カーレースで勝つためには、運転の技術より良い車を選ぶことが何より大切です。欠陥がありスピードが出ず、ハンドルの機能が良くない車では、実力があっても優勝はできません。かえって欠陥のため大きな事故に遭う可能性があります。私たちの人生も同じです。心が良くなければなりません。人の心には色もあれば大きさもあり、鮮明度だってあるのです。欠陥がある車に乗っているときには何とも思わなかったことが、もっと良い車に乗ってみると『こんなに良い車があるんだ!』と感じるでしょう。私が初めに乗った「ポニー」という車はとても良い車でした。次に「ルマン」という車に替えましたが、ポニーとは比べられないほど保温性が高い車でした。ポニーは車内が暖まってもすぐ冷めてしまいましたが、ルマンはエンジンを消した後も1時間以上は車内の暖かさが保たれていたため、冬にはもってこいでした。
最も大きな発見は、自分を過信すると必ず滅びるということでした。それからというもの、いくら良い考えが浮かんできたとしても、もう1度考えることにしました。以前のままだったら再考することなく突っ走っていたことでしょう。本を読みはじめてからは視野が広くなったと自分でも感じます。同じ本でも以前に読んだときとは景色がまるで違って見えるようになりました。特に聖書を読んだときが顕著でした。以前は心を客観的に見る目がなかったために、汚れた心、間違った心を持っていても平気でいられましたが、心を見る目を養うと、自分には持っていない美しいものがほかの人の心にあることが見え始めたのです。私は自然と、自分もあのような心になりたいと思いました。そして望むとおりに心を変えていくことができ、自分の人生が見事に変わりました。
その気付きが私の人生にたくさんの変化をもたらしてくれました。自分が持っている心の尺度が間違っているため、その尺度で何を計っても間違うしかないという事実をはっきりと悟りました。またそれまでは自分のことにしか興味がなかったのですが、ほかの人の意見を受け入れられるようになりました。以前だったら『私よりも劣っている人にできることが、何で自分にはできないのだろうか?それはきっとついていないからに違いない!』と自分を無理に納得させていましたが、自際に自分こそが劣っている者であることが分かったのです。何より自分の心に悪の気持ちがあることを知りました。『私は狡猾な人間なんだ。そして偽り者だ』そう思うとむやみに話したり大声で怒鳴ったりすることも減りました。またこれをきっかけに聖書を読み始めました。聖書の中にある心の世界を知ることで、自分がどれほど未熟な人間なのかをさらにはっきりと思い知らされました。
若い頃、私は友達に会って話すとき、面白く噓を入れることがありました。ありのままを話すより少し大げさに話した方が、自分も楽しかったし聞く側の受けも良かったのです。もちろん悪意はないつもりでしたが、そのうち噓を交えて話すことがクセになっていました。そのクセ自体が負担に感じるようになったときには、やめようと決心してもやめられなくなっていました。19歳のときに陸軍が募集する少年技術兵に志願しました。5月に志願書を出しテグにある第一陸軍病院で身体検査を受けましたが、前歯が折れていることが理由で不合格になってしまいました。何とか合格できないものかと軍医官に切に頼みましたが、「自分が辞表を出す覚悟で合格させてあげても、入隊したらすぐにばれるからだめだ」と言われました。誰でも入れる少年兵志願に落ちてしまったという現実を突きつけられ、自尊心が崩れてしまいました。「私は普通の人間にも及ばない存在だったんだ!」落ちたことでその年の5月から10月まで、自分の本当の姿を見つめる時間ができました。それまで私は自分に対して自信を持っていて、1等にはなれなくても2等か3等にはなれると思っていましたが、実際にはそんなことはありませんでした。自分がいくら荒唐無稽な考え方をしていたとしても、そんな自分を信じていたことに気付きました。そして本当の自分は、醜い心を持っている器の小さな人間であることを知りました。自分が賢くてほかの人より勝っているという自尊心がすべて崩れました。
同期たちはようやく自分たちが酔っていることに気付き、私に自分たちを引率するよう頼んできました。私は皆を車に乗せてハンドルをにぎり、何とか点呼前に全員部隊に戻すことができました。この事例からも分かるように、私たちは自分が悪霊に引きずられやすい存在であることを知るならば、何かを決定する際に軽率な気持ちでは決められないはずです。悪霊は私たちの心に絶えず良くない考えを吹き込んでは私たちを不幸な道に、自殺をするしかない道に引きずります。私たちは心の世界について学び、恐怖に陥る考えが偽りであるということを念頭に置くべきです。そうすれば、その不自然な考えからすぐにでも逃れられるでしょう。