あるいは下に、あるいはどこかに)我々の経験や知覚を超えた波動があるだろう。もはや我々は祈るしかない。あるいは、分相応という諦観を用いるしかない。しかし、私はこのような自己意識的な生臭い諦観を断固拒否する。

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