10/24

2013-10-19 12:27:40 | 日記
四福音書のマグダラのマリアに共通しているのは、彼女がイエスの死のそばにいたということである。七つの悪霊から解放された彼女の表情を思い浮かべることは難しい。しかし、何より彼女の行動が、その苦しみと喜びを表している。とくに、ヨハネ福音書の、マリアとイエスが邂逅するシーンは劇的で、福音書中、最も私に訴えてくる。復活したイエスは園丁に見えるほど、何ら光輝に溢れてはいなかった。なのにマグダラのマリアの名を呼ぶと同時に、飽和する光のイメージが私を襲う。これは、マグダラのマリアに差した光に他ならないのではないか。20.11、マグダラのマリアは泣いていた、この涙は女らしい感傷的な涙ではない。彼女は声も出さずに泣いていただろう。イエスの絶叫で結ばれた彼の十字架での死を、そして埋葬を、マグダラのマリアははっきりと見ていた。それでも、朝早く、彼女はイエスの墓所へと歩いてゆく。ガリラヤからエルサレムまでの道のりを歩いて来たように。けれど今、彼女のうつろな瞳からは静かに涙が流れている。
モローの「ゴルゴタの丘のマグダラのマリア」ーーこの製作年不詳の木版に描かれた光景は、ヨハネ福音書のイエスのマリアの邂逅に相応しい。マリアが一人、ゴルゴタの丘に登ったという記述は四福音書中には見られない。だが、モローのマリアは、その日の夕暮れ、人気のないゴルゴタに登る。彼女は足を投げ出し、荒れた大地に座り込んでいる。復活を暗示する微光?ーー確かにそれは光だろう。けれども、彼女はなんとも言えない不思議な表情をしている。それはイエスから離れている彼女自身の内的な何かであり、復活の暗示などを思わせない正体だ。彼女は十字架から少し離れて座っている。その姿は悲惨に暮れているのでもないし、呆然としているというのも違う。イエスの血痕に触れようともせず、なのに彼女はイエスととても近いように感じられる。彼女は何も見ていない。イエスとの昔を懐かしんでいるような静けさがこの絵に溢れている。けれども、無惨に死んでいくイエスと、それを前に見守ることしかできかなった無力、これを前にしてもこれほどの静けさ、幸福のようなものを感じさせるのは何故か。それがイエスとマリアの関係なのだろうか。四福音書の記述は抜きに、この絵のマリアは泣いていないのだ。やがてこのマリアも、朝日のなか復活したイエスと邂逅するのだろうか。書きながら私にはどうも違うように思われて来た。ここに描かれているマグダラのマリアは、娼婦でも、悪霊に憑かれた女でもなく、ただイエスを愛した、イエスの弟子であり、友であり、女であり、そのどれでもあり、どれでもなく、何とも言いあらわせないものであり、それがイエスがマリアに与え残したものなのだろうか。ただ、この油彩画は不思議と私の心を打ち、マグダラのマリアに強く私の心を向かわせる。マグダラのマリアは聖書から出て1人の愛すべき女になる。

コメントを投稿