以下は、正確な巻号は忘れたが、スウェーデン社会研究所所報の
ネット版に掲載したもである。
裁判官規則あれこれ
スウェーデン社会研究所の所報ネット版に寄稿を求められた。何
か法律にかかわるものという注文もあり、標題のように「裁判官規
則」を選んだ。
裁判官規則は、スウェーデン法に特有なものだといわれている。
このことは何人ものスウェーデン関係者から聞いている。また、実
際にこれを読んでみるとそのユニークさに強く惹かれる。そのユニ
ークさの最大のものは、これがスウェーデン法令集に現在も搭載さ
れていることである。
スウェーデン法に関心をもつ人は、法律に関心をもつ日本人がま
ず六法全書に注目するように、スウェーデン王国法典に注意を向け
る。スウェーデン王国法典については、いろいろ述べなければなら
ないことがあるが、ここではそれを省略して裁判官規則だけを問題
にする。
裁判官規則は、スウェーデン王国法典の一部として現在も印刷さ
れている。従って、どの年の法典をみても必ず裁判官規則か印刷さ
れている。先日研究所の連続講義でジェトロの三瓶恵子さんがスウ
ェーデンでは制定された法律が公布後施行前に改正されてしまう、
とその改廃の激しさに触れたとお聞きしたが、裁判官規則は一度も
そのような改正を受けていない。つまり、王国法典にその掲載が決
定されたときから現在までずっと同じ形で無修正のまま掲載され続
けている。変化の激しいスウェーデン法の中で唯一改正を経験して
いない「規則」なのである。
裁判官規則は、実は法律ではない。ということは議会、スウェー
デンの議会は中世の身分制議会から今日の議会制度へと発展してき
ているが、いずれの議会においても審議を受けていない。つまり、
裁判官規則は法律ではない。法律でない文書が王国法典に採録され
ているということが注目を集める。
現在の王国法典では、裁判官規則に次のような注釈が欄外に簡単
に記載されている。「1734年に王国法典が初めて印刷に付されたと
き、これらの裁判官規則----オラウス・ペトリにより1540年頃作成
された可能性が高い----は『以前より常に習慣であったように』付
録として添付されるべきであると決定された。法典のそれ以後の版
にはこれを採録することがプラクシスになっている。」が全文であ
る。古い王国法典にはこの注釈はついていない。
法律でも勅令でもない歴史的文書が王国法典に載せられていると
いうことがこれでわかる。日本では考えられないことである。
*
上記のように、裁判官規則の作者はオラウス・ペトリであると王
国法典は注釈を加えている。この人物が次に興味を惹く。
ペトリは日本では知られていないけれどもスウェーデンの歴史の
中では重要な役割を果たした人物といわれている。特に福音国家ス
ウェーデンの精神的支柱といってもよい人物という印象が書物から
得られる。しかし、ヘンリクソン教授の「スウェーテン史」の中に
は十分な説明が与えられいない。スウェーデン年代記の著者である
ことと聖書のスウェーデン語訳の訳者、スウェーデン教会の典礼の
作者として索引に登場している。ペトリの銅像は、ストックホルム
教会(Stor kyrkan )と王宮との間の空間に教会を背に王宮に向かって
立っている。
ペトリの裁判官規則についてはアルムクウィスト教授による詳細な
研究がある。それによると裁判官規則は1530年頃にまとめられたも
のとされている。しかし、これとは別にサールグレン教授の研究があ
り、これによる1544年に作成されたとされる。これは古い法令集の
中にペトリが裁判官規則を作成したという事項とこの日付が入ってい
ることに基づいている。このどちらかを決定する証拠はまだないとさ
れる。このことは、インゲ教授の論文の中に述べられている。前記の
王国法典の注釈とまったく同じ記述がインゲ教授の論文の中には収め
られている。
*
ペトリの裁判官規則と王国法典の中の裁判官規則とは同じもので
はない。規則の条文の数を始めとして、大筋ではほとんど同じであ
るが、此処の規則の文章にいくつか大きい相違がある。王国法典の
裁判官規則は1640年代にストックホルムで出版されたドイツの法
律書の翻訳に付録として添付されていたものである。
この翻訳を行った人は、シュロデーロという人物で、現在その詳
細はわからない。Wikipedia というンターネット上の人名辞典から
調べても、この人物については情報がないので是非提供して欲しい
というメッセージに出会うだけである。スウェーデン法制史の領域
にはもう一人シュロデーロという有名な人物がいるが、この人は後
に貴族に叙されてシュッテと改姓している。この二人は別人のよう
である。
ペトリの裁判官規則と王国法典の裁判官規則とがどのような関係
にあるのか、筆者の不勉強で手許には何の情報もない。また、シュ
ロデーロがどういう意図で裁判官規則を自分の訳書の付録として印
刷したのかその経緯もわからない。アルムクィストによると原典に
近いとみられるものはスカラ(Skara)というスウェーデンの古い町
に保存されていたものである。
*
裁判官規則は全部で43か条の規則である。その全体は大きく3つ
の部分に分かれると説明されている。裁判官はじめ公務員に対する
倫理綱領、法格言、そして訴訟手続きの原則である。例えば、「裁
判官は裁判所に判決を求めて来る人々にやさしく接しなくてはなら
ない。もし小言を言うなら人々の話を最後まで聞いてからでなけれ
ばいけない。」とか、刑罰の目的は何かといったことが述べられる。
この中に拷問の禁止が掲げられいることも述べておきたい。ベッカ
リーアは「犯罪と刑罰」の中でスウェーデンが拷問を廃止している
と述べているが、裁判官規則をみるとそれがよくわかる。法格言と
しては、「最高の法は最高の不法である。」「こぼれたミルクは元
に戻せない。」などの格言に出会う。そして、裁判官は一般の人々
のために存在するのであって、一般の人々が裁判官のために存在す
るのではないという裁判官職の在り方などが書かれている。これを
全部紹介することは小稿では無理なので、いずれ機会をみて個別に
紹介することを考えたい。
これらの規則のひとつひとつが何に由来しているかということを
アルムクィストを始めとして様々な学者が研究して論文に残してい
る。また、古い時代のスウェーデンの裁判がどのように行われてい
たかを、この規則を手がかりに研究している学者もいる。
*
ここまで来るとその翻訳はないかという質問が来ると思う。この
規則は英語、ドイツ語、フィンランド語に翻訳されていることを筆
者は確認している。多分仏訳もあると思うが、こちらは目にしてい
ない。スウェーデンの歴史を見れば分かるように、フィンランドや
欧州のバルト海沿岸をかってスウェーデンは支配していた。つまり、
それらの地方において裁判官規則は実務上使われていたといってよ
いと思う。