糸遊日記

和裁士の日常を感じたままに

和裁士になるまで④

2020-08-29 16:45:00 | 日記
楽しかった2年目が終わり3年目に突入です。
3年目は会社の中心部分に移動となりました。
①「とうとうその時がきてしまった」
②「行きたい」
と思う気持ちが半々でした。

①は生活環境が悪すぎて行きたくなかった。もう、自由に遊べなくなる。先輩もいる。
狭い建物だった為、仕事場と生活が同じ部屋だった。ホントに夜10:00まで仕事だった。

②は好きな人がいたので運が良ければ毎日会える嬉しさがあった。

「さあ〜どうなるかな?」
と期待❓もあったような⁉️


もう、3年目にはバリバリ袷着尺を縫えるようになっていた。
国家試験があるので必死で頑張ったな〜。

負けず嫌いなのかな?
そこは違ったような気がする。

私が良くやってた事は朝仕事が始まる時に1〜3年上の先輩の進みを確認し、自分よりちょっと先まで進んでる人を見つける。

実力は先輩の方があるに決まってるけど
あえて挑む。笑

「よ〜し、追いつこう」と思うんです。
やっぱり負けず嫌いですかね?

一応、自分では試験の為に無駄なく早く縫えるように訓練してたつもりですが💦

他には目もくれず、自分との戦いだったような❓
終わった時に確認すると先輩を越してたり、追いつかなかったり。「ははは」
そんな事をしてたな〜。懐かしい〜

基本1年目から週末に1週間分の仕事が渡されます。
3年目になったので袷着尺3点くらです。
単純に一枚仕上げるのに1日半位の計算です。
無地の着物なら良いけど、附下げや、訪問着は柄合わせがあるのでそう簡単ではありません。
なかなか頑張らないと休みに仕事が残って
永遠に仕事ばかりになります。

私はそれが嫌だったから一生懸命頑張った所もあるのかな?
だから、技術も上達して認めてもらっていたのかもしれない。

とにかく「頑張った」としか言えない3年目でした。

そんな感じですが楽しかった事もありましたよ。
長期休みの時に同期男女での小旅行。
レンタカーを借りてね。

これは今でも、何回も思い出すような素敵な旅行でした。
あちこち連れて行ってもらったし、すごく楽しかった。ありがとう。って感じです。
最高な思い出です。 つづく

ミニチュア振袖作りましたよ〜
見てください





左の角が命のです。あまり上手にできなかった。まだまだですね。

ぷくぷくしていて可愛らしいく出来上がりました。
お気に入りです










ミニチュアの着物

2020-08-24 11:20:00 | 日記
以前からミニチュアの着物を作りたく生地を買っていたのですが2年くらい置きっぱなし状態になってました

仕事がないのでチャンスと思い、作る事にしました。
さあ〜どうなるかな

あまり考えないでやってみよう
大体の感覚で身頃、袖、おくみ、襟と分けました。

普通のお着物の場合、袖、肩などの山は輪ですが、生地も限られているので裁ち目で接いでやりました。
(ミニチュアだから自由に)

普通のお着物なら失敗しても山で接ぐことはできません。「できたらいいのにね」


袖から縫いました。ちゃんと袖口布付きです。(ピンク)
もう〜小さくて大変です
丸みは4分です。
袖丈をもう少し長くしたかったけど生地が足りなく微妙な丈になってしまった。
でも袖だけでも超〜かわいい💕




