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常に深く考えた父

2024-01-08 11:26:05 | 日記
避難生活を終えて家に戻った1951年8月、まだ幼い子供たちを残して母が亡くなりました。このことは父を一層の悲しみに突き落としました。母が亡くなって1ヶ月後に兄が軍隊に入り、父は出稼ぎで家にいなかったため、我が家では1番年上の14歳の姉が家長の代わりとなりました。辛く厳しい環境でしたが、父は何事にも揺さぶられることなく、いつも前向きで心が真っすぐな人でした。歳月が過ぎた今だからこそ分かるのは、私に言葉で伝えてくれたわけではないのですが、父は常に深く考えながら冷静に物事を対処していくという行き方を見せてくれていたということです。そのお陰で、私も心の世界について深く考えることができました。目に見えない心の世界について考えを巡らせること自体、まるで虚空をさまよっているようなものですが、聖書を通して心の世界を正確に知るというのは、とても驚くべきことでした。

父のおかげで無事だった

2024-01-05 14:32:35 | 日記
父は私たち家族を村の学校まで連れて行きました。私は父のおかげで、学校の床下に隠れることができました。その時、国軍が撃った鉄砲の弾が飛んできて学校の柱に当たり、辺り一面に火薬のにおいが立ち込めました。私はあまりの恐ろしさにそのまま寝入ってしまいました。気が付いた時には、父が私を背負いながら川の向こう岸に向かって歩いていました。避難した人たちとは反対向に向かっていたのです。まだ暗い夜明け前でしたが、あたりは避難しようとして殺されてしまった人達の死体で一杯でした。私たち家族は、皮肉にも敵軍が占領した地域にそのまま留まっていたおかげで殺されずに済みました。父の機転のおかげで、私たち家族は全員無事だったのです。

敵軍と交戦

2024-01-04 15:30:36 | 日記
どうしたら良いのかを考えているうちに敵軍が目の前まで迫ってきたため、どちらにせよ避難することができなくなりました。避難するためには大きな川を渡らなければならなかったのですが国軍はその川を最終防衛拠点としており、すでにそこでは敵軍との交戦が始まっていたため、銃弾が雨のように降り注いでいました。私たちはいつの間にか敵軍の占領地域に留まることになってしまったのです。

思考深く知恵がある父

2024-01-01 18:58:30 | 日記
父は、何事にも思慮深く知恵を動かせる人でした。朝鮮戦争が起こった時も、やはり父は「父」でした。当日、周りの人たちが避難を始める中、父は避難せずその場に留まりました。当日、私は7歳でした。なぜみんなと同じように避難しないかと尋ねる私に、父は次のように答えました。「そうだねえ。テグとソウルに行く道は知っているけど、そこは敵軍が占領しているし、ほかの都市へ行く道を知らないんだよ。どこに避難すれば良いのか分からないんだ。かと言って避難する人たちと一緒に働けば拳銃や大砲に撃たれる可能性が高くなる。それに寝ることも食べることも、水を飲むことも難しくなるだろう。だから一緒には行きたくないんだ」

戦争で亡くなった弟

2023-12-26 16:41:52 | 日記
父は、私の息子が生まれた1974年に亡くなりました。当日父は70歳でしたが、胃潰瘍を患っておりました。父が亡くなって間もなく、胃潰瘍によく効く薬がたくさん市販されまいた。『市販されるのがもう少し早ければ、あんなに苦しまずに済んだのに...』と思うといたたまれない気持ちになりました。父は5人兄弟の長男でした。すぐ下の弟は日本軍として徴兵され、戦争が終わってからは帰国せずに広島の近郊で生活を始めました。その下の2人の弟は太平洋戦争で出兵したまま梨のつぶてです。父は2人が生きて帰ることを信じて待っていましたが、いまだに消息不明のままです。末の弟は朝鮮戦争で戦死しました。3人の弟を戦争で奪われた父の顔には常に悲しみの影が絶えませんでした。その深い悲しみを分かち合える人すらいませんでした。