身頃は表をおくみまで縫って、裏も裾回し(ピンク)胴裏(白)を縫っておくみまで。

表と裏を合わせていきます。
中とじをして周りの始末をして、裾作り。

裾のは省略して、でぶきだけ出してくけました。「楽チンだったよ。」
お着物の袷着尺はが1番大切な所なの。
1番の見せ所かな?とても大事‼️

襟を付け。(裏襟も)
最後に袖を付けました。

袖付があまりにも短くて大変だった

普通のお着物と縫う順番は変えて好き勝手にやってみました。

私は頭が硬くって、なかなか習った通りの順番を崩せなかった。
珍しく自分でアレンジしてみました
「ミニチュアだもの〜」

襟ももう少し長くしたかったけど、生地が足りなかった。
ちょっと変だけど自己満足です

また作ってみようかな
私って細かい作業が好きみたい

仕上がり寸法
身丈27㌢ 袖丈11㌢ 
裄の総丈(袖から袖まで)30㌢





こんな朝日はしばらくぶりに見た

2020-08-20 11:15:00 | 日記
今年は雨ばっかりの夏です。
ここ4日くらい晴れが続いています。

今朝、静けさの中朝日がホントに綺麗に輝いてました。
さあ、今日も頑張ろうと意気込んだ所でした。

ところがコロナの影響で和裁のお仕事も減ってきていて思うように仕事はできません。
「たまには、休みもいいかな?」とは思ってます。ゆっくりしたいです。

そんななかお好きで何回もお召しになられ、裾が切れてしまった袷着尺の裾直しのお仕事をしました。


仕立て上がってるお着物の直しは大変です。
大切な生地ですので、裾を切ることなく
中に入れ込んで直しました。

はーい、普通に仕立て上がりました。

これならお客様も喜んでまたお召しになってくださる事でしょう。

次は洗い張りをしてまた綺麗に仕立て直す事もできます。

何でも綺麗っていいですね



お盆なので両親の事について 父

2020-08-14 13:27:00 | 日記
母が旅立って父はどれだけ寂しかっただろう。どれだけ困っただろう。

喧嘩の多い夫婦だったけど、父は母を頼りにしていたと思う。

母にかかりっきりだった為、父の事は何ひとつしてあげてなかった。

葬儀諸々終了してから週一で実家に通うようになった。
ご飯、洗濯、掃除、色々と出来ることをした。

父は自営で仕事をしていたから引き続き仕事で母のいない寂しさを紛らわしていたのかもしれない。

父は心臓が悪く薬を服用していた。
ある日、「あれ?病院に行っていない感じがする」と気付いた。
やはり行っていないし、検査も予約してるのに行っていなかった。
忘れていたのだった。

まもなく運転免許の更新で認知症の検査に
引っかかり、病院で認知症と診断された。
免許証は返納となり。仕事もやめた。

ここから認知症の父との付き合いが始まった。

色々なエピソード

*車が使えないので歩き始めた
  
  ある日、朝から徒歩で出かけどこに
  行ったか分からなくて探していた。
  目撃情報があり近辺をさがしていたけ
  だ、見つからない。
  探している時に出会った人が父の知り
  合いで、見かけたら警察に連絡しても
  らうようにお願いして別れた。
  橋のたもとにデイサービス用の袋を発
  見。落ちたのかな?と心配になり警察
  に電話で相談していた。その時に発見
  されたと警察に電話がきた。あの知り
  合いの人が見つけてくれたのだった。
  空き家の後ろで仕事をしていたと言っ
  て手を真っ黒にしていた。
  6月なのに33°の気温、服の感覚も分か
  らない父は薄いジャンパーを着て、汗
  だくで立っていた。「良かった〜見つ
  かって」その時の気持ちだった。
  それ以来、デイサービスは週5日になっ
  た。

*寝室がぐちゃぐちゃ

  寝室のタンスが倒れ、押し入れの物が
  散乱していた。びっくりした。
  父に聞くと兄がやったと。
 「やらないでしょう」と私が言うと拳を
  向けてきた。否定するのはダメだった
  と「あら〜、泥棒でも入ったんだね」
     と言って、「一緒に片付けてね」と言
  ったら素直に手伝ってくれた。
  否定や怒っちゃいけないんだよね?
  認知症は!

*お客さん
 
  実家に行くと。
  お客さんが来てるから昼ご飯を出すっ
  て。「え⁉️誰?」鳥肌が立った。
  「何処にいるの?」と聞くと寝室だ
  そう。益々奇妙になり、怖くなった。
  「こっちに連れてきて」と怖がりなが
  ら言ったら、「そうだね、分かった」
     と父。きゃー誰だろ?マジか⁉️
  連れて来たのは母の遺影だった。
  なんだよ、お母さんか〜と安心したけ
  ど、父は奥さんの事も忘れたようだっ
  た。

まだまだ沢山思い出はあります。
6月の行方不明から2ヶ月後には施設にお願いする事になった。

ところが問題老人の父は精神科の薬を服用しないと施設に置いてもらえないほど手が掛かった。その薬の副作用で便秘が続き
心臓病もあり、入所して7ヶ月で苦しいと訴え入院となった。その日のうちに危篤状態だった。腸閉塞と栄養不足だった。

精神科の薬で、会話もできない程もうろうとしていて、痛い、苦しいも言えないまま、かなりの便秘も分かってもらえずにいた。私が何度か相談したけど聞き入れてもらえず、入院した時、病院の看護師さんがびっくりするほどお腹はカチコチ状態だった。

私も凄く反省した。もっともっと言えば良かった。しかし、お願いしている身としては大丈夫と言われれば何も言えなくなる。

施設の人はどう思っているんだろう?
いつもの事。面倒な年寄りが1人減ってゆっくりしてるのかな?と思ってしまう。

父は私をとても頼っていた。見捨てる訳にはいかなかった。いつまで続くか分からなかったけど最後まで頑張ろと思ってた。
まさか、こんなに早く逝ってしまうとは。
母の三回忌が済んで直ぐの事だった。
私を見かねて母が連れて行ったのかもしれないとも思っている。
私にとってはとてもかわいい父だった。

そっちでは仲良し夫婦でいてね。
あははは、多分無理だね。
ほどほどに喧嘩して仲良くしててね。

お父さん、お母さんありがとう。
  

  


お盆なので両親の事について 母

2020-08-13 21:51:00 | 日記
私の両親は他界しています。
ここ4年で2人共。

母が先に胆嚢癌で闘病して4ヶ月程でした。
24年前に胃癌で胃の四分の三を切除し、その後リンパに転移ありと言うので抗がん剤治療をしました。その胃癌は完治したと思っていたのでしたが。繋がりがあったのか?

ニ度も癌になり、最後は自分が不幸だったような話をされました。

確かに分かる、私でもそう思うかも。
でも、胃癌当時は孫は1人だけだった。
今は6人。
あのとき頑張ったから沢山の孫にも会えたよね?」っと言った。

母はどう思ったかは分からない。
「それはそうだね」っと力ない感じで言っていた。
でももっと成長を見たかった感じ。まだまだ生きたいと思っている感じだった。

私はその時、母がとてもかわいそうで抱きしめながら「頑張ってきたのに、かわいそうだね」と言っていた。

母は沢山苦労してきた。
これから親孝行しようと思っていた矢先。

旅行にも連れて行ってあげたかった。

だからせめても寄り添ってあげたくて病院に入院中は毎日行った。「毎日来なくていいよ」って気を使ってくれた。
緩和ケアの看護師さんに、私に感謝してると話してたらしい。

緩和ケアの看護師さんも私を気遣って「大丈夫?」と聞いてくれたし、話も聞いてくれた。有り難かった。
その度に涙を流すものだからホントに心配してくれた。
1人で毎日病院通いをしていると他の兄弟が病院にあまり来ないものだから母がふびんに思えて仕方なかった。

男と女の違いかな?とは思ってるけど。

最後は癌に勝てなくて逝ってしまったけど母との時間を誰にも邪魔されずに過ごせた事が私には良かったと思っている。

父、兄達を心配して旅立ったと思う。

私には色々な事を託して逝ったと思っている。
その気持ちに応えれるようにしていきい。

お母さんありがとう。みんなを見守ってねっと手を合わせてきた